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むしろ素人のほうが「マニアックな売り場」を作れる…国文科卒の書店員が神保町に"数学の聖地"を築くまで

プレジデントオンライン / 2023年1月27日 17時15分

布川路子 短大の国文科を卒業して、書泉グランデに入社。書店員歴24年、数学書コーナーを担当して11年。年齢は「数学者のテレンス・タオとだいたい同じ」。接客業を志望するも、就職氷河期で書泉グランデしか受からなかった。「でも今は書店員を天職だと思っています」 - プレジデントオンライン編集部撮影

数学愛好家が「聖地」と呼ぶ書店が東京・神保町にある。コーナーを担当する書店員の布川路子さんは、短大の国文科卒で、配属されるまで数学には縁がなかった。なぜ「聖地」を築きあげることができたのか。ノンフィクションライターの神田憲行さんが取材した――。

■担当になった時には全くの素人だった

ここ10年ほどの間、「数学ブーム」だといわれて久しい。複数の大人向けの数学塾が開校したり、大がかりな数学イベントも開催されたりした。その動向はNHK番組「クローズアップ現代」でも特集されている。

書籍でもタイトルに「文系でもわかる」「大人の学び直し」とついた数学書が書店に並び、数学をテーマにした漫画の刊行も相次ぐ。そんな「数学愛好者」「数学好き」たちから「聖地」と呼ばれるのが、東京・神田神保町にある「書泉グランデ」だ。4階の数学書コーナーを担当する書店員の布川路子(ふかわ みちこ)さんは、愛好家たちにはおなじみの存在で、数学ブームのたしかな牽引者となっている。

「たぶん一般の人が数学の面白さに気付いたのは、小川洋子さんの小説『博士の愛した数式』(2003年)あたりからじゃないかと思います。それからジワジワといろんな分野で数学をテーマにした書籍が出て、個人的には漫画の『はじめアルゴリズム』(三原和人著・講談社)が印象的でした。雑誌『モーニング』で連載されて、内容はなかなか高度なのに10巻も続いてすごいなと思いました」

布川さんは短大で国文学を専攻していて、数学については全くの門外漢だ。担当者になったのは2010年の冬のころ。前任者が異動で抜けて、同じフロアで建築を担当していた布川さんが横滑りで担当することになった。

「自分でも担当になって『えー』て感じですよ。母親に『数学書の担当になった』と告げると、『あなたにできるの?』と驚かれたぐらい。子どもの頃から数学は全然ダメで苦手でしたから。代数とか幾何というジャンルもおぼつかなくて」

■8250円の本40冊が1日半で完売した

担当になった翌年、東日本大震災で書泉グランデも被害を受けた。しかし棚からこぼれ落ちた数学書をどの棚に戻せば良いのか、布川さんにはわからなかった。結局、前任者に手伝いを頼んだという。

とはいえいつまでもわからないでは済まされない。とくに書泉グランデでは、お客さんに書店を知ってもらう、来てもらうという能動的な働きかけが書店員にも求められていた。布川さんが最初に手を付けたのが、売り場の「書泉_MATH」というツイッターアカウントだった。

「前任者がアカウントを作っていたので、とりあえずこれを更新していくことから始めました。でも新刊の告知だけではつまらない。それで日々の記録みたいなことを調べて、フーリエの誕生日にフーリエ解析の本を紹介したり、岡潔の没後40周年に合わせた記念講演会を行ったりしました」

切り口を変えてみれば新刊だけでなく既刊本でも、ツイッターで紹介できる本はたくさんあった。

「たとえ20年前に出版された本でも、出会ったときがその人にとっての新刊本だと思うんです」

本の仕入れ方も特徴的だ。

「価格の高い本を入れるようにしています。他の書店では少部数しか入れないだろうから、高額書籍でもあえて積極的に」

そうやって仕入れて売れた本のひとつが、『楽器の物理学』(丸善出版)だ。20年前に他の出版社から出て、10年前に今の丸善出版に移行して出版された。価格は8250円と、書籍の中では高額だ。ためしに1冊だけ仕入れてみると、すぐ売れた。また1冊だけ入れるとすぐ売れる。それで思い切って40冊も仕入れると、1日半で全て売り切れたという。

■「数学者はふだんどんな本を読むのだろう」

次に取りかかったのはフェアだ。書店では「冬のお勧めミステリー」など、書店員が勧める本が平台に並べられることがよくある。だがここでも布川さんは「私には勧められる本がない」と頭を抱えた。なにしろ「自分がいちばんわからない本の宣伝」(布川さん)をしなければならないのだ。

ヒントは、当時よく書店に来ていた理工書の版元の営業担当者との雑談から生まれた。

「数学者って、ふだんはどんな本を読んでいるんでしょうね」

ふと何げない疑問が布川さんの口からでた。

「数学者って、私からすれば宇宙人のようなもの。そんな人たちが専門書以外にどんな本に親しみを感じているのか、興味を持ったんです。数学素人の私でも興味を持つのだから、もっと他の人にも興味があるかな、というのがきっかけです」

話は営業担当者との間でどんどん転がり、明治大学・砂田利一名誉教授を紹介してもらえることになった。そこから砂田氏つながりで他の数学者たちともつながっていき、彼らから愛読書を教えてもらえた。

そして2011年、布川さんが初めて手掛けたフェア《数学者が読んでいる本ってどんな本? 数学者○○先生の本棚フェア》が開かれた。このフェアはSNSで話題になり、筆者(神田)も書泉グランデまでフェアをのぞきにいったことがある。

■フェアの人気が書籍化につながった

「興味深かったのは、砂田先生をはじめ、何人かの数学者の方が愛読書としてボルヘスを挙げていたことですね。ああいう論理的な世界にいる人たちが伝奇小説を読むのかと意外でした」

『数学者が読んでる本ってどんな本』はのちに東京図書から書籍化されたほどの人気ぶりだった。

最初は苦労したフェアのテーマだが、最近は「降りてくる」と茶目っ気で笑う。取材日にやっていたのは数学理論のひとつである「圏論」フェア。

「以前は解説書が1冊しかなかったのに、数年前から続々と出るようになったので。書籍の流れを見ているので、理論はわからなくても『来ている』ものに勘は働くようになりました」

売り場単位のツイッターアカウント、ユニークなフェアなどが生まれるのは、もともと書泉グランデという書店のユニークさがあるように思われる。神田神保町に地下1階、地上7階建てという巨大書店は本の街のランドマーク的存在だが、ここにはたとえば「参考書売り場」のようなものはない。あるのは鉄道・バス、アイドル、格闘技など趣味性・専門性の高いものばかり。つまり、そういった趣味の延長線上に「数学」が並んでいるのである。数学書が並んでいる棚の隣は英語の学習本ではなく、占星術の本だ。

数学書の棚の隣には占星術の棚
プレジデントオンライン編集部撮影
数学書の棚の隣には占星術の棚 - プレジデントオンライン編集部撮影

■数学者はいかめしい印象があったが…

最初のフェアを成功させることで、布川さんは「数学者を身近に感じたり、手応えを感じたりできました」という。そうやって布川さんが知己を得た数学者のなかに、京都大学高等研究院・院長の森重文氏がいる。森氏は1990年に数学界のノーベル賞といわれる「フィールズ賞」を受賞、2015年から2018年まで、世界数学連合総裁を務めている。日本の、というより世界の、数学界の重鎮である。

布川さんによると、森氏のサイン本はよく売れるという。

「なので年に2回、森先生にメールでサイン本のお願いをしています。いつも先生はすぐメールの返事をくださって、快くサインをしてくださいます。数学者っていかめしいイメージがあったんですが、すごく気さくで親切な人が多いですね」

ある日、常連客がいつも森氏のサイン本が置いてあるのにいぶかって、「森先生の本は売れないんですか」と布川さんに尋ねてきた。「いえいつも売れるから、サイン本の追加注文をしているんです」と答えところ、驚かれたという。

「私が森先生に直接お願いしていると知って、数学者の方は非常に驚かれます。たぶん私が森先生の本当のすごさを知らないから、ずけずけお願いできるんでしょうね」

と、布川さんは笑う。

「ノーベル賞の益川敏英先生にお目にかかったときも、頼めるのは今しかないと思ってグイグイとサイン本をお願いしたことがあります。あとから同席していた版元に『あんなにいって大丈夫なのか』って、『こいつ怖いわ』みたいな目で心配されましたけれど」

版元で品切れになっている本を、直接筆者から仕入れて販売することもある。書店員でありながら、こうした人脈をもっているのも布川さんの強みだ
プレジデントオンライン編集部撮影
版元で品切れになっている本を、直接筆者から仕入れて販売することもある。書店員でありながら、こうした人脈をもっているのも布川さんの強みだ - プレジデントオンライン編集部撮影

■講演内容は数学愛好家にとっても「むずかしい」

また最上階の7階イベントスペースでは、数学者の講演やサイン会も開く。2022年開いたものを紹介する。

《田中一之先生によるロジック短期集中講座『様相論理入門』》
(『ガロア理論12講』発売記念 加藤文元先生講演会)
《『圏論の地平線』発売記念 講演&サイン会》

いずれも多くの数学愛好家がつめかけた。いったい、数学愛好家とはどのような人物だろうか。

「中高年の男性が多いです。昔取った杵柄じゃないですけれど、青春時代に数学になじんだ方が、またやってみたいと来てくださることのようです」

そういうお客さんでも講座のレベルは高く、布川さんが感想を訊ねると「いや、難しいねえ」と苦笑いするのだという。にもかかわらず、2度3度と足を運んでくる人も珍しくない。

「わからないなりに、なんか楽しそうなんですよ。そしてその気持ちは数学素人の私にもわかります」

と、布川さんはうなずく。

■「わからないけど何か面白い」でいい

「私は責任者なのでイベントの最中はいちばん後ろで立ってお話をうかがっているんですが、全然わからないなりに、数学の面白さが伝わってくるんです。講義をされる先生の話術が巧みなせいもあると思うんですが」

布川さんはいま、その数学の「わからないけれど何か面白い」という魅力をもっと多くの人に届けたいと考えている。布川さん自身も、数学の専門誌からエッセイを依頼されたし、愛好家たちが集う大規模な数学イベントに登壇して、自身のことや、数学書コーナーについて話をした。

「ほんと、私みたいな素人が出て誰得なんだろうと思ったんですが」

布川さんは照れ笑いをする。

「私が伝えられる数学の面白さは氷山の一角にしか過ぎないけれど、今は漫画や小説など、素人でも数学の世界に入りやすいさまざまなジャンルの本が出ています。たまに政治家の発言で『数学のこんなジャンルは要らない』という発言がニュースになりますけれど、少しでも知っていれば、数学がどんなに生活と結びついているのか、わかるはずです」

「なんだかわからないけれど面白そうだ」。新しい教養や趣味の一歩はそうして始まるのではないだろうか。

置いてある数学書は約5000冊。愛好家の中には「希少本なども多くてつい買いすぎてしまうから、行くのが怖い」という人も
プレジデントオンライン編集部撮影
置いてある数学書は約5000冊。愛好家の中には「希少本なども多くてつい買いすぎてしまうから、行くのが怖い」という人も - プレジデントオンライン編集部撮影

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神田 憲行(かんだ・のりゆき)
ノンフィクションライター
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。師匠はジャーナリストの故・黒田清氏。昭和からフリーライターの仕事を始めて現在に至る。共著に『横浜vs.PL学園』(朝日新聞出版社)、主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』(講談社)、『「謎」の進学校 麻布の教え』(集英社)、『一門』(朝日新聞出版社)など。

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(ノンフィクションライター 神田 憲行)

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