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いまの流山の発展は奇跡に等しい…つくばエクスプレス建設を渋る田中角栄を口説き落とした市長のひと言

プレジデントオンライン / 2023年1月20日 15時15分

つくばエクスプレスTX-3000系車両(写真=Nyohoho/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

千葉県流山市は、全国の市の中で6年連続人口増加率1位となっている。その理由のひとつに、市内中心部を走るつくばエクスプレスの存在がある。新線誘致に尽力した当時の市長に、ジャーナリストの大西康之さんが取材した――。(第2回)

※本稿は、大西康之『流山がすごい』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■御年95の「流山の恩人」だけが知ること

ベビーカーを押すお母さん、地元の高校生、初老の夫婦。さまざまな人が行き交う流山おおたかの森駅。つくばエクスプレスと東武アーバンパークラインが交差する線路沿いにひっそりと立つ御影石の顕彰碑の前で足を止める人はいない。碑にはこう刻まれている。

「昭和60年7月11日、当時の運輸省運輸政策審議会答申において、常磐新線(現つくばエクスプレス)が流山市内を通過することが決定しました。本記念碑は、21世紀の流山市の大躍進をめざし東奔西走されその礎を築かれ市民宿願の東京都心への直結鉄道であります常磐新線を流山市内に立地誘導することに成功しました。流山市にとりまして、大功労者であります第3代流山市長秋元大吉郎氏の御功績を後世にわたり称え顕彰するものです。」

1983年から2期市長を務めた秋元大吉郎。1927年生まれ、御年95歳の古老を訪ね流山市北部の自宅に向かった。

秋元邸の応接間に入ると、「流山の恩人」は正面の定位置に座っていた。「つくばエクスプレス開設当時の話を聞きたい」と伝えると、95歳の古老はしばしメガネの奥の目を閉じ、やがて静かに語り出した。

■田中角栄との会話の内容

「とにかく、あのオーラはすごかったよ。こちらの体にね、ピシピシと伝わってくるんだ」

1985年2月14日、秋元は目白御殿の待合室にいた。やがて呼び出されて応接室に入る。秋元が名乗ると角栄が言った。

「で、その流山市長が何の用だ」

日本列島改造や日中国交回復などを成し遂げ「今太閤」の異名をとった角栄だが、総理の在任期間は2年半(886日)と短い。金権政治批判で総辞職し直後にロッキード事件が発覚。だが、その後も裁判を戦いながら隠然たる権力を持ち「闇将軍」と恐れられた。

秋元が角栄邸を訪ねたのは、子飼いの竹下登らが「創政会」を立ち上げ闇将軍の権力に陰りが見えた1週間後のことだ。

秋元は持参した流山の地図を広げ、当時、地元の請願を受けて運輸省などが検討していた「常磐新線」の必要性と、流山市を通るルートの有用性を懸命に説明した。角栄は秋元にポンッとボールペンを渡した。

「あんたが希望するルートってのを、そこに書いてみろ」

秋元は秋葉原から三郷を抜け、流山市を南北に貫いてつくばに至るルートを書いた。秋元が書いた線を睨みながら角栄が呟いた。

「しかし鉄道はなぁ。今は自動車の時代。鉄道は儲からんのだよ」

■「儲かるのか?」

「列島改造」で上越新幹線、東北新幹線建設のきっかけを作った角栄だが、1985年の時点で国鉄の長期債務は23兆円を超えていた(ちなみに国鉄長期債務の残高は2019年度末時点で16兆円以上残っている)。

第64代内閣総理大臣 田中角栄
第64代内閣総理大臣 田中角栄(首相官邸HPより)

当時の中曽根政権は国鉄改革に頭を悩ませ、国鉄の分割民営化を検討していたが、票田であり集金マシーンである国鉄を擁護する角栄は分割に反対していた。

「高速道路と鉄道が通れば地方は発展する」

角栄の列島改造論はそんな幻想を全国にばら撒いた。だが新幹線が通っても高速道路ができても都市と地方の経済格差は簡単には埋まらず、夢の後には莫大(ばくだい)な借金が残った。政治家や官僚にとって「鉄道」は鬼門であり、流石の角栄も「新線」には及び腰だった。

追い詰められた秋元は土下座をせんばかりの勢いで叫んだ。

「先生、常磐新線は茨城、千葉と東京を結ぶ大動脈になります。必ず儲かります!」

角栄がピクッと反応した。

「儲かるのか?」
「儲かります。今ある常磐線は日本で一番混む『殺人列車』と呼ばれています。輸送需要は十二分にあるのです。新線が通れば沿線の住民はさらに増えます。絶対に儲かります」
「そうか国鉄は赤字でも、この新線は儲かるか。よっしゃ、わかった!」

角栄はその場で黒電話の受話器を取り、日本鉄道建設公団(鉄建公団、現独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構)や運輸省の幹部と話し始めた。

「ああ、俺だ。今、流山の市長が来ていてな。常磐新線は絶対に儲かると言っている。うん、どうやら本当らしい。市長の話を聞いてやってくれ」

30分の面談が終わり、秋元は田中邸を出た。外は肌を刺す寒さだったが、秋元のワイシャツの背中は汗びっしょりになっていた。

その13日後、角栄は脳梗塞で倒れた。しかし角栄に「行け」と言われた鉄建公団や運輸省の幹部たちは、すでに「新線建設」に向けて動いていた。まさにタッチの差だったが、秋元は「権力」という大きな岩を動かすことに成功した。

■「千葉のチベット」と呼ばれた流山

政令指定都市でもないちっぽけな市で、角栄とは縁もゆかりもない流山市長の秋元が目白御殿にたどり着くまでには、かなりの歳月がかかっている。

1981年、当時、秋元は千葉県議会の議員だった。ある日、県の議会で野田市出身の議員が知事に質問した。

「巷で噂になっている常磐新線というのは、我が県のどこを通るのでしょうか」

知事の川上紀一が答えた。

「今のところ県には何も話が来ておりませんが、もしそんな話があるとすれば県としても協力したいと考えておるところです」

秋元はピンときた。すでに野田市は新線の誘致に動いている。野田を通れば流山はルートから外れる。自分と同じ県議だった父親の言葉を思い出した。

「流山にはヘソがない」

1967年の町村合併で誕生した流山市は、それまで東葛飾郡に属していた。現在の市川市、野田市、流山市、浦安市などで構成された東葛飾郡は「千葉のチベット」と呼ばれるほど開発が遅れていた。

流山市の旧市街は市の西側にある江戸川沿いの本町周辺で市庁舎もそこにある。だが常磐線の馬橋から盲腸のようにチョロリと伸びる全長5.7kmの総武流山線(現流鉄流山線)しか走っていない本町は寂れる一方だ。住宅が増えたのは柏と大宮を結ぶ東武野田線の沿線だが、この沿線にも市の発展の核となる街はない。つまり「ヘソがない」のだ。

■秋元市長が焦ったワケ

「新線ルートから外れたら、また流山はおいてけぼりになってしまう」

秋元は焦った。

「また」というのは1896年に開通した土浦線のことを指す。海路を使っていた常磐炭鉱の石炭を陸路で運ぶために茨城県の土浦と東京の田端を結んだこの線ができる時、江戸川を使って味醂や醤油を東京に運ぶ水運の要として栄えていた流山では、住民が鉄道の建設に反対した。

用地買収に困っていた政府に「良ければうちのサツマイモ畑を提供しましょう」と申し出たのが柏の地主である。こうして我孫子、柏、松戸を通る常磐線のルートが決まり、物流の主流が水運から陸運に変わる中、流山はヘソのない「陸の孤島」となった。

■毎週の霞ヶ関・永田町詣で

同じ失敗を繰り返してはならない。

だが1983年の9月、市長に当選した喜びに浸る間も無く、衝撃の事実が秋元の元にもたらされる。千葉県がまとめた常磐新線の「建設が望ましい6ルート案」の中に流山市がほとんど入っていなかったのだ。

6ルートのうち5ルートは柏駅を北に少し迂回(うかい)する形で我孫子と松戸を結んでおり、流山には掠りもしない。1ルートだけが流山の南端を掠める形になっていたが、これでは新線は「街のヘソ」にはなり得ない。

その日から秋元は毎週のように霞ヶ関・永田町詣でを始めた。

国会議事堂
写真=iStock.com/kanzilyou
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kanzilyou

「え、流山。どこだそれ」
「ああ、流れ流れて流山。タヌキしかいねえんだろ」

官僚も政治家も、最初は誰も相手にしてくれない。

気の短いことで有名だった自民党の政務調査会長に陳情しに行くと、怒鳴られた。

「何、鉄道だと? ダメだダメだ。鉄道なんて赤字にしかならん」
「流山市民の悲願です。どうかご一考ください」
「なんだと。ダメだと言っとるのに、まだ分からんか!」

俳人でもある秋元は洒脱(しゃだつ)な言葉のやり取りを得意とするが、喧嘩は好まない。しかし自分の後ろには10万人の流山市民がいる。そう思うと、不思議と力が湧いた。

「話もろくに聞かずにダメはないでしょう。先生は常磐線が『殺人電車』と呼ばれているのをご存知ですか。乗車率170%。日本で一番の通勤地獄です。電車ってのは四角い箱だが、朝の常磐線は膨らんで丸くなってる。自由民主党ってのは、平気で国民をそんな殺人電車に乗せるんですか!」

秋元が啖呵を切り終わると、政調会長は目を丸くしてこちらを見ていた。

■必殺の手土産

運輸省を訪ねるときも怖々だった。東大出の役人たちに議論で勝てる気はしない。秋元は運輸省の廊下を歩くとき、口の中で軍艦マーチを口ずさみ、自分を勇気づけた。

霞ヶ関や永田町に通うときの手土産も忘れなかった。自分と同じ姓の秋元一族が営む天晴味醂が作る「矢切の渡し」という名前の焼酎だ。包み紙には「秋元」と大きく書いてある。名前を覚えてもらうには持ってこいだ。

「いつもお仕事、ご苦労様です。お疲れでしょうから、たまにはこれで船酔いしてくださいな」

そんなことを繰り返すうち、はじめはけんもほろろだった役人たちが「お、流山がまたきたな」と言いはじめ、木更津出身の課長らが「秋元、頑張れよ」と応援してくれるようになった。

■大臣に認められた「人たらし」

運輸官僚の間で有名人になった秋元は時の運輸大臣、山下徳夫に引き合わされた。秋元は運輸省に陳情に行くたびに大臣室に呼び出された。どうやら山下に気に入られたらしい。いつも手土産に「矢切の渡し」を持ってくる秋元に山下は言った。

「流山ってのはずいぶん広いんだな。トウモロコシを育てるには北海道みたいに広い土地がいるんだろ」
「いやいや大臣、流石にトウモロコシは他から買っています。でも焼酎を作るくらいの土地ならいくらでもあります」

この頃、首相の中曽根は政権浮揚を狙って頻繁に内閣を改造したため、山下は1年余りで運輸大臣を去ることになる。運輸省を去る日、山下はたまたま居合わせた秋元を連れて省内を回った。

「世話になったな。ありがとう。ところでこれが流山の市長だ。新線の誘致で一番頑張ってる市長だから、俺がいなくなった後もよろしく頼む」

この時代の政治家は義理堅いところがあったわけだが、大臣にここまで言わせた秋元の「人たらし」ぶりも大したものだ。

■「タケノコ3本で騙された」

霞ヶ関通いを続けるうちに、秋元には新線計画の鍵を握るのが運輸政策審議会という運輸省内の審議会であることがわかってきた。運輸の専門家や有識者が集まって10年後の運輸政策をまとめ大臣に建議する組織だ。その中に流山市の隣の野田市に住む人物がいた。

寺田禎之。1959年に大阪外語大外国語学部(ヒンディ語専攻)を卒業し、61年に日通総合研究所入社。この頃は日通のシンクタンクである運輸経済研究センターで働いていた。運輸研究の第一人者だ。ある日、秋元は自宅の裏庭で取れたタケノコ3本をぶら下げて、寺田のオフィスを訪ねた。

地元愛の強い寺田に、秋元は「東葛地区をなんとか発展させましょう」と訴え、寺田を「流山まちづくり委員会」の顧問に引き摺り込んだ。新線を流山に誘致するための「応援団長」に担ぎ上げられた寺田はのちに、「秋元にタケノコ3本で騙された」とあちこちで言い回り、秋元の「タケノコ3本」は地元で有名なエピソードになった。

秋元の期待通り、寺田は八面六臂(ろっぴ)の活躍を見せた。1986年に流山市、柏市、八潮市、台東区など9つの自治体で作る「常磐新線建設促進都市連絡協議会」が発足し、その下に有識者で構成する交通運輸顧問が創設された。

交通計画学の権威で東京大学名誉教授の八十島義之助、京都大学教授で政策学の泰斗、伊東光晴、元朝日新聞記者で交通評論家の岡並木、元建設官僚で首都高速の建設にも関わった都市計画の専門家、井上孝。錚々たるメンバーを集めたのが寺田だった。

1986年8月には常磐新線建設促進都市連絡協議会の会長である台東区長の内山榮一が、顧問団の意見を元にした陳情書を携えて運輸大臣の橋本龍太郎と面談。党内きっての実力者だった橋本から「新線の建設は緊急課題の中でも特に喫緊な路線である」という言質を引き出し、新線建設はいよいよ現実味を帯びた。

同じ月、秋元は顧問団を乗せて再びヘリコプターを飛ばした。ここまで骨を折ってくれた彼らへのお礼のつもりだった。空の上で寺田が言った。

「こうして空から見てみると、我々の答申はやっぱり正しかった」

■流山に新線の駅が3つもできたワケ

1991年、一都三県と沿線自治体が出資する第三セクター方式で「首都圏新都市鉄道」が発足。この会社が92年に鉄道事業免許を取得し、94年に鉄建公団による建設が始まった。

流山市には都心からつくばに向かい「南流山」「流山セントラルパーク(当初の仮称は「流山運動公園駅」)」「流山おおたかの森(同、「流山中央駅」)」の3駅が作られることになった。

つくばエクスプレス路線図
つくばエクスプレス路線図(写真=Sakwet/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

人口が2倍の柏市が「柏の葉キャンパス」「柏たなか」の2駅、三郷市、八潮市が1駅ずつであることを考えれば、流山が特別扱いを受けているようにも見える。秋元は言う。

「市長が霞ヶ関まで毎週、陳情に行ったのは流山くらいだったでしょう。関係者の方々が最後に一駅、おまけしてくれたのではないかと思っています」

つくばエクスプレスと東武アーバンパークラインが交差する「流山おおたかの森駅」は、秋元の父が求めて止まなかった「流山のヘソ」となり、目覚ましい発展を続けている。

しかし秋元は「まだまだ」と言う。

■「流山の恩人」が気にかけていること

大西康之『流山がすごい』(新潮新書)
大西康之『流山がすごい』(新潮新書)

「つくばエクスプレスの開通で東京が近くなったところで、『母になるなら、流山市。』と子育て世代を誘致したのはいい着想だと思います。ただ流山市には安心して子供を産める場所が少ない。命を守れる街にならなければ、本物のヘソができたとは言えないでしょう」

流山を音読みすると「りゅうざん」になる。「縁起が悪い」と近隣の柏市などで出産する人も少なくない。そんな事情もあって市内には大規模な産婦人科がない。

「東京の人も茨城の人も安心して子供を産みに来られる街になった時、流山市は本当の意味で『母になるなら、我が街で』と胸を張れるのではないでしょうか」

そう語る95歳の御隠居の顔つきは、すっかり「市長」に戻っていた。

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大西 康之(おおにし・やすゆき)
ジャーナリスト
1965年生まれ。愛知県出身。88年早稲田大学法学部卒業、日本経済新聞社入社。98年欧州総局、編集委員、日経ビジネス編集委員などを経て2016年独立。著書に『東芝 原子力敗戦』ほか。

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(ジャーナリスト 大西 康之)

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