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だから日本人は体調不良でも休みにくい…宮崎県知事の「コロナ感染隠蔽工作」に現役医師が憤るワケ

プレジデントオンライン / 2023年1月26日 9時15分

自身の行動歴に関する地元紙への情報提供を巡り、一連の経緯と自身の処分について県議会で説明する河野俊嗣宮崎県知事(=2023年1月20日午後、同県庁) - 写真=時事通信フォト

■地元紙に“隠蔽工作”を図ったとして無給処分

新年早々、とんでもない事実が明るみにでた。昨年12月25日に行われた宮崎県知事選挙で4回目の当選を果たしたばかりの河野俊嗣知事が1月2日に新型コロナウイルスに感染したことを踏まえ、県が地元紙である宮崎日日新聞に対して、その前日の元日の知事の行動について事実を隠蔽(いんぺい)する工作を図ったというのだ。

結局この工作は失敗に終わり、知事は謝罪の上、自身の給料を2カ月分全額カットする意向を明らかにしたことでひとまず決着をみた。メディアも事実関係の報道のみで深層の分析を行わないまま一連の事件はもはや過去のものとされつつある。

しかし、本件は、大きく2つの問題を孕(はら)んでいる。1つは感染症についての自己中心的思考、そしてもう1つは政治とメディアの関係である。今回の事件はこの2つの問題点を、極めて端的に炙り出したものであると言えることから、本稿ではこれらについて、ひとつずつ丁寧に考えていくこととしたい。

まずは一連の経過を、メディアの報道を基におさらいしておこう。以下は当事者である宮崎日日新聞から1月5日に発せられた記事である。

■初詣の翌日、「コロナに感染したので変更したい」

「河野知事行動歴 宮崎県が変更依頼 陽性判明後『初詣削除を』」

河野知事の新型コロナウイルス感染を巡り、県が本紙掲載の「知事の動き」1月1日分について行動履歴を変更するよう依頼した。県は当初、「宮崎市の宮崎神宮、県護国神社に初詣」と記載したメールを送っていたが、陽性判明後、秘書広報課職員が「終日、公舎などで過ごす」への変更を求めた。しかし、本紙は当初のメール通り3日付紙面で掲載。担当職員は「提案は適当ではなかった」としている。

「知事の動き」は、知事の動向可視化のため総合面に毎日掲載している。新聞製作を休んだ1日、初詣の記載が入った同日分のメールを午後9時20分に受信。しかし、担当職員から2日午後5時過ぎに「知事がコロナに感染したので変更したい」との電話があり、同5時24分に「終日、公舎などで過ごす」への変更を求めるメールが届いた。その後、同5時52分にメディア各社に感染を知らせる発表資料が届いた。

報道機関に知事の動向を改竄するよう県が要請したのは論外であることは言うまでもない。この点については前掲した問題点の2つめとして後述するとして、まずは1つめの問題点である「感染症についての自己中心的思考」を考えるにあたって、知事が元日にとった行動について検証していくこととする。

■「体調に異変があれば外出控えて」と呼びかけた矢先

この報道を知った時私は即座に、河野知事は「自身の体調不良を自覚しながら初詣に行った」のか、それとも「まったく無症状で初詣に行き、帰宅後に発症した」のか、そのいずれであるのかによって、この事件の扱いがまったく変わってしまうと感じた。

そもそも河野知事は、昨年12月27日に県独自の「医療非常事態宣言」を発令、自ら記者会見も行って「少しでも体調に異変がある場合」は外出・移動を控えてと県民に呼びかけていた。その知事が、もし自ら体調不良を自覚しつつ外出していたのであれば、県民を裏切る行為であるばかりでなく、人々の感染対策に対する認識と行動を根底から覆すことになりかねない重大な問題行為と言えるからだ。

そしてその私の懸念は、残念ながら的中した。河野知事は初詣に出向いた元日より前の12月30日には、すでに喉の痛みを自覚していたというのだ。じっさい知事の「河野しゅんじページ」というFacebookアカウントを見てみると、問題発覚後の1月5日の書き込み(以下「知事の書き込み」という)の中に、「いま振り返ると、12月30日から多少喉の痛みは感じていました」との記述が確認できる。

■どうしても外出は避けられなかったのか

そしてその記述に続けて「選挙後ずっと喉がいがらっぽい状態が続いており、選挙で喉を酷使した影響によるものと考えていました。倦怠(けんたい)感なども、1日夕方まではありませんでした」と記されており、知事は元日の「14時頃に、初詣のため宮崎神宮・宮崎県護国神社を訪れ」た時点では、自身がコロナに感染している可能性をまったく認識していなかったとの主張が読みとれる。

知事が初詣の時点で「もしかしてコロナに感染してしまったかも……」と思っていたかどうかはわれわれにはもちろん検証できないが、少なくとも県民に対して外出・移動を控えるよう要請していた「少しでも体調に異変がある場合」に該当していたことは間違いなかろう。そして県のトップそして感染対策を主導する立場として県民に範を示すべく、外出は避けねばならなかったはずだ。

そもそも「どうしても外出が避けられない事情」というものは存在するのであろうか。もちろん個人個人にはさまざまな事情があろう。体調不良と事情を天秤にかけて、たいした体調不良でなければ多少無理をしてでも外出を優先してしまうことも現実問題あるだろう。体調不良の原因が感染症でなければそういう自己判断もあるかもしれない。

■体調不良で人に会うほうがよっぽど迷惑である

だが今このコロナ禍にあって、少しでも異変を感じた場合は、コロナに感染している可能性をまず念頭におかねばならないのは、もはや常識だ。すなわち「コロナ前の考え方と行動」を180度変えねばならないのが、ポストコロナなのだ。その理由は、改めて言うまでもなくコロナの感染力が普通のカゼの比ではないからに他ならない。

つまり今回の知事のとった行動は、体調異変を感じてはいたものの倦怠感もなく体調的には初詣に行けてしまう、という体調と事情を衡量する考え方に立脚したものであって、自分が感染していた場合に他者に感染させてしまう可能性があるという認識を一切その判断に加えていない「自己中心的思考」に基づいたものと言える。

そして知事が初詣に行くということは、私のような無名の個人が行くのとまったく状況が異なる。その場で出会った人に声をかけられたり、挨拶されたりする可能性は容易に予測され得ることなのだ。しかもつい1週間前に4選を果たした知事となればなおさらだろう。じっさい知事の書き込みにも、「お声がけいただいた方に挨拶したりはしました」とある。

知事の立場になって考えれば「お世話になった方に新年のご挨拶くらいはせねば失礼にあたる」との気持ちもあったのだろうが、本当に相手のことを考えるならば、体調不良の状況で挨拶するほうが、よっぽど失礼、いや迷惑であり危険である。

■「休むと迷惑をかける」という考えから抜け出せない日本

結局コロナが上陸して3年が経過しても、「他人に感染させてしまうリスク」についての意識が希薄なままなのだ。昨今「マスクを外そう」と声高に叫んでいる人たちがいるが、これも同じだ。マスクが、他者からうつされないためのものというより、他者にうつさないためのものであることを認識できていないか、他者への配慮を著しく欠いているかのいずれかであろう。

横断歩道を行き交う人々
写真=iStock.com/7maru
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/7maru

「自分が休むと他に迷惑をかける」「挨拶をしないと失礼にあたる」といった“事情”を優先する考え方から抜け切れていないのも、今の日本の最も厄介な病巣の一つだ。

「自分が休むことで人に迷惑をかける」という考え方については、知事のその後の行動からも見てとれる。仕事始めの県庁幹部会議にオンラインにて参加し「私の不在により、年頭の各種業務にあたり、さまざまな負担をかけることについておわび」したというのである。拙著『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)にも書いたが、私も含め日本では仕事を休んだ場合に「謝る」という風習が今なお根強く残っている。

どんなに体調不良で休んでも、その原因や責任が休んだ人に帰されるべきものでなくとも、「謝る」。休む際にも、休み明けの職場復帰の場でも「ご迷惑をおかけしました」と、まず「謝る」のである。

■少しでも自宅療養期間を短くしたかった?

このように休んだ人が負い目を感じる風潮は「休めない社会」をより強固なものにしてしまう。感染症の蔓延時は、とくにこの悪い習慣は危険である。ポストコロナでは一刻も早くこの因習を撲滅せねばならない、というのが私の持論だ。

そして知事は県庁スタッフに謝罪するとともに、療養期間は1月6日までの見込みであると伝えている。これは逆算すると分かるとおり、発症日を12月30日としたものだ。前掲の知事が示した経緯では「12月30日から多少喉の痛みは感じていました」としつつも「倦怠感なども、1日夕方まではありませんでした」さらに「1月1日の夕方から倦怠感を感じ、1月2日の朝に発熱があり、抗原検査キットによるセルフテストで陽性が判明したものです」との記述も続け、初詣に出向いたことを、あたかも仕方がなかったことかのように釈明している。

問題発覚後の今なお知事がこのような認識を釈明に用い、県民をはじめとした私たちに受け入れてもらおうと思っているのだとすれば、発症日は1月1日とするはずだ。それにもかかわらず発症日を12月30日としたのは、少しでも自宅療養期間を短くし、公務への影響が少なくなるようにするためではあるまいか。

■感染対策の先頭に立つからこそ十分に休むべき

現在、有症状の感染者の自宅療養期間は発症日の翌日から7日間とされているが、これは「7日経過すれば他者に感染させない」という科学的根拠を基に決められたものではない。いわゆる経済活動を優先した“事情”で以前の10日間から短縮されただけのものなのだ。じっさい政府も療養期間を過ぎた後の感染可能性を否定してはいない。

知事の場合、もし12月30日を発症日とするのであったとしても、本来なら発症日翌日から起算して10日後である1月9日までは自宅にて待機してもらいたかったというのが、感染拡大を懸念する医師としての私の見解だ。

4選を果たしたばかりの知事として正月早々休むわけにもいかない、ということから、“なるはや”で職場復帰する姿勢を見せたいのは理解できなくもないが、何度も言うようにそれは「コロナ前の考え方」だ。感染対策の先頭に立つ知事だからこそ、周りへの感染防止の観点から率先して十分な日数休むという範を示すことによって、県民をはじめとした私たちに「休める社会」「休みやすい社会」の構築を訴えるべきだったであろう。

次に、今回の事件に内在する2つめの問題点である「政治とメディアの関係」について考察したい。

■なぜ新聞社に動静の変更を求めたのか

1日の夕方から倦怠感を自覚した知事は、翌2日に38度の発熱を認めたため新型コロナの自己抗原検査を行い陽性を確認したという。自身のSNSにも「コロナに感染しました」とその事実を同日公表したものの、当初の書き込みには元日の行動として「公舎などで過ごす 夕方、倦怠感あり」との記載にとどめていた。

宮崎日日新聞に「知事の動き」として毎日掲載される知事の前日の行動歴については、1日の時点では「14時 宮崎神宮・県護国神社に初詣」と当該新聞社に報告していたものの、コロナ陽性が判明した後には「終日、公舎などで過ごす」と変更するよう依頼していた。さらに報道各社へのプレスリリースにおいても1日の行動歴を「公舎などで過ごす」と記載するにとどめて初詣の記述を伏せたという。

折り畳まれた新聞
写真=iStock.com/TheaDesign
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TheaDesign

宮崎日日新聞はこの県の“要請”には応じず、知事の初詣は3日付紙面に掲載される運びとなり、結局この一連の工作行為は失敗に終わったわけだが、その後この経緯が報じられたことで隠蔽工作自体が露見し、多くの非難を浴びることとなったのである。

なぜこのような行動をとったかについて知事の書き込みでは、「初詣自体が知事の職務に関わるものではないことに加え、その過程で濃厚接触などが無かったことを踏まえ、県民に無用の不安を与えないようにという職員の判断もあってのこと」との説明がなされている。

■感染したことを責める人は誰もいないが…

そしてこの「職員の判断」については、知事は事前に職員から相談を受け、了承していたとのことである。じっさい知事は1月8日の会見で「(初詣で)多くの人混みの中に入っていたということであるので、そこはしっかり掲載してもらうべきというところがある中で、一方で不安を与えないようにという考え方もあった。自分としては少し迷う状況の中で(職員に)問題を投げかけただけにとどまっていたのが反省点」であると述べている。

つまり報道機関に対して事実を伏せた情報を掲載するよう要請した事実と、当該工作について知事が事前に承知していた事実が確定したということだ。この事実を踏まえた上で、この一連の行為と知事の釈明について分析してみよう。

まず知事がコロナに感染したことについてであるが、コロナ上陸当初は感染すること自体が悪で、さも感染者の行動に原因があるかのごとく言われるなど、当事者に負い目を感じさせるものであったが、さすがに3年経過し、今は「誰もが感染し得る」「感染した人に責任はない」という認識がほとんどと考えて良いだろう。本件でも、感染したことについて知事を責める人は誰もいない。知事が自身のSNSですぐさま公表したことも評価できる。

■「私と接触した方は…」と注意喚起すべきだった

しかし、せっかく感染を隠すことなく即座に公表したにもかかわらず、最も周知するべき感染可能期間の行動歴をあえて隠そうとしたことが、大きな問題なのである。「感染の事実を誠実に公表した」文面の中に、まさか隠された事実があるとは、普通思わない。「誠実な書き込み」を装って虚偽を流布する行為は、感染の報告をしないよりも悪質とさえ言えよう。

そして行動歴を隠した理由を「不安を与えないように」としたことも、大きな過ちである。知事の行動歴など、後にいくらでも明るみに出る。隠し通せるものではないのだ。そもそも隠せない事実を小手先で隠してみたところで、それがバレたときには、知事にうつされたかもしれないという不安などとは比較にならない、県政に対する不安と不信感が引き起こされることは容易に気づけることではないか。

正直に「コロナに感染しました。じつは症状は12月30日より自覚していました」として発症前からの行動歴を詳細に公表し、「この間、私と接触もしくは接触した可能性のある方は、症状の有無にかかわらず迅速に検査できるよう措置を講じますのでお申し出ください。またこれらに該当する方は、周囲の方にも注意を呼びかけてください」と発信したほうが、よっぽど県民は安心できるに違いない。

■「感染は悪である」との認識を再び植えつけかねない

せっかくこの3年間で「感染は悪ではない」との認識が浸透してきたにもかかわらず、今回の知事の行動によって、再び「感染は悪である」との認識を私たちに植えつけかねないものとなったことは非常に残念だ。

ただ本件の中には、一つの希望を見出すことができる。それは、宮崎日日新聞社が県の“要請”に応じず事実を報じることで、メディアとしての責務である私たちの「知る権利」を毅然(きぜん)とした態度で担保したことである。

安倍政権以降、テレビをはじめとしてメディアは首相官邸からの圧力を事あるごとに受けてきた。「公平公正に」という言葉を用いた“要請”によって、政権を批判するコメンテーターや政権幹部に鋭い質問をぶつけるキャスターを、ことごとく表舞台から排除するような圧力を報道機関にしかけてきた。

それによってメディアは萎縮し、政治権力に従順となり、さらには仲良く会食までして取り込まれ、すっかり報道から批判的吟味を放棄するに至ってしまった。それによって、この数年の間に政治の劣化と腐敗が急速に進んだことは、多くの人が実感していることだろう。

■宮崎日日新聞の行動は大きな成功体験になる

そうした中にあって、今回の宮崎日日新聞のとった行動は一縷(いちる)の希望だ。さらに圧力をかけられた事実を、逆にスクープとして報じることで、政治権力の不正を白日の下に曝(さら)すことにもつながった。これは一つの大きな成功体験とも言えるだろう。

政治の圧力に屈せず事実を隠さずありのままに報道する、こんな当たり前のことが「希望」に見えてしまうほど、今の政治とメディアの関係がおかしくなってしまっているのは非常に嘆かわしいことと言わざるを得ないが、一度破壊されてしまったものを元通りにするには、強固な意志とたゆまぬ努力が必要だ。

ぜひ、大手メディアも宮崎日日新聞の毅然とした態度を見習ってほしいし、今後もし政治権力から不当な圧力を受けた場合には、その事実を逆にスクープとして報道し不正を暴く、という成功事例を積み上げることで、腐敗しきった政治を浄化していってほしいものである。

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木村 知(きむら・とも)
医師
医学博士、2級ファイナンシャル・プランニング技能士。1968年、カナダ生まれ。2004年まで外科医として大学病院等に勤務後、大学組織を離れ、総合診療、在宅医療に従事。診療のかたわら、医療者ならではの視点で、時事・政治問題などについて論考を発信している。著書に『医者とラーメン屋「本当に満足できる病院」の新常識』(文芸社)、『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』(角川新書)がある。

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(医師 木村 知)

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