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大阪城は鉄筋コンクリートだから素晴らしい…「天守閣が残る12城」が貴重な史跡となっている本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年1月31日 15時15分

姫路城 - 写真=iStock.com/SeanPavonePhoto

天守閣が現存する城は全国に12しかない。城をテーマにした著書を持つ評論家の八幡和郎さんは「文化庁は『木造復元』を求めているので、天守の復元をあきらめている自治体も少なくない。しかし鉄筋コンクリートの大阪城天守閣は、昭和の名建築として登録有形文化財になっている。木造復元にこだわるのではなく、地元自治体の選択が尊重されるべきではないか」という――。

■日本人の美的感覚の原点とも言える城下町

城下町を故郷に持つ人は、日本人のなかで羨望(せんぼう)の的である。白亜の天守閣は華麗にして清冽、曲線が美しい石垣と碧い水を満々とたたえたお堀の見事なコントラスト、凛とした町並みのたたずまいなど日本人の美的感覚のひとつの原点とも言えるものがそこにある。

だが残念なことに、世界文化遺産・姫路城(兵庫県)のように、創建当時の美しさをそのまま今に伝えているのは例外的だ。天守閣が残っているのは姫路城に松本城(長野県)、犬山城(愛知県)、彦根城(滋賀県)、松江城(島根県)を加えた国宝5天守など、12城でしかない。

私は小学生のころから「城マニア」であり、『江戸全170城 最期の運命 幕末・維新の動乱で消えた城、残った城』(イースト・プレス)、『日本の百名城 失われた景観と旅の楽しみ』(ベストセラーズ)という、城をテーマにした本を2冊書いている。

また、天守閣の復元など城跡の整備について、歴史的景観の維持復元とか、都市開発や観光の観点からさまざまな提言を行ってきた。

■天守閣の木造完全復元は「正しい」のか

そういうわけで、プレジデントオンラインに掲載された歴史評論家の香原斗志氏の記事〈日本に「本物の城」は12しかない…城めぐりを楽しむ人たちに伝えたい姫路城と小田原城の決定的違い〉はたいへん興味深く読ませていただき、お城をこよなく愛されているお気持ちをうれしく思った。

本稿では、香原氏の記事ではあまり触れられていなかった、明治維新の時にどのように天守閣が壊され、一部は残されたのか、について解説するとともに、天守閣の復元問題に対する私の考えを紹介したい。

それは、近年、木造復元が主流となっているが、街づくりや地方自治などさまざまな意味で弊害が多く、ある種の「木造復元マフィア」の利権あさりの犠牲であるというものだ。

■4分の3の城は売却され、材木や薪に

廃城令は明治6年(1873年)に出された。幕末には、全国におよそ170の城があり、そのうちいくつかは、廃藩置県の前に撤去されていた。そして、陸軍施設としたものが「存置」として陸軍省の管轄となり、残りは「廃城」として大蔵省が売却した。

売却されたものの多くは解体され、材木や薪などとして使われた。主要な城の多くは陸軍用地として残されたが、堀を埋め立てられたり、建物も必要に応じて整理されたりした。

しかし、明治23年(1890年)になって、いったんは陸軍省用地としたが不用な城について「旧城主は祖先以来数百年間伝来の縁故により、これを払い渡し旧形を保存し、後世に伝えるなら歴史上の沿革を示す一端となり好都合である」として藩主などに売り渡すことが認められた。

同じ年に教育勅語が出されたのだが、文明開化が一段落して伝統文化再評価が進んだ時期であった。

ではどんな建物などが残ったのかだが、福沢諭吉が取り壊しを藩主に勧めた中津城(大分県)のように、旧体制の象徴として壊されたものもあるが、むしろ、陸軍の施設として広大な場所を確保するために邪魔な施設は壊されたり、売り渡されたあと建材や薪にされたものがほとんどだ。

■「残すか、壊すか」の決め手は維持費用のコスパ

判断の分かれ目となったのは、旧藩士たちの愛着の有無もあるが、維持コストと使用価値との比較が決め手だった。

たとえば本丸御殿が残っているのは、高知城(高知県)くらいだ。御殿は窓もない大きな建物で豪華だから、大勢の奥女中などいなければ維持できない。場所はいろんな用途に使える一等地だし、壊すのも容易だから、ほかの城では本丸御殿は残らなかった。

高知城
写真=iStock.com/MasaoTaira
高知城 - 写真=iStock.com/MasaoTaira

櫓は割に残っているが、ほとんど無傷ですべてが残っているとなると、姫路城くらいだ。丸亀城(香川県)は陸軍省管轄となり、現存の建物以外の櫓や城壁は解体された。

丸亀城
写真=iStock.com/Sanga Park
丸亀城 - 写真=iStock.com/Sanga Park

堀は都市化の進展で埋められていった。交通の障害になる、土地を活用したい、戦災の瓦礫を埋めたいといった理由のほか、悪臭が原因となることもあった。

逆に、高い山の上だと、材木にせよ石材にせよ搬出に費用がかかることから保存状態が良いことも多い。天守閣が残る唯一の山城である備中松山城(岡山県)は、朽ちるに任され、大正ごろは廃屋のようになっていたが、文化財保護の機運の高まりで昭和に入って地元の人たちによる修復作業が行われ、ギリギリのところで生き返った。

備中松山城
写真=iStock.com/ziggy_mars
備中松山城 - 写真=iStock.com/ziggy_mars

■地元民が「天守閣だけは」と保存費用を捻出

廃城令によって破却された天守は、その定義にもよるが、盛岡、会津若松、高崎、小田原、岡崎、新発田、小浜、膳所、亀岡、高取、尼崎、米子、津山、萩、徳島、柳川、島原、岡の18城だった。明治維新の時点で天守のあった41城(江戸時代の途中で失われた天守も20くらいある)のうち半数以上は保存されたのに、撤去が原則だったという誤解が多い。

戊辰戦争で反政府側だった藩の天守が壊されたという人もいるが、まったく関係なくこじつけだ。姫路、松江、松山(愛媛県)など典型的な佐幕藩だし、長州の萩では建築が一切残ってない。もし残っていたら国宝クラスだったのは萩だけで、良いものには愛着が強かったため、地元の人たちが天守閣を維持する費用だけは出そうとなったところが多く、それらは取り壊しを免れた。

明治時代に撮影された萩城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
明治時代に撮影された萩城(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

天守が残った23城のうち、高松と大洲は明治年間に崩壊寸前で壊され、熊本が西南戦争、水戸、名古屋、大垣、和歌山、岡山、福山、広島は太平洋戦争の戦災、松前は戦後の火事で焼失し、昭和の後半には現在の12城となった。

戦災で焼けたのは軍や軍事産業の施設があったところである。とくに名古屋、岡山、広島の3城はいま残っていたら国宝だっただろう。残ったなかで姫路、松山、高知もそこそこ大きな都市だが、天守閣は山の上にあったので助かった。丸岡城(福井県)は1948年の福井地震で崩壊したが、残った部材を元通りに組み立てたというエピソードがある。

丸岡城(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
丸岡城(写真=Tomio344456/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

残った天守閣も維持コストの捻出に悩んだが、観光ブームと国からの補助の拡充で救われた。備中松山城は交通不便で苦労したが、最近は「天空の城」の一つとして人気だ。

ただ、どこも解体修理が必要な場合には、費用もさることながら、観光客の受け入れが数年間できなくなるのが悩みのタネだ。弘前城(青森県)では天守台の石垣などを修復するため、天守を引っ張って仮天守台へ移動させるという「曳屋工事」が実行された。

弘前城
写真=iStock.com/ntrirata
弘前城 - 写真=iStock.com/ntrirata

■大阪城は豊臣の豪華と徳川の清楚のベストミックス

太平洋戦争後の城下町では、天守閣復興がブームになったが、明治以降、初の事業は岐阜城で、明治43年(1910年)の博覧会のパビリオンとしてだった(現在の天守閣は戦後の復興)。

だが、本格的なものは、昭和天皇即位の御大典を記念した大阪城天守閣からだ(歴史的には大坂城だが、現在の施設は大阪城)。徳川時代の大型の石垣の上に黒田家蔵の「大坂夏の陣屏風」に描かれた豊臣時代の意匠だが、壁は豊臣風の下見板張りでなく白壁づくりと、ごちゃまぜである。

現在の大阪城天守閣は、江戸時代の大型の天守台の上に、豊臣時代の小型だが華麗だった意匠を再現したものだが、壁の色が白いのは江戸時代と同じ
現在の大阪城天守閣は、江戸時代の大型の天守台の上に、豊臣時代の小型だが華麗だった意匠を再現したものだが、壁の色が白いのは江戸時代と同じ(出所=『江戸全170城 最期の運命 幕末・維新の動乱で消えた城、残った城』)

桃山風の華麗さと江戸風の清冽さの同居は、“ええとこ取り”で近代日本人の美意識にぴったり合い、各地の天守閣復元に規範を与え、昭和の名建築として登録有形文化財になっている。鉄筋コンクリート、エレベーター付き、最上階には高欄をめぐらした展望台、それ以外の階は博物館という、画期的なアイデアだったので各地で模倣された。

大阪城
写真=iStock.com/DoctorEgg
大阪城 - 写真=iStock.com/DoctorEgg

戦後は、戦災で焼けた和歌山、名古屋、岡山、広島、福山の天守閣が復興のシンボルとして再建された。熊本、会津若松は明治初年の写真が残っていたので、再現が試みられた。小倉のように幕末以前になくなっていたものや、富山のようにもともと天守閣などなかったもの、熱海城のように城跡でないところにも天守閣が出現した。

■「古絵図か写真がないと復元させない」はおかしい

ところが、文部省(文化庁)が、史跡については写真や図面などたしかな証拠がないと復元を認めないと言い出した。とくに、特別史跡には厳しい。

安土城の復元は西武グループ創始者の堤康次郎が悲願としたが、狩野永徳が描き、ローマ法王に贈呈された屏風でも見つからない限りはダメと一点張りで、セビリア万博日本館に巨額の費用をかけて復元制作し出展した上層階は、近隣の展示施設に置かれたままだ。高松城も、写真が1枚しかないから全容が明らかでないと駄目と言われており、“被害者”のひとつだ。

一方、縄文時代の三内丸山遺跡や奈良時代の平城宮跡、薬師寺などでは、資料がなくとも復元させているのだから、風致を汚さねばいいはずだ。沖縄の首里城など地元の希望で焼ける前より豪華絢爛(けんらん)にしており、首尾一貫していない。

時代によって焼失や老朽化した建物のあとに、時代のニーズに合わせた用途やデザインの建築をすることは何も悪いことでない。

■天守は城の飾りなので外観復元で十分

文化庁方針もあって、最近では本格木造での復元が主流となっている。その嚆矢(こうし)は掛川城だが、大洲、白石などもそうだ。しかし、天守閣は初期には実際に居住することもあったが、江戸時代に入るとランドマークでしかなくなり、倉庫と物見櫓としての機能が付加されているだけだ。それならば、外観復元で十分だろう。

掛川城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons)
掛川城(写真=Mocchy/PD-self/Wikimedia Commons)

質の高い歴史景観復元が進むのは結構だが、地元に高額な木造を押しつけるのもおかしい。木造へのこだわりも、一種の文化財保護利権にむらがる建築家や関連業界の一種の“マフィア”(ムラ)の利益が背景にある。

昔どおりでなければ空き地にさせるのも無茶苦茶だ。全国の県庁など公共建築の多くが城跡にあるが、現在の建物が朽ちたら再建は許さず、史跡公園にしろといわれている。そこで、中途半端な耐震工事で間に合わせている。それなら皇居も国会も霞が関も江戸城趾である。文部科学省も最近、高層ビルになったが、虎ノ門跡公園にすればよかったはずで、地方いじめはやめたほうがいい。

あるいは、近代遺産の建築を建て直すときに新しいビルのなかに組み込むこともあるが、そういう手法もあってよい。たとえば、市役所の屋上に天守閣を載せれば、ビルの谷間に埋まっているより見栄えがする。

■耐震化やバリアフリーも必要となっている

戦後、再建された天守閣が築後50年に達しつつあって、耐震化も必要だし、名古屋城では、本格木造復元案の是非が大論争になっている。

展望台として役立てるために高欄をつけたり窓を大きくしたりすることの何が悪いのだろうか。身体に障害のある人たちのためにエレベーターもむしろつけるべきだ。現在はルーブル美術館となったルーブル宮では、訪問客の出入りを円滑にするために造ったガラスのピラミッドは大成功だった。

立地についても、伏見城は、本丸跡が明治天皇の伏見桃山御陵になっているため、城下町から見栄えがする場所を選んで建設して大成功した。これがなかなかよい。福岡城は、天守台はあるが、天守閣があったかどうかすら不明だ。それでも、新規に天守閣を建てた方が都市の風格が間違いなく上がる。

伏見城(写真=Thomas vanierschot/PD-self/Wikimedia Commons)
伏見桃山城(写真=Thomas vanierschot/PD-self/Wikimedia Commons)

■城のある地元の選択がもっと尊重されるべき

天守復元を巡っては、国の行政、学者、市民グループなど、それぞれ自分の意見に固執するために対立しがちだが、城、そして天守は地元の誇りであり、地元それぞれの歴史があり都市景観についてのポリシーがある。

2019年の火災で損傷したパリのノートルダム寺院の復元は、現代的デザインを採り入れるか、そのまま復元するかが議論になり、マクロン大統領が最終判断として後者を選んだ。こうした決断のあり方には、日本も学ぶべきところがある。

それぞれの立場で意見を言うのはいいが、地元自治体の選択が尊重されるべきだし、国として意見があるなら、最後は文化庁という個別の部局でなく政府全体として対応し、政治判断がされるべきだと考える。

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八幡 和郎(やわた・かずお)
徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。

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(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)

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