シフトを増やそうとしていた…試食販売員だった64歳女性が、「ホームレス」として路上で殴り殺されるまで
プレジデントオンライン / 2023年1月21日 13時15分
※本稿は、樋田敦子『コロナと女性の貧困2020-2022 サバイブする彼女たちの声を聞いた』(大和書房)の一部を再編集したものです。
■所持金8円、路上生活の末に殺された女性の身元
大都会に闇はない。漆黒(しっこく)という表現の世界はどこを探しても見つからないのである。東日本大震災後は暗くなったとはいえ、閑静なお屋敷街でさえ、ほの明るい光が降ってくる。どこに行っても、真夜中でさえも、あかりはつき、人の目がある。ましてや渋谷区幡ヶ谷(はたがや)は新宿にも渋谷にも近いため、上を走る首都高速4号新宿線、すぐ横を走る国道20号甲州街道は、ひっきりなしに車が通る。真夜中でも車のヘッドライトが次々に目に入ってきた。
事件は大都会のど真ん中で起こった。2020年11月17日付の新聞各紙で、この事件が一斉に報道されている。『東京新聞』によると〈16日午前5時5分ごろ、東京都渋谷区幡ヶ谷2の路上で、通行人から「女性が倒れている」と警視庁代々木署に通報があった。女性は通り掛かった50~60代の男に頭を殴られたとみられ、救急搬送されたが、約1時間後に病院で死亡が確認された。〉
被害女性は60代くらいで、路上生活者らしい。付近の防犯カメラには午前4時ごろ、男がバス停のベンチに座っていた女性を殴って逃げる様子が写っていた。女性の所持金は8円。衣服や携帯電話、失効した免許証などを持っていたという。
その後の調べで、女性の身元がわかった。被害者の女性は、広島県出身の大林三佐子(おおばやしみさこ)さん(当時64歳)。派遣会社に登録して、スーパーで試食販売の仕事をしていたという。
登録会社の求人を見て応募する単発仕事。仕事が入るたびにスーパーに出向き、食料や飲料を試食させる販売員の仕事に就いていた。そこにはきちんとした労働契約はなく、仕事があれば働く「業務委託」だという。短期あるいは日雇いの仕事だった。
仕事があれば稼げるが、なければ収入はなくなる不安定な立場。この状態で何年か仕事を続けていれば、家も失い、お金もなくなってしまうのは容易に想像できる。それでもなんとかもちこたえていたのに、それを許さない事情が彼女を襲った。
新型コロナウイルス感染症である。2020年以降、感染拡大を恐れて、対面販売の仕事は極端に少なくなった。人と接触すれば感染するかも、感染させるかもしれない危険が、スーパーの対面仕事を極端に少なくしたという。大林さんは杉並区のアパートの家賃を滞納し、事件の4年ほど前からネットカフェを転々とした後に、路上生活者となっていた。
■元劇団員でアナウンサー志望だった
新型コロナウイルスは、ぎりぎりのところで生活していた人たちを、さらに奈落の底に突き落としたのである。
NHKのドキュメンタリー番組「事件の涙 たどりついたバス停で~ある女性ホームレスの死~」で、埼玉県に住む大林さんの実弟が、彼女の人生を語っている。
20代で劇団に所属して俳優やアナウンサーを目指していたこと、結婚して上京するもののDVが原因で離婚したこと。当時、最先端だったコンピューター系の会社に就職したが、退職や転職を繰り返して50代を迎える。
やがてスーパーで、店頭試食販売員の仕事に就いた。一緒に仕事をしていた女性が証言している。「快活で、子どもに優しかった」と。
大林さんは家賃滞納でアパートを追い出されとみられ、職場にキャリーケースを持ち込んでいた。ネットカフェで寝泊まりしており、派遣元の会社には、何度となく「シフトを増やして」と交渉していたといい、生活を立て直すことに意欲を見せていたそうだ。しかし20年に入り、仕事はなくなった。
繰り返すが、発見されたとき彼女の所持金は8円。携帯電話は持っていたが、料金未払いでつながらなかったという。
■「彼女にこの場所からどいてほしかった」
事件から5日後、母親に付き添われて警察に自首したのは、近所に住む吉田和人(よしだかずひと)(当時46歳)。石の入った黒い袋で、彼女を殴打し、傷害致死罪で逮捕された。「彼女にこの場所からどいてほしかった」「お金をあげるから、この場所からどいてほしい」「応じてくれなかったので腹が立ち、痛い思いをすれば、どくと思った」
そう犯行を自供したが、「まさか死ぬとは思わなかった」と殺意は否認しているという。
家の前の掃除が日課。彼の生きるその世界に、大林さんがいたことが気に入らなかったのか。彼はなぜ大林さんにどいてほしかったのか。その理由が気になった。
■横になることもできない排除ベンチが最後の居場所
彼女がいた幡ヶ谷のバス停は、22時44分、渋谷駅行きが最終。バスが出てから始発が出るまで、彼女はここで過ごしていたと、地域に住む人が話している。
事件後、そのバス停に出向いてみた。なぜだか、居ても立ってもいられなかった。私は彼女と同じ時代に生まれ、同じようにバブル期に青春時代を過ごし、仕事に励み、それなりの収入を得たはずである。趣味にいそしむような楽しい時代もあっただろう。それなのに、こんなにも簡単に命を奪われてしまうものなのか。
「その人かどうかわからないけれど、キャリーケースのような荷物を持っていた人が、終電で帰ったときに座っていたのを見たことがある。うつむいていたので、顔はわからないけれど――。黒っぽいケースを持った誰かいたなあという感じしかない」
心配して声をかけた人もいたようだ。しかし彼女は「大丈夫です、ありがとう」と答えていたという報道もあった。
殴打された夜明けの時刻は、夜間と同じくらいの暗さだったのだろうか。その時間、周囲を歩く人はいなかったのだろうか。「やめて」「助けて」という声は発せられなかったのか。少しまどろんでいるところを突然襲われたため、声が出せなかったのか。バス停前にはクリーニング店があったはずだが、閉まっていて彼女の声は届かなかったのか。
大林さんが座っていたバス停のベンチに座ってみる。幅90センチほどの2人がけのベンチ。しかし、その真ん中には、鉄の手すりがついていて、横になることなどできない。座高も高い。奥行きも座るにはぎりぎりだ。木製で硬い。窮屈(きゅうくつ)なこの場所に座って仮眠をとっていたのか。
以前、女性の路上生活者に話を聞いたことがある。
「夜は怖くて、あかりがあるところでしか眠れない。昼は公園に行ったりしていたけれど、夜はスーパーや銀行など、あかりがあるところでうとうとする程度だった」
日本では20年ほど前から、ホームレス対策として、長居ができないように全国の公園や駅の広場に、このバス停と同じような“排除のためのベンチ”が据え置かれた。
手すりをつける、傾きをつける。ステンレス製の素材で滑りやすい。おおっぴらに排除のためとは言えないから、オブジェやアート作品のように見栄えがよいベンチや椅子もある。思い返してみると、初めてこういったベンチを見たのは、2006年、上野恩賜公園だったか。あれから14年。都会のあちこちで、バス停にまで排除のためのベンチが置かれるようになったのだ。
![ステンレスの金属のベンチ](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/c/d/1200wm/img_cd31822abdf14daee20af3206e3115211154820.jpg)
■助けるすべはなかったか
夜中になると、この狭いベンチで、大林さんは何を考えていたのだろうか。彼女は、必死に生きる方法を探していたのではないか。
徒歩20分ほどの代々木公園に行けば、女性ホームレス支援の『NORAの会』があったのに。彼女は携帯電話を止められ、情報にも窮(きゅう)していた。
もし自分だったら―。仕事がなくなり、家も失い、気軽に頼れる家族も友人もいなかったら、どうするだろうか。
公的支援につながる手だてを知っている人は、それを実行するだろう。しかしそれを知らない、あるいはつながりたくないと考える人は連絡などしない。
仮に大林さんが生活保護を望んでいても、申請すれば、唯一の家族である弟に扶養照会(ふようしょうかい)がいき、路上生活をしていることが知られる。それを恐れていたのか。「まさか、自分が路上生活をするとは……。まさかここで殺されようとは……」
薄れていく意識の中で、彼女の脳裏(のうり)に去来したものはなんだったのだろうか。
■「彼女は私だ」のデモ行進
事件から1カ月も経たない20年12月6日、大林さんを追悼する集会が代々木公園で開かれた。約170人が集まり「彼女は私だ」「路上生活者に暴力をふるうな」というプラカードを持って渋谷駅周辺をデモ行進した。参加した一人に話を聞く。
「本当に他人事ではない。明日は私の身に降りかかってくる出来事かもしれません」
取材で5回、幡ヶ谷に通った。バス停付近の店の人に、事件の話を聞いても素っ気ない答えしか返ってこなかった。中華料理店の女将は「ああ」と答えただけで、話にはのってこない。散歩をしていた高齢の男性が言う。
「もちろん事件があったのは知っているよ。事件の直後は、たくさんの報道陣が来たからね。でも、もう騒がないでほしい。幡ヶ谷の町の魅力が下がっちゃうようで。いい町なんだよ、昔から――」
3回目の訪問で、40年以上も幡ヶ谷の地域に住んでいるという70代の女性に話を聞くことができた。自分は賃貸マンションに住んでいるが、地元の人々は、所有する土地にマンションを建て、そこの家賃収入で生活している人も多いのだという。
「8050(ハチゼロゴーゼロ)問題というのですか。引きこもりらしき息子と溺愛(できあい)する母親、そんな親子をこの地域ではたくさん見かけますよ。都心のマンションの家賃収入なら、家族が食べるには困らないですからね。マンションの管理をしながら暮らしている人は、子どもの同級生にもいる。うちのマンションの管理人も大家の息子。捨てたゴミをいちいち開けて調べるし、燃えないゴミが入っていようものなら烈火(れっか)のごとく怒る。あの子大丈夫かしら、事件を起こさないかしらと夫と話していました」
事件の1年後の21年11月、新宿で追悼集会が行われ、女性たちがふたたび集まった。22年になっても、バス停には花が手向けられていた。
■誰もがちょっとしたきっかけでホームレス状態に陥る
ホームレスが襲撃されたのは、何も今回が初めてではない。
20年1月には上野にいた女性が男性からの暴力を受けた。また同年3月、岐阜で80代の男性ホームレスが大学生から暴行を受けた。双方とも亡くなっている。80年代から現在まで、ホームレスの襲撃事件は、わかっているだけでも27件だといわれている。21年12月には、新宿歌舞伎町界隈などで寝泊まりしながら清掃ボランティアをしていた、ホームレスの男性(43歳)が“トー横キッズ”と呼ばれる若者たちに殴られて死亡している。
いくつもの事件がある中で、大林さんの事件はなぜ心を揺さぶるのか。それはこの事件に、明日の自分を見ているからである。
「ひょっとしたら、将来の私かもしれない」。女性たちは、そこに共有できる不安を抱えている。
「事務所からすぐ近くで起きた事件。もしかして救えたかもしれないと残念でならない」と、渋谷区に事務所がある林治(はやしおさむ)弁護士は後悔の念にかられていた。
「本当にちょっとしたきっかけでホームレス状態にまでおちいってしまう人がたくさんいる。今は動いているからなんとかなっているけれど、止まったら途端に、生活が苦しくなっていく人は多いと思います。僕のところにも毎月ならかろうじて家賃を払えるけれど、家賃の更新時期にやはり苦しく、そこで生活がたちいかなくなるという話も聞きます。きっと潜在的に家の問題で困っている人たちがいるのだと思います」
![東京で日本の貧困](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/b/c/1200wm/img_bc309fbecea26749ad5992d4d93ff2431819496.jpg)
■懸命に生きてきた人が報われる社会は来るのか
20年11月に大林さんが幡ヶ谷のバス停で殺された事件で、逮捕・起訴された吉田被告(48歳)が22年4月8日に都内で飛び降り自殺していることがわかった。保釈中の出来事で、遺書などがあったかどうかはわかっていない。
![樋田敦子『コロナと女性の貧困2020-2022 サバイブする彼女たちの声を聞いた』(大和書房)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/1/9/1200wm/img_19991024624311a6d6474269814bce5b111937.jpg)
いつ保釈されていたのか。5月17日からは、東京地裁での初公判が予定されていた。法廷の場で、彼の抱えていた問題や背景が明らかになるはずだった。殺人にまで駆り立てた彼の中の怒りは何だったのか。それもわからないまま自らの手で終止符を打つとは……。
埼玉県に住む三佐子さんの実弟は、NHKの取材に次のように答えている。
「なぜこの事件を起こしたか知りたかった。気持ちを持って行く場がなくなってしまった」
懸命に生きてきた人が報われる社会は来るのか。自己責任では片付かない社会の病理がそこにあった。
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ジャーナリスト
明治大学法学部卒業後、新聞記者に。10年の記者生活を経てフリーランスに。女性や子どもたちの問題を中心に取材活動を行う。著書に『女性と子どもの貧困』『東大を出たあの子は幸せになったのか』(ともに大和書房)がある。NPO法人「CAPセンターJAPAN」理事。
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(ジャーナリスト 樋田 敦子)
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