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だから日本有数の「老獪な政治家」になった…徳川家康の思考を形作った地元・三河武士団への不信感

プレジデントオンライン / 2023年1月29日 18時15分

岡崎公園の徳川家康の銅像(写真=CC-Zero/Wikimedia Commons)

徳川家康の強さとして、よく「主君に忠実で精強な三河武士に支えられた」といわれる。東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんは「史実とは思えない。三河武士は家康を裏切ったこともあるし、さほど強かったわけでもない」という――。

※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。

■「精強にして忠実な三河武士団の家来」は本当か

家康は、織田信長や豊臣秀吉のような天賦の才は持っていなかった。しかし彼には「精強にして忠実な三河武士団の家来がいた」という伝説があります。

その三河の家来たちが、家康がまだ松平元康として駿府で人質になっていた時期、ひたすら殿の帰りを待っていた。そうした夢も希望もある話になっています。

しかしそれは、本当のところどうなのでしょうか。私には疑問があって正直、嘘だろうと思っています。

■江戸時代に生まれたプロパガンダ

東海地方の武士の中で、三河武士ばかりが厳しい環境にいたわけではない。だから三河武士だけが戦いに強いということもない。

実際問題、ある時点まで、三河武士は武田と戦えばボロボロに負けていたわけです。そうなると甲斐の武士のほうが強いということになります。

となりの尾張には、織田信長がいる。彼の軍勢がなぜ強かったか。

一時期よく指摘された理由は、「信長の軍はプロ集団だった」という見かた。要するに兵農分離が進み、農業が主体の他国とは違って、戦闘に特化した軍だったという説です。

しかし現実として「となりの国で起きていることが、こちらの国では起きていません」ということは、なかなかないわけですよ。いくら信長が天才であったとしても、楽市楽座は彼が独創的に行っていたわけではなく、同じようなことは他国でも行われていた。

となりの国で行われていてよかった試みは、近隣の国も真似をする。

逆に三河に存在する風土は、となりの尾張や遠江にもある程度は存在したことでしょう。そうした発想をするほうがふつうではないかなと思います。

だから「三河だけ特別で、忠実で精強な武士団がいた」という話はあまり当てにしてはいけない。

大久保彦左衛門(1560-1639)が書いた『三河物語』などで、「三河武士は精強無比。しかも忠実で我慢強く、戦いに強かった」というイメージが広まっていますが、それは家康が天下をとってしまってから、あとづけでつくられた物語です。

結果から逆に導き出された、プロパガンダのようなものと考えるのがふつうでしょう。

■家康が向かった意外な場所

『三河物語』では「我ら家臣たちは松平家に対して絶対的な忠誠心をもっていたのだ」といったように書かれてもいます。

ですがこうした、家康が偉くなったあとに書かれた記述を、そのまま受け取るのは危ないものです。

たとえば「桶狭間の戦い」の〈その後〉の状況を考えてみましょう。

当時はまだ松平元康だった家康は、今川義元に大高城に兵糧を運びこむように命令された。それでともかくも現地に赴いて、見事に任務を成功させます。

しかしその大高城で、義元の戦死と、今川軍が壊滅的な大打撃を受けたことを知る。このときの家康には「今川領の駿府に帰るか」、あるいは「父祖の地、三河の岡崎に戻って独立するか」というふたつの選択肢があった。

彼が結局、今川と別れ岡崎に戻るという決断をしたことは、ご存じの通りです。

しかし家康は岡崎には戻るのですが、実はそのまま岡崎城には入っていないのです。どう考えても防御力は城が一番高い。ですから、まずはなにがあってもとにかく岡崎城に入るのがふつうでしょう。

しかも、岡崎には彼の帰りを首を長くして待っている三河武士団がいるはずなのですから。「おーい、戻ったぞ」と胸を張って帰還し、忠実な武士団が「殿様、よくぞ帰ってくださいました!」と感涙にむせぶ再会シーンになるはずです。

しかしこのときの家康は岡崎城には入らず、先祖代々のお墓がある、今の岡崎市内にある大樹寺というお寺に行くのです。

大樹寺三門(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)
大樹寺三門(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■主君を襲う三河武士

大樹寺に入ったあとも、安心して滞在していたわけではない。敵が攻めてきたらどうしようと心配もし、実際に家康の首を狙って武士たちが襲ってきた。大樹寺には僧兵的な存在もいたので、彼らが一生懸命防戦して追い払ってくれましたが、家康はご先祖様たちのお墓の前で腹を切る覚悟まで決めていたといいます。

ここで襲ってきた敵は、さすがに織田の軍勢ではないでしょう。織田の軍勢が桶狭間を通り過ぎて、三河まで攻めてくるはずがないのです。

では家康が想定していた敵とは誰か? 実際に来た武士たちは誰か? というと、これは三河武士そのものではないか。

だからこそ彼は、岡崎城に入っていない。そうすると主人を慕う三河武士、主従の麗しい絆なんてぜんぶ嘘だったじゃないかという話になるわけです。

■アイデンティティは岡崎ではない

想像をたくましくすると、家康は1603年に征夷大将軍になってから大坂から江戸城に帰る。そして江戸城で暮らし将軍として日本全国の大名に号令をかける。さらに2年後の1605年に将軍職を息子の秀忠(1579-1632)に譲って、秀忠が二代目将軍になる。そうして隠居した家康が江戸を去ってどこに落ち着いたかというと、駿府に行った。

父祖からの故郷であるはずの岡崎には戻りませんでした。たしかに駿府は名古屋と江戸の中間にあって、東海地方の重要ポイントになる。だから家康が隠居場所として駿府を選んだのは悪くない選択です。

しかしおそらくこのときの家康は将軍職を息子に譲って、自分自身はもう暮らすのに一番気持ちいいところを選んだのだと思うのです。江戸城は秀忠に任せた。名古屋城にも息子の徳川義直(1600-1650)を置き、しかも天下普請ということで、大名たちにみんな寄ってたかって名古屋城を造らせた。

名古屋から江戸までずっと徳川領です。そのどこにでも住みたいところに住んでよかったわけですが、家康は岡崎ではなく、駿府に行った。

もしも家康が自分のアイデンティティを岡崎に置いていたのであれば、隠居したのち、岡崎城に帰ったことでしょう。「岡崎城だと規模が小さい」というのであれば、そこでまた大々的に天下普請を行って大きくすればいいだけのことです。

しかし家康としては岡崎よりも駿府のほうが好きだった。

どの土地で精神形成されたかというと岡崎ではない。おそらく彼のアイデンティティは、人質として幼少期から過ごした駿府にあった。

駿府は昔からの今川の本拠地。伝統もあるし、最新文化も取り入れている。いってみれば都会です。家康は都会で育ったシティボーイだったのです。

■「あいつら、育ち悪いもんな」

その彼にしてみたら三河の岡崎は田舎。正直、肌に合わなかったのだと思います。

だから彼は、そもそも三河武士のことをそんなに好きではなかったのではないでしょうか。「あいつら、育ち悪いもんな」みたいな、そうした感情が根っこのところにあったのではないか。

実際に家康には、どうも岡崎の武士たちを信用してなかったフシがあります。だからこそ、今川の一武将という立場から離れて「これからは独立して松平家を興そう!」といったときに、いの一番に岡崎城に入ることができなかった。

三河武士に対して「俺のことを本当に大事にしてくれるのか?」という疑念があったために、岡崎城ではなくまず大樹寺に入って、様子をうかがっていたのではないでしょうか。実際問題として、大樹寺に攻めてきたのは家康の親類だったらしい。

しかしそれもどこまで本当かなと思います。岡崎で大樹寺に攻め込むとしたらやっぱり地元の三河の武士ではないのかな。時代は戦国時代です。家康の首をあげて一旗揚げてやろうという武士もふつうにいたことでしょう。

■三河一向一揆でも家臣たちは裏切った

岡崎に帰還したのち、家康は三河を平定する動きを示します。三河統一の過程で彼が陥った最大の窮地は、一向一揆との戦いでした。

一向宗とは浄土宗の教えの一派で、一向一揆とはその門徒たちが起こした大名支配への反乱です。これが三河で起きた。

そのとき、相当数の三河武士たちが一向宗側についてしまうのです。一番有名なケースは、のちに家康の参謀として働くことになる本多正信。彼もこのとき一向一揆のほうについた。

主人を敵に回して戦うことを選んだのです。このあたりは当時の武士の面白いところで、戦国武士は、とにかく忠実であることが要求された江戸時代の武士とは違うのです。

「自分の働きを評価してくれない主人だったら見限っても全然構いません」という価値観の中で動いている。

彼らと比べると、むしろ昭和のビジネスパーソンの人たちのほうがよっぽど会社に忠誠心をもっていましたね。ひとつの会社にずっと勤め続けて、その会社のために一生を捧げるのが当たり前だった。そちらのほうがよほど忠誠心が高いという話です。

最近の方たちはわりとドライに、いい報酬を提示されたら転職するとなるようですから、そこはどちらかというと戦国時代の武士に似ています。

それはともかくこの時代の武士は主人への忠義が絶対ということではない。だからこのときの三河武士のように、信仰と主人への忠誠の板ばさみになって「信仰のほうをとる」ということもありました。

それは主人からすると裏切りですから、この事実を見ても三河武士団が心からの忠誠を松平家に誓っていたという話は真実ではない、ということになります。

■なぜ裏切った家臣を許したのか

本多正信は、一揆ののち、家康に顔向けできないということで、長く放浪の旅に出ます。やっと帰ってきたのは「本能寺の変」(1582)のあと、堺にいた家康が命からがら脱出する「神君伊賀越え」のときあたりですから、家来といってもそのキャリアには、相当の断絶があったわけです。

本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)
本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)

しかし「主人に弓を引いた」という事態は、やはり相当まずい。それを三河の武士たちはやってしまった。

実際に一度は敵になったわけで、こうした武士たちのことを家康が心から信頼することはできなかったとしても無理はない。ただ家康は、信長のように一向宗を皆殺しにするようなことはやっていません。

一揆勢として敵方についた武士たちも「許してやるから帰ってこい」ということで、元に戻しています。よく我慢して家来に復帰させたなと思いますし、また「復帰を許さないとやっていけない程度の勢力だった」ということでもあったのでしょう。

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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所 教授
1960年、東京都生まれ。文学博士。東京大学、同大学院で、石井進氏、五味文彦氏に師事。専門は、日本中世政治史、古文書学。『大日本史料 第五編』の編纂を担当。著書に『日本史のツボ』『承久の乱』(文春新書)、『軍事の日本史』(朝日新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『考える日本史』(河出新書)。監修に『東大教授がおしえる やばい日本史』(ダイヤモンド社)など多数。

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(東京大学史料編纂所 教授 本郷 和人)

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