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なぜ男性のDV被害者は救わないのか…「かわいそうランキング」上位のみを支援対象にする日本の絶望社会

プレジデントオンライン / 2023年1月22日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Wachiwit

社会の「弱者救済」の仕組みは正しく機能しているだろうか。文筆家の御田寺圭さんは「わかりやすい“かわいそうな人”に対しては手厚い支援があるが、本当の弱者は半ば無視され、その存在は透明化してしまっている」という。なぜ、そうした偏りが生まれ、救済の方向性を修正するにはどうしたらいいのか――。

■沼田牧師からの手紙

東京都北区で教会を運営する牧師・沼田和也氏がこのプレジデントオンラインで私について言及していたようだ。私についてというより、厳密には私が提唱する「かわいそうランキング」という概念についてであるが。

近頃は色々とデリケートな時代で、ひと昔前なら当たり前のように行われていた同じ媒体での著者同士の「往復書簡」が難しい情況になっているのだが、今回は特別にそうした記事を書く機会を与えていただいたので、少し書いていきたい。

■「かわいそうランキング」とは、私たちが目を逸らす、私たち自身の影

私が言論人としてこれまで世に出してきた主張(あるいは問題提起)はいくつかあるのだが、なかでも沼田氏がとくに惹かれているのは、「弱者とは、必ずしも助けたくなるような姿をしているとはかぎらない(助けたくなるような姿をした弱者は、弱者全体のなかでほんのわずかな上澄みだけだ)」――という命題であるようだ。

これこそが「かわいそうランキング」というワードが示す問題の核心部である。

他者からの助力を得なければ、とてもではないが生きていくことができないような、いわゆる「弱者」は、しかし必ずしも助けたくなるような姿をしているとはかぎらない。むしろ実際には「なぜ私たちがこんな奴を助けなければならないのか」という暗い感情が湧き上がってくるような姿やふるまいをしていることの方がずっと多い。それでも助けようと手を差し伸べると、感謝されるどころか攻撃されたり、逆恨みされたりすることさえある。

よって、人間のなかにある素朴な人情や共感にもとづいて「支援」「包摂」「救済」といった営みを実施しようとすると、結果的にそれらの対象のほとんどを「助けたくなるような姿やふるまいをした弱者」が占めてしまう。つまりは女性・子ども・可愛らしい動物といった属性を持つ存在である。ある人がパッと見たときに、わかりやすく「かわいそう」という感情を喚起するような存在によって、人間社会がだれかを助けるために用意されたリソースの大部分は費やされてしまう。

人間の持つ人情・共感性・慈悲など、いわゆる「良心」と呼ばれる感覚によって、「弱者」とされる人びとのなかでも支援や救済のリソースがきわめて不公平かつ不平等に配分されてしまうことを、私は「かわいそうランキング」と呼んだ。

「かわいそう」という感情をより多く集める、いうなれば「上位ランカーの弱者」が、社会的リソースの大部分を集めてしまい、「かわいそう」という感情を持たれない(もっといえば「こんな奴は落ちぶれて当然だ」といった視線を向けられる)ような「下位ランカーの弱者」は、だれの目にも留まることなく透明化されていく。

■「かわいそうランキング」が暴いてしまった不都合な真実

「かわいそうランキング」というワードそれ自体は、2018年に出した拙著『矛盾社会序説』(イースト・プレス)のなかに収められた一篇に登場しただけで、その後の私の著書や雑誌寄稿やメディアには登場していない。出演するラジオでもこのワードを使ったことはおそらく一度もない。にもかかわらず、このワードは「ネットミーム」として今日まで使われ続け、大きなセンセーションを呼んでいる。

御田寺圭『矛盾社会序説』(イースト・プレス)
御田寺圭『矛盾社会序説』(イースト・プレス)

「かわいそうランキング」がそれほど大きなインパクトを与えた理由は、この社会に蔓延する差別や不平等が、必ずしも「悪意」によって生み出されているわけではないことを示したからだ。

この社会にいまだ根深く存在する差別や迫害や不平等や疎外は、悪辣(あくらつ)な差別主義者や排外主義者の憎悪や暴力によってそのすべてがもたらされているわけではなく、日々を懸命に生きる人びとの素朴な「善意(の偏在)」によって生み出されている側面も、前者と同じかそれ以上に大きい。

「この社会のどこかにいるラスボスを倒せば世界からきれいに差別や不平等がなくなるのだ」という、わかりやすい勧善懲悪の物語を否定してしまったのも「かわいそうランキング」だった。

自分の心のなかにある正義感や素朴な良心に従って他者を助け、それが差別や不平等や憎悪や分断のない社会を実現すると信じていた人にとって「あなたのそうした善意がむしろ差別や不平等の温床となっている」と指摘するこの問題提起はあまりにも認知的不協和が著しく、私が言論界において「なぜ言論の機会を与えているのか」「こんな奴の言論を支持するべきではない」などと謗られる最大の原因となっている。

いずれにしても、人情や共感や慈悲といった人間の個人的な「良心」では、どうしても弱者救済の対象選定やリソース配分が偏ってしまうからこそ、人間の良心の働かない非人間的な「公」のセクションにその役割を付託することによって、「弱者救済の公平化」を図るべきだろう――という解決策の提示までが、2010年代における「かわいそうランキング」をめぐる議論だった。

■「公」までもが、弱者を選別していた

だが、2020年代に入って、この議論が崩れつつある。

というのも、「公」そのものはたしかに非人間であり人情や共感性を持つことはないとはいえ、結局は人がつくったシステムに過ぎず、最終的には人間の人情や共感性に近似した結果をもたらす――という絶望的なエビデンスが揃ってきているからだ。

一例を挙げよう。「公」の代表格である行政(自治体)を見てみると、たとえばかれらが市民社会に提供している「弱者支援」の代表例であるDVについての電話相談、法律相談、一時避難シェルターなどの対象は、そのほとんどが女性に偏っている。男性に対しては設けられていないか、あるいは設けられているとしても女性に比べれば天と地ほどの差がある。

あるいは「公」に準じる教育機関でも同じようなことが起こっている。たとえば大学の理系研究職や入学希望者について「女性枠」が設けられることが近年ではスタンダードになりつつある。しかしながら統計的に見れば、親や周囲から進路についての介入を受けている女子は少ない(周囲からの介入を受けているのは男子の方が多い※1)。また女子の方が自分のことを「文系タイプ」と自負しており、なおかつ進路に理系を希望する割合も男子に比べて女子の方が少ない(※2)。つまるところ、もっぱら自分の意思で理系を忌避しているに過ぎないにもかかわらず、世間は「女性は本人の意思に反した進路を強いられている」と同情的に解釈してゲタを履かせることに同意してしまう。

※1 男女共同参画白書 令和元年版 『育て方における家族の意識(勉強について)』より引用
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-19.html

※2 男女共同参画白書 令和元年版 『文系・理系に対する意識(中学生,男女別)』より引用
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r01/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-10.html

市井の人びとそれぞれが自分の「良心」に従って他人を助けてしまうと「わかりやすく同情・共感できる弱者」にばかり助けの手を差し伸べてしまう。だからこそ、そうした人間的な良心によって対象を選別しない“社会システム”に人びとの持つ救済リソース(税金・マンパワー・インフラなど)が預けられるべきだ――という建前論が「社会支援」の意義を語る際にはあった。……だが肝心の社会システムも、俗世を生きる人間の「良心」を持っているのと変わらないような施策を打ち出していた。そのことを私たちは2020年代に入ってすぐ、次々とエビデンス付きで突きつけられるようになってしまった。

差し出した手をつかもうとする手
写真=iStock.com/Ritthichai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Ritthichai

■「コラボ問題」が全方位から批判の声を集めている理由

ご存じのとおり、いまSNSやインターネットでは、虐待や性被害などを受けた女性支援を活動目的とした一般社団法人「Colabo」の会計上の疑惑をめぐる論争(東京都からの事業委託料を不正に受給しているのではないかとの指摘と、それに対するColabo側の反論)――いわゆる「コラボ問題」があらゆる方面に波及し、大きな騒動となっている。

画像=「Colabo」公式サイトより
画像=「Colabo」公式サイトより

これがもはや「ツイッターの一部界隈のバトル」といったスケールをはるかに超え、行政や政府やNPOなどの「女性支援」という事業あるいはジャンルそのものに対する怒りにまでその規模を拡大させている(※3)。これはおそらく偶然ではない。

※3 https://news.yahoo.co.jp/articles/11a923dec8a039c7016ee6d7197e12b5df03fcf5

人間一人ひとりに弱者救済の営みを任せてしまっては、どうしても「かわいそうランキング」に従って弱者を助けてしまうからこそ、救済は人間ではなく人間がつくった「公(行政・政治・司法)」的なシステムにいったん預けるべきだ――という建前がことごとく崩壊し、ほとんどの人がそのスキームに合意できなくなってしまっているからだ。

結局のところ「公」と呼ばれた領域すらも「かわいそうランキング」の影響下にあり、人間一人ひとりが私的に弱者救済するよりもずっと大きな規模で「不公平・不平等な救済」を再生産していた。この絶望的な現実を象徴するダメ押しの一手となってしまったのが「コラボ問題」だったのだろう。

「コラボ問題」は、最初はSNSの一部界隈にだけ注目を集める小さなボヤ騒ぎに過ぎなかったかもしれないが、いまはもう違う。これは後々ふりかえってみれば、人びとが想像している以上に大きな禍根を残すのではないだろうか。

Colaboという団体の健全性が追及される過程で副次的に明らかになってきた、行政や政治によって公認され後押しされている「救済対象の偏り」は、人びとの人情や共感では救済され得ない「透明化された人びと」からすれば「きっと『公』なら『私』よりもずっと平等で公平な救済をしてくれるはずだ」――という、最後の望みを完全に潰されてしまうような形になってしまったからだ。

人情や共感を持たない、言ってしまえば「融通の利かない救済」を達成するからこそ平等や公平を担保すると期待されていた「公」が、実は生身の人間さながらに人情や共感をベースにしてシステムをつくり、制度的にも予算的にもより大きなスケールで「かわいそうな弱者」を助けようとしていた――この身も蓋もない現実は、「かわいそうランキング」によって社会の辺縁部に棄て置かれ、置き去りにされてきた人びとから見れば、絶望以外のなにものでもないだろう。

この問題について、SNSのジャンルやクラスタを問わずさまざまな方面から男性たちの怒りの声が上がっているのは、自分が公的にも私的にも差別され、語弊をおそれずにいえば「下級市民」扱いされていたことをはっきりと気づかされてしまったからだ。100年200年のちの歴史書に、この国における分断を決定づけた象徴的な契機として記述されたとしても私は驚かない。

■イエスや親鸞の慈愛

こうした現状を、私が提唱した「かわいそうランキング」という概念について自著で取り上げた牧師の沼田氏の“専門領域”ではどのように扱っているだろうか。

キリスト教や仏教といった伝統的な宗教(の指導者)が往々にして「弱者が必ずしも助けたくなるような姿をしていない」ことに言及しているのは偶然ではないだろう。

市民社会にせよ公的セクションにせよ、結局「人間」が関与してしまうと、どうしてもこの“業”から逃れられないことが、かれらには分かっていたからだ。

人間の素朴な良心や慈悲心では助けたくならないような弱者をそれでもあえて救うのであれば、もはや人間の業ではなく、神や仏のような「人間ではない何者か」の御業を期待するしかない。

なぜイエスや親鸞は貧しく薄汚れた身なりをした、つまり世間的には「卑しい」とされていた人びとにこそ愛情深く接したのか。かれらは人間の「やさしさ」「善意」「良識」「道徳」の持つ冷酷な表情を知っていたからだ。人間の美しく清くただしい心では、どうしても救われない者こそが、真に救いを必要とする弱者であることに、かれらは気づいていたからだ。

赤いハート型のオブジェを持つ女性
写真=iStock.com/Sewcream
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Sewcream

また「人間とはかくあるべきだ」と、世間に向かって善や正義や道徳がなんたるかを公然と説く、物質的にも教養的にも優位な学者や貴族が、むしろそうした弱者にさらなる苦境をもたらしていることにも気づいていた。人間が説き、人間が実践する「ただしさ」によっては救われえぬ者たちのためにこそ、かれらは神や仏による「赦し」があることを伝えた。

人間の営みのなかでは棄て置かれるかれらこそが、本当に助けられるべき弱者であることを、かれらは分かっていた。

■世界を壊すのは、悪意の存在ではなく、善意の偏在

私が言論人としてやっているのは結局のところ「なぜイエスや親鸞が、世間から見捨てられた『卑しい人』にこそ愛情深く接したのか」の理由を21世紀になってふたたび説明しているに過ぎないだろう。

イエスや親鸞はもうこの世にはいない。だからこそ、かれらがやろうとしていたこと、伝えようとしていたことを――もちろんかれらの営みを完全に再現することは凡人のわれわれには不可能であるとしても――私たちも言葉にして、可能なかぎり引き継がなければならない。

私たちはおめでたいことに、自分では心からの「善行」のつもりで、助けたい者だけを助け、その結果として世の中に憎悪や分断の種を播いている。自分の欲求に従って助けたい者だけを助けているに過ぎないのに、それが社会全体の「共生」や「相互理解」や「平和」につながると思っている。

だが実際には、私たちの「善意」や「やさしい心」や「共感性」や「良心」はこの社会の調和を乱し、融和を壊し、分断を煽り、軋轢を強め、憎悪を蓄積させ、絶望を深めている。こんな愚かで罪深いことが他にあるだろうか。

この世界が壊されてしまうのは、「悪意の存在」ではなく「善意の偏在」によってだ。

私たちは、「善意」から背を向けて遠ざかり、陽のあたらない薄暗く汚い場所にいる人びとにこそ、目を向けなければならない。遠い昔に、かれらがやっていたことを、やるべきだと伝えていたことを、21世紀に私たちが引き継がなければならない。

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御田寺 圭(みたてら・けい)
文筆家・ラジオパーソナリティー
会社員として働くかたわら、「テラケイ」「白饅頭」名義でインターネットを中心に、家族・労働・人間関係などをはじめとする広範な社会問題についての言論活動を行う。「SYNODOS(シノドス)」などに寄稿。「note」での連載をまとめた初の著作『矛盾社会序説』(イースト・プレス)を2018年11月に刊行。近著に『ただしさに殺されないために』(大和書房)。「白饅頭note」はこちら。

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(文筆家・ラジオパーソナリティー 御田寺 圭)

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