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NHK大河ドラマでは完全にスルーされたが…今川家の武将・徳川家康が織田家に寝返った本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年1月25日 18時15分

「近世の曙」石碑(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

今川家の武将だった徳川家康(当時は松平元康)は、なぜ仇敵の織田信長と同盟を結んだのか。歴史家の安藤優一郎さんは「大河ドラマでは信長を怖れ、今川家を裏切ったように描かれているが、それは違う。桶狭間合戦の後も今川家は健在で、裏切るメリットはなかった」という――。

■今川勢として参加した桶狭間の戦い

家康がまだ松平元康と名乗っていた時代、後に強固な同盟関係を取り結ぶことになる織田信長はまさしく敵だった。家康が信長と交戦状態にあった今川義元に従属していたからだ。

ところが、永禄三年(一五六〇)五月の桶狭間の戦いで信長が義元を討ち果たしたことを契機に、今川氏を見限ることになる。今川氏と断交し、戦国大名として自立する道を選んだ。

そのためには、仇敵たる信長と手を結ぶことさえ辞さなかった。そして、両者の同盟関係は信長の死まで続いた。

姉川の戦いの時のように、信長からの要請に応えて援軍を率いて戦場に駆け付けただけではない。信長との同盟関係を維持するためには正室と嫡男を犠牲にすることも厭わなかった(築山殿事件)。

そんな信長との間柄は律義な家康というイメージづくりにも大きく貢献したが、もちろん事実関係としては間違っていない。

だが、当時の状況を丹念に見ていくと、桶狭間の戦い後、岡崎城に戻った家康があたかも掌を返すように、今川家と手切れに及んだというのは事実ではない。

そもそも、家康は桶狭間の戦いの後も信長との戦いを続けていた。要するに、今川方としての立場に変わりはなかった。父義元を討たれた今川氏当主の氏真に対し、弔い合戦を進言したという話も伝えられる。

つまり、家康が今川氏との断交を決意するまでには、一定の時間があった。その事実は、桶狭間の戦いというよりも、その後の家康を取り巻く情勢の変化が決定的な理由だったことを暗に示している。

そうした観点のもと、家康が今川氏と断交するまでの過程に注目してみたい。

■信長との合戦は続いていた

桶狭間の戦いにより、今川氏は義元や大勢の家臣を失うという大打撃を被ったが、イコール今川氏が滅んだわけではない。当時、義元は隠居の身であり、既に嫡男の氏真が今川氏当主の座に就いていた。桶狭間で当主が討死したのではなかった。

敗戦により尾張侵攻の拠点を失ったものの、三河のほとんどはいまだ駿河・遠江を領国とする有力戦国大名今川氏の支配下にあった。そんななか、家康が反今川の旗幟(きし)を示せばどうなるのか。要するに周囲は敵ばかりであり、袋叩きに遭うのは避けられない。

氏真の背後には甲斐の武田氏、相模の北条氏もいた。三者が同盟関係にあった以上、家康としては軽々に今川氏と断交する決断などできるはずもなかった。

そして、何よりも正室瀬名と幼い長男信康と長女亀姫が駿府城下にいた。人質に取られた格好だった。

となれば、家康が桶狭間の戦い後も、今川氏に従って信長との戦いを続けたことは何の不思議もない。実際のところ、西三河の城で信長に属していた西加茂郡の挙母・梅ケ坪・広瀬、沓掛城を攻撃している。

狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
狩野探幽筆「徳川家康像」(写真=大阪城天守閣所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

■今川氏から一門として厚遇された家康

幼少期の家康が居城岡崎城を離れ、遠く駿府での生活を強いられたことは良く知られている。よって、今川氏の人質だったイメージは今なお強いが、近年の研究はそのイメージに変更を迫っている。松平氏が従属の意思を示すために送った人質には違いなかったが、今川氏ではむしろ家康を厚遇していたからである。

家康が今川氏の本拠地たる駿府に送られたのは、天文十八年(一五四九)のことである。八歳の時から十年余、駿府での生活が続いたが、その間、今川氏は家康を一門として処遇した。その象徴こそ、今川氏の重臣関口氏純の娘瀬名を娶らせたことだった。家康十六歳の時だった。瀬名は義元の姪にあたったため、この婚姻により家康は義元と姻戚関係になった。

十四歳の時、家康は元服して松平元信(後に元康と名乗る)と名乗るが、「元」の字は義元から賜ったものである。いわゆる偏諱だが、これもまた今川氏による厚遇の表れだった。義元の軍師太原雪斎から教育を受けたことも、今川氏が家康を大事に扱ったことを示すものに他ならない。

こうした事実から、今川氏が三河の有力領主(国衆)の家康を厚遇したことは明らかとされる。一門として処遇することで今川氏を支える柱石として成長するのを期待する目論見が秘められていた。

そして、桶狭間の戦いでは先鋒を命じた。尾張が隣国にあたったこともさることながら、それだけ家康は戦陣での働きを期待したのである。

■北条・武田氏との提携を優先させた今川氏

当時の家康が置かれていた状況からすると、今川氏と断交するメリットはなかった。というよりも、デメリットの方が大きかった。それゆえ、義元が討たれたからといって、すぐさま今川氏と断交する積極的な理由などなかったと考えるのが自然だろう。

ところが、今川氏が三河への影響力を弱めていったことで、状況が一変する。そのきっかけとなった出来事が関東で起きていた。

今川氏と同盟関係にあった北条氏は、桶狭間の戦いから三カ月後にあたる八月より越後の長尾景虎(上杉謙信)による関東侵攻を受けていた。翌四年(一五六一)三月には居城小田原城での籠城戦に追い込まれる。

これに対し、北条氏は同盟関係にあった武田氏に支援を要請し、武田氏の援軍が小田原城に入っている。北条・武田VS上杉の図式で合戦は展開したが、同じく同盟関係の今川氏も北条・武田陣営としての行動を要請されていた。

しかし、そのぶん三河への対応は不充分なものにならざるを得なかった。影響力が低下するのは必至だった。

これに好機とみたのが信長だったのではないか。それまで今川氏の傘下に入っていた領主たちを調略し、三河への影響力を強めようと目論む。今川氏のバックアップに期待できなくなった領主たちは動揺し、織田方に走る者も少なくなかった。

そんななか、三河刈谷城主の水野信元の仲介により、家康と信長は和睦する運びとなる。永禄四年二月のことであった。信元は家康の母於大の方の兄であるから、伯父にあたる。

信長からすると、それまで交戦状態にあった家康との和睦には隣国美濃の平定戦に専念できるメリットがあった。家康にも尾張の動向を気にせず、念願の三河平定に専念できるメリットがあった。

こうして、家康は今川氏と断交する方針、つまり信長との同盟に舵を切ったのである。桶狭間の戦いから約九カ月後のことだった。

■信長の後ろ盾を得て三河平定に乗り出す

信長との同盟締結から二カ月後の四月に、家康は東三河の牛久保城に対する攻撃を開始した。牛久保城は当時今川氏に属する牧野氏の城であり、この攻撃とは今川氏とは断交する意思を示すものに他ならなかった。

後に牧野氏は家康に服属し、家臣として忠節を尽くす。だが、当時は三河の有力領主という点で両者に上下関係はなかった。敵対していた。

これを皮切りに、家康は今川氏に属する領主との戦いに突入していく。

安藤優一郎『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)
安藤優一郎『徳川家康「関東国替え」の真実』(有隣堂)

家康の離反に呼応し、同じく今川氏と断交する領主も次々と現れた。こうして、三河は引き続き今川氏に属する領主と、家康のように反今川の旗幟を鮮明にした領主に分かれ、内乱状態に陥る。いわゆる「三州錯乱」であった。

家康が離反したことを知った氏真は激怒する。「岡崎逆心」という言葉を使って憤慨しているが、今川氏からすれば厚遇した家康に裏切られたという気持ちが非常に強かったことをこの言葉は示している。期待して恩寵を与えた分だけ、裏切られた気持ちはより強かったのだ。

以後、家康は今川方の領主を服属させ、あるは三河から駆逐することで、念願の三河平定を実現していくのであった。

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安藤 優一郎(あんどう・ゆういちろう)
歴史家
1965年千葉県生まれ。早稲田大学教育学部卒業、同大学院文学研究科博士後期課程満期退学。文学博士。JR東日本「大人の休日倶楽部」など生涯学習講座の講師を務める。主な著書に『明治維新 隠された真実』『河井継之助 近代日本を先取りした改革者』『お殿様の定年後』(以上、日本経済新聞出版)、『幕末の志士 渋沢栄一』(MdN新書)、『渋沢栄一と勝海舟 幕末・明治がわかる! 慶喜をめぐる二人の暗闘』(朝日新書)、『越前福井藩主 松平春嶽』(平凡社新書)などがある。

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(歴史家 安藤 優一郎)

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