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呉座勇一「NHK大河ドラマはまったく違う…"徳川家康は我慢の人"のイメージは偽造だった」

プレジデントオンライン / 2023年1月27日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuremo

「徳川家康の名言と言われる“人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし……”は本人の発言ではなく偽造」「家康と家臣は、人質時代に今川家から抑圧されていたという話を作り上げ、今川への“裏切り”を正当化した」「嫡男信康切腹事件で織田信長が命令したという一次史料はない」……ベストセラー本『応仁の乱』でお馴染みの歴史学者・呉座勇一氏が大河ドラマで話題の徳川家康を暴く! 1月27日(金)発売の「プレジデント」(2023年2月17日号)の特集「徳川家康、長生きの秘密」より、記事の一部をお届けします――。

■家康の名言は偽造だった!

徳川家康には「我慢の人」と「タヌキ親父」というイメージがあります。「我慢の人」で、すぐ思い浮かぶのは「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず」の名言でしょう。しかし、これは家康の言葉ではありません。

明治時代に旧幕臣の池田松之助が、水戸光圀(みつくに)の遺訓と伝わる「人のいましめ」を基に偽造したもので、広まったのは日光東照宮など、各地の東照宮に納めたからだとされています。また、この名言の起因となったのは、幼少期の家康が人質として今川家で苦難の日々を我慢しながら送ったというエピソードで、源流は大久保彦左衛門(家康・秀忠・家光三代に仕えた譜代家臣)の『三河物語』に行き着きます。

しかし、今川義元は姪の築山殿(つきやまどの)と家康を結婚させて一門に加え、今川家を支えていく重臣にするつもりでしたから、むしろ丁重に扱われていたのです。ところが桶狭間の戦いで今川義元が戦死すると、家康は織田信長と和睦(わぼく)し、今川方の城を攻撃して、三河を平定。最終的には武田信玄と同盟して、今川氏を滅ぼしました。普通に考えれば「恩を仇(あだ)で返す」ものにほかなりません。

そうした裏切り者のイメージは、徳川家にとって不都合なわけです。江戸時代は、家康は「神」ですから、一点の曇りもない存在でなければいけない。そこで「家康と家臣は、今川家から抑圧されていた」という話を『三河物語』で作り上げ、裏切りを正当化していったのです。そう考えると家康は、「我慢の人」ではなくなってきます。

もう1つ、徳川家康が我慢の人であるとイメージ付けたのが「信康事件」です。信長の命令で、泣く泣く、嫡男信康を切腹させたとされる事件ですが、実は後世の脚色という説が有力です。

信長が命じたことがわかる一次史料は存在しません。家康が信康を処分することに対し、信長は許可を出したようですが、積極的に命令した形跡はない。先の『三河物語』でも、信長が全部悪いという書き方はされていません。むしろ信康を中傷した妻の徳姫(信長の娘)への憤りなどを記しています。

『三河物語』と同時代の『松平記』は家康の妻である築山殿の「悪女説」を採用しています。それらを踏まえて考えられるのが、「徳川家にもやましいことがあったのではないか」という見方です。つまり、信長の命令ではなく、家康が信康を自分の意思で切腹させたとも考えられる。近年の研究では、信長から信康殺害の指示が出たことに否定的です。

さらに別の視点ですが、戦国時代には子どもや家族を殺すのは珍しくありません。武田信玄も息子を殺しているし、信長も弟を殺している。しょっちゅう戦争をしている時代なので、親子や家族でも油断ならない存在なのです。骨肉の争いが普通にあるわけです。

しかし、江戸時代は平和な世の中で価値観が変わり、家族で殺し合いをすることは受け入れられません。江戸時代は家康は神様ですから、息子を殺したとなると、都合が悪い。そこで家康が命令したのではなく、信長の命令で従わざるをえなかったという物語が作られた。時代を経るごとにお涙頂戴のストーリー展開が強調されていったようです。

家康にまつわる代表的な定説の誤解

■タヌキ親父は豊臣贔屓の言い掛かり

「方広寺鐘銘事件」は、大坂冬の陣の原因となったとされる方広寺(京都)の大仏殿の鐘銘をめぐる事件です。大仏殿が完成し、開眼供養の前に、徳川方は鐘銘に「国家安康(こっかあんこう)」「君臣豊楽(くんしんほうらく)」の文字があることを咎(とが)め、供養の中止を命じました。「国家安康」は、徳川家康の名前が分割されて使われており、それが家康を呪詛するとされたのです。

徳川方が挑発して戦争に持ち込んだという話がありますが、これは誇張されています。もちろん、まったく挑発の要素がなかったかと言われると、ある程度はあったと思います。ただし、家康が是が非でも戦争に持ち込もうとしていたと言えるかどうかは疑問です。

現代の感覚からすれば、「政治問題としてちょっと騒ぎ立てすぎ」という側面はあります。一方で、当時の感覚からすれば、「徳川方が怒るのは無理もない」という面もあるのです。「国家安康」で、家康の名前の「家」と「康」を切っているのは事実で、これは問題でしょう。当時は相手の名を利用した呪詛(じゅそ)の作法があったので、「呪詛するものだ」と言われてもしょうがない。そうなると、豊臣方に致命的なミスがあったと言わざるをえません。

しかし、徳川方が何が何でも戦争に持ち込もうとしていたかというと、そうではありません。徳川方が示した「三箇条(秀頼の駿府と江戸への参勤/淀殿を江戸詰め〈人質〉とする/秀頼が大坂城を出て他国に移る)」は、秀頼の安全と豊臣家の存続を図るのには必須事項でした。豊臣方からすると理不尽なことに見えますが、天下人である徳川家康からしてみたらむしろ譲歩した要求で、「今までかなり我慢してきたんだ」という思いがあったはずです。豊臣家は生き残ろうとしたら、3つのうちのどれかをのむべきだったと思います。

そもそも「国家安康」のチェック体制が甘かったのは、明らかに豊臣家の手落ちです。銘文を考えたのは東福寺の禅僧・文英清韓ですが、いくら立派な僧が書いたからといっても、そのまま使うのではなく、「セカンドオピニオン」を聞くべきでした。一方で徳川家から諮問(しもん)を受けた五山僧は、名前の分割を批判しています。それだけ呪詛の観念が強い時代だったのです。

■時代の変遷とともに評価が180度転換

方広寺鐘銘事件を口実に豊臣家を挑発して「大坂冬の陣」に持ち込み、大坂城の内堀の埋め立てなどの謀略で、豊臣家を滅ぼした流れが、家康を「タヌキ親父」のイメージにしました。しかし、時代の変遷とともに、家康の謀略に対する解釈が変わってきます。

家康を神と崇(あが)めている江戸時代の史料では「家康が策謀により豊臣家を滅ぼした」と書いています。一見、家康を悪く書いていると読めますが、江戸時代は、家康は悪辣(あくらつ)な陰謀をやったという描き方ではなく、むしろ「見事な策によって豊臣家を滅ぼし、徳川の安泰(あんたい)の、磐石(ばんじゃく)の世を築いた。天下泰平の世を築いた」と肯定的に捉えています。

一方、明治以降は、家康を神として崇めなくてはいけない縛りはなくなるので「主家を無理やり滅ぼした悪辣な陰謀なんじゃないか」という見方に傾きます。すると日本人の素朴な感情として、卑怯な感じがつきまとい始めます。よって明治以降はタヌキ親父のマイナスイメージが定着しました。

ところが戦後は、またもや家康像が転換。山岡荘八の歴史小説『徳川家康』は、織田をソ連、今川をアメリカ、徳川を戦後の日本に見立て、平和を求める戦後日本の苦難の歩みを、家康を通じて表現しています。連載開始時は、家康は「タヌキ親父」として嫌われていたので人気が出なかったそうです。

しかし、同書は昭和30年代に「経営者必読の書」として注目を集めます。山岡の意図は平和の尊さを訴えるものでしたが、家臣を大切にする家康の生き方が、戦後の家族主義的な企業経営の理想像と見なされました。そしてタヌキ親父と非難されてきた家康の行動も、肯定的に評価されたのです。

いよいよ大河ドラマ『どうする家康』が始まりました。松本潤さんは私が想像する家康の風貌と異なりますが、どのように描かれていくのか楽しみです。でも、戦国時代の英雄として美化するのではなく「家康にも情けない部分がある」という負の側面も描き、これまでの家康像を大転換してもらえたらと期待しています。

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呉座 勇一(ござ・ゆういち)
信州大学特任教授
国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。

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(信州大学特任教授 呉座 勇一 構成=篠原克周)

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