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これこそ「プロのサービス」だ…交換品のジャケットを持参した店長の「堂々とした態度」に感銘を受けたワケ

プレジデントオンライン / 2023年1月29日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SeventyFour

「プロフェッショナルなサービス」とはどんなものか。牧師の沼田和也さんは、紳士服店でジャケットの袖直しを頼んだところ、袖が短くなりすぎるというトラブルにあった。その際、教会に交換品を持参した店長の対応ぶりに、たいへん感銘を受けたという。どんな対応だったのか――。

※本稿は、沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)の一部を再編集したものです。

■ジャケットの袖直しを頼んだら…

ある紳士服店でジャケットを買った。そこは追加料金を払うと、肩のほうから詰めて袖丈をあわせてくれるサービスがある。手の甲まで隠れてしまうほど袖が長かったので、わたしはサイズ直しを頼んだ。ちょうどよい長さまで袖をまくりあげて測ってくれるのだが、生地が分厚いツイードのためまくりにくく、若い店員さんは苦労している様子だった。

数日後出来上がり自宅へ届けられたジャケットに胸躍らせて袖をとおす。あれ? 左手がとても短い。気のせいかと思い、脱いで着直す。なおさら手首が丸見えだ。これでは袖が短かすぎる。どうしよう。店に言うべきだろうか。迷いに迷った挙句、わたしはその店に連絡をとった。現品を持って来てくださいとの返事をもらい、持参すると、「できる限り袖を伸ばし直してみます」とのことであった。

後日、店長から電話があった。残念ながら袖を詰めた際に生地はぎりぎりまで切ってしまっており、違和感ないほど長く戻すためのよぶんは残っていなかったので、新しいジャケットに交換するという。それなりに高いものだったので、わたしは恐縮し「そんなもったいない! わたしのわがままですから」と詫びたのだが、店長は「だいじょうぶですよ。袖を詰め過ぎたほうも、べつに捨てるわけではありませんから」と気遣ってくれた。しかも店長はわたしの家、すなわち教会まで新しいジャケットを持って、採寸し直しに来てくれるという。

■台風の日に採寸に来てくれた店長

わたしはひたすら申し訳なく思いつつも、これも珍しい体験だと思い、日付を打ちあわせた。店長は言った。「今日はさすがに無理ですが、明日でもかまいませんよ」「えっ明日? 台風が来ますよ?」「ええ、かまいません」。恐縮も恐縮、ひたすら恐縮ではあったが、せっかくだからとお願いした。明日、教会にまで採寸に来てくれる。わたしのために。その日の晩は緊張してなかなか眠れなかった。

雨のみずたまり
写真=iStock.com/Mr_Twister
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Mr_Twister

大雨のなか店長は教会にやってきた。その姿は、ズボンがびしょ濡れにならないよう防水具を履いて、ビニール傘をさし、片手には交換品。彼はわたしより少しだけ年下だろうか。いや、若々しく見えるが、じつはわたしよりも年長なのかもしれない。若い店員とは違って、採寸の際わたしが腕時計を外そうとするも「いいです、ふだんどおりで」と、じつに手際よく袖丈を測ってくれた。

「いやあ、教会なんて、ずいぶん久しぶりです。では、出来上がり次第ご連絡します」。彼はそれだけ言うと、一礼して帰っていった。じつに気持ちのよい人だった。

■職業人としての誇りを感じた

出来事を簡潔に要約すれば、わたしの苦情に対して店長が謝罪し、商品を交換する応対をとったということである。だがわたしにはそれ以上のことに思われた。わたしはだめでもともと、サイズを直してくれるならこれ幸い、無理なら短い袖もまた仕方なしという、その程度の電話をかけただけである。それに対する店長の機転。それに、なによりわたしが感銘を受けたのは、店長の堂々とした態度であった。

店長はわたしに対して、ぺこぺこ頭を下げることを一切しなかったのである。「申し訳がございません!」というような大げさな謝罪も言わなかった。彼はそんなことよりも商品を交換すること、わたしの家まで出向いて袖丈を測り直すこと、そういった素早い応対でもっておのれの態度を表明したのである。

わたしは「商品を交換してもらえて得をした」ことだけがうれしいのではない。ましてやクレームしたもん勝ちだとか、そういう下品な悦びでは決してない。もちろん、商品を交換してもらえて助かった。そのことに心から感謝してもいる。だがそれ以上に、店長の職業人としての誇りにふれることができた、そのことにわたしは感銘を受けたのである。

■「謝罪」と「糾弾」があふれる世界で

最近は謝罪がどこにでもあふれている。そして謝ったら謝ったで、「その謝り方はなんだ!」とか「謝ったら許されるとか本気で思ってる? なんの反省もほんとうはしていないことが、これではっきりしたわ」と、さらなる糾弾がされる。謝罪する側が疲れ果て倒れるまで、糾弾が終わることはない。なぜああなってしまうのだろうかと、わたしはつねづね考えていた。考えながら、やはり自分自身のことに思い至るのであった。

人間の腕
写真=iStock.com/kokouu
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kokouu

わたしは伝道者として初めての任地で働き始めたころ、「誰に対しても開かれた教会」を目指していた。誰に対しても開かれた教会なのだから、みんなの意見に耳を傾けなければならない。みんなの意見に耳を傾けなければならないのだから、誰一人をも排除してはならない。誰一人をも排除してはならないのだから、誰一人傷つけてはならない……そうやって仕事をしていくうちに、わたしはとても息苦しさを感じるようになっていった。

■我慢して「やらされている」感覚が生むストレス

誰かが少しでも不愉快そうな表情を浮かべたら、わたしはすぐに謝った。なぜ相手が不愉快に感じているのか、理由は考えなかった。考えていたのかもしれないが、深くは考えなかった。とにかく相手の機嫌を直してもらうこと、それが最優先であった。礼拝のことを英語でworship serviceという。サービスとは神に、そして人に仕えること。だから自分はサービス業のプロフェッショナルなんだ。文句を言わず、相手が喜ぶことを第一に考えよ。それが神も喜ぶことなのだ――わたしはそう思って仕事をしていた。

けれども、それは自分自身に我慢を強いることであった。わたしは仕事を自ら進んでやっているというより、「やらされている」と思うようになってしまった。ほんとうは悪いとぜんぜん思っていないのに、謝らされている。屈辱的であると感じているのに、頭を下げさせられている……そう思えば思うほど、わたしの内部で怒りや憎しみが鬱積していった。

牧師としての仕事を失い、郵便配達のアルバイトをしていたことがある。そのとき、わたしの怒りや憎しみは爆発直前であった。郵便局では上司に、配達先では客に、ひたすら頭を下げ、詫び続ける。ようやく仕事が終わり、疲れ果てて立ち寄ったコンビニで、店員がちょっとお釣りを間違える。あるいは電車に乗ろうとして、見知らぬ人とわずかに肩がぶつかる。そんな程度のことで、わたしは怒鳴り散らすようになっていた。

■頭を下げる屈辱を無関係な他人に向ける

コンビニの店員がまさに、昼間のわたしのようにペコペコ頭を下げるとき、わたしは怒りが収まるどころか「責任者を呼べ!」と荒れ狂った。配達先の客や職場の上司からされていて、心の底から嫌だと思っている、まさにその同じ態度をわたしは他人に向けていたのである。

沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)
沼田和也『街の牧師 祈りといのち』(晶文社)

ツイッターにヘイトスピーチこそ書かなかったけれども、いつ書いてもおかしくない精神状態であった。にこにこして相手のご機嫌をうかがい、相手が不快な表情を浮かべれば萎縮し、ひたすら頭を下げ続ける。しかし「やらされている」と思っているので怒りがこみあげ、屈辱を覚え、そのどうしようもない思いを、こんどは無関係な他人に向ける。けっきょく、わたしが前任地で幼稚園の職員に激昂し、閉鎖病棟に入院したことの一要因もそれであった。わたしはプロフェッショナルであること、サービス業であることの意味を完全に履き違えていたのである。

「誰に対しても開かれた教会」を目指したはずだった。けれどもじっさいは「わたしが誰からも叱られない教会」を目指していたのだ。わたしは人から拒絶されることが怖かったのである。人から嫌われることを、なによりも恐れていたのだ。教会に来るすべての人々から好かれたい。相手はわたしのことを内心どう思っているのか知りたい。相手の思いをわたしの思いどおりにしたい。わたしは神ではなく自分自身のことを思いながら、仕事をしていたのである。

■「とりあえずの謝罪」こそが相手を怒らせる

世のなかの職業人が謝罪の意思表示をする際、誰もがわたしのような理由でそうしているとは思わない。ただ、好感度を保ちたいとか、嫌われてはおしまいだとかいう意識が、社会全体に蔓延しているように感じられるのである。だが、謝罪してどうしたいのか、そもそもなにを悪いと思っているのかが見えず、とにかく謝って好感度を回復しようという態度だけが透けて見えるとき、謝られた相手はますます苛立ちを募らせる。それはわたしが体験してきたことと同じである。

教会で、誰かがわたしに腹を立てる。わたしは即座に頭を下げる。するとなおさら相手は怒るのだ。当時は「わたしがこんなに謝っているのに、赦してくれないのか? なんてわがままな人だ」と憤っていたが、そうではなかった。相手はわたしにとりあえず謝って欲しいのではなかったのだ。わたしが具体的に、今後どのように態度を改めるのか。これからはどうするつもりなのか。相手はわたしに、そこをはっきり意思表示して欲しかっただけなのである。

■プロフェッショナルとは「神の前で語れる」こと

わたしはわたしで、八つ当たりとしか言いようのない仕方でコンビニの店員に激昂した。なにしろ不条理な八つ当たりなのだから、コンビニの店員はとりあえず謝って、わたしの怒りをやり過ごすしか方法がない。だがわたしは、ひたすら謝る店員の姿に自分自身を見ていたのだ。だから店員が謝れば謝るほど、さらに荒れてしまった。店員がわたしにどんな酷いことをしたというのか。あのときのわたしは、警察を呼ばれても仕方がないほどのクレーマーぶりを発揮していた。今思い返しても、自分の幼稚さや暴力性に顔が熱くなる。

沖縄の海に降る日光
写真=iStock.com/yoshiurara
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/yoshiurara

交換品のジャケットを持参した店長に、なぜわたしは敬服したのか。彼が「とりあえず謝って済まそうとする」ことを決してしなかったし、そこに「やらされている」という気配がまったくなかったからである。

わたしは店長に、彼自身の意志を感じたのだ。彼は店舗に一時的な損失を出してでも素早い対応をすることで、言葉ではなく態度をもってわたしに向きあったのである。わたしと対面する際にも彼は決して卑屈にはならず、背筋を伸ばし、じつに鷹揚であった。

そうだ。これがプロフェッショナルだ。これこそサービスなのだ。professionalとはラテン語のpro(前で)とfateor(認める)からなるprofiteor(公に告白する)からきている。神と会衆の前でおのが信仰を告白することなのだ。彼が神を信じているかは知らない。無神論でもかまわない。彼は服飾業に対して主観的のみならず、いつでも他人に、つまり公に説明可能な形で向きあっており、その向きあい方に基づいて客に奉仕しているのである。

■自分の「軸」があるからこそ柔軟になれる

彼は、苦しいときには何度でも、自分が向きあった原点に立ち返ることだろう。そしてそこからもう一度再出発するだろう。だから彼は客を決して恐れないだろう。客から一時的に嫌悪感を持たれたとしても、店の人気が揺らいだとしても、彼は自分の方針を貫くだろう。

むしろ自分の方針を貫くことによってこそ、彼はさまざまなことに対して柔軟に対応できるだろう。多少の損失など、長い目で見れば取り戻せるだろう。そもそも、そういう長い時間をかけて取り組むこと、長期的なまなざしを持つことができるようになるためには、自分はなにに基づいてこの仕事をしているのかという、自分自身にも客にも表現できる軸が不可欠であろう。

■「サービス」とは人に媚びることではない

わたしも今、ほんの少しずつではあるが、牧師としての、プロフェッショナルなサービスを心掛けることができるようになってきた。神の前に信仰を告白する(プロフェッショナル)。そして神に仕え、人を歓待する礼拝を行う(サービス)。それは人に媚びることではない。相手がわたしに不快を感じたなら、とりあえず頭を下げて済ませるのではなく、立ち止まって考えなければならない。

相手がわたしに不快感を覚えた、その理由はなにか。それは改善できることか。改善できることなら、その具体的な改善策を、わたしは相手に意思表示しなければならない。意思表示することのなかには、言葉だけではなく行動をもって示すことも含まれる。それでも相手が納得しなければ、もうそれでよいのである。その人のことは神に委ねるのだ。

■トラブルを人格の問題にしてはいけない

相手とのあいだになんらかのトラブルが生じたとき、それをおのれの人格の問題にしないことは重要である。あくまでそれは、わたしの仕事におけるトラブルでしかない。わたしの人格を否定する必要はないのだ。わたしの人格を問うことは、人の前でするのではなく、神の前ですることである。人の前では、わたしはなにをなすべきかに徹すればよい。

相手に求めることも同様である。相手と思いがすれ違い、訣別したからといって、その人の人格を否定する必要はない。相手の人格や性格の深奥を、わたしはいかほどにも操作することはできないのだから。それは神の領域である。

その場で謝って内心に屈辱を感じるのではなく、相手がなにを言っているのか、それに対して自分はなにができるのかをよく考える。できることをはっきり意思表示し、できないことはできないと答える。それで相手が満足するのか、なおさら怒るのかは、相手の度量に任せればよい。わたしはこう考えるようになってから、とつぜん激昂するということがほとんど無くなった。誰でもいいから自分より弱い立場の人間に八つ当たりしたいという衝動もほぼ消えたと思う。丸く収めるつもりの謝罪が、かえって憎悪を生み出すのだとすれば、これほど悲しいことはない。

■「少し時間をください」が許される世の中に

それに、ただ謝るだけでは、謝られた側にもその場しのぎ感というか、とりあえず感というか、そういうものが伝わってしまうのである。即席で謝るのではなく、その場の気まずさに耐えて、長い見通しをもって考える。考えた結果、謝るべきことは謝る。そのうえでこれからなにができるのか、そしてなにができない、あるいは譲れないのかを意思表示する。もしもそれができたなら、謝られた人は謝った人を赦すだけでなく、「あなたができない部分で、わたしにできることはありませんか」と、手を差し伸べてくれるかもしれない。

「申し訳ないです、少し時間をください」。そう言うことが許される世のなかであって欲しい。そして、その少しの時間のあいだに、考えることを許して欲しい。そのあとでようやく、これからはこうしますと。ただ、これはできませんと。これについてはどうかご容赦くださいと。あるいは、できないこれについて、どうかご助力くださいと。謝罪と怒りで終わるのではなく、謝罪から新たな関係の模索へ。そういう関係の模索が許される社会であって欲しい。

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沼田 和也(ぬまた・かずや)
牧師
1972年生まれ。兵庫県神戸市出身。高校を中退、引きこもる。その後、大検を経て受験浪人中、1995年、灘区にて阪神淡路大震災に遭遇。かろうじて入った大学も中退、再び引きこもるなどの紆余曲折を経た1998年、関西学院大学神学部に入学。2004年、同大学院神学研究科博士課程前期課程修了。そして伝道者の道へ。2015年の初夏、職場でトラブルを起こし、精神科病院の閉鎖病棟に入院。現在は東京都の小さな教会で再び牧師をしている。Twitterはこちら

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(牧師 沼田 和也)

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