1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 社会
  4. 社会

観光客欲しさに城を魔改造した…徳川家康生誕の地・岡崎城が史実とまったく違う姿になってしまったワケ

プレジデントオンライン / 2023年1月29日 10時15分

岡崎城の天守遠望(最上階に廻縁がつく) - 筆者撮影

今年のNHK大河ドラマの主人公・徳川家康が生まれた愛知県岡崎市には3層5階建ての岡崎城天守閣が建つ。歴史評論家の香原斗志さんは「現在われわれが見ている城は、家康時代とも、その後に改修された城とも異なる。観光客目当てに作られた城だ」という――。

■NHK大河で描かれた城の姿は正しいのか

NHK大河ドラマ『どうする家康』は、最新のCG技術によるVFX(視覚効果)に力を入れている。その結果、「馬の動きが不自然だ」という声がネットなどに上がっているようだが、城の描き方は悪くない。

桶狭間の戦いの際、松平元康(徳川家康)が兵糧を入れた大高城のほか、駿府城や岡崎城の遠景および近景も映し出されたが、時代考証が行き届き、リアルに描かれている。

テレビの画面で、たとえば岡崎城を見て、「城というより砦じゃないか」と感じた人もいるだろう。だが、あれが「砦」であるなら、当時の城とは砦のようなものだった。

当時の城には石垣も、水を湛えた堀もなく、空堀とそれを掘った土を盛り固めた土塁を中心とした土の城だった。そこには天守どころか瓦葺の建物もなく、板葺きの掘立建物が建ち並ぶのがふつうだった。

一方、大河ドラマに合わせ、JR東海などが家康ゆかりの地を訪ねる「どこ行く家康」キャンペーンを実施中で、もちろん、家康が生まれた岡崎城は、訪問すべき重要な場所として扱われ、そこには石垣上に立派な天守が建っている。

ドラマで再現された岡崎城と現在の岡崎城の関係を、どのようにとらえればいいのだろうか。

■家康時代のものは空堀と一部の石垣のみ

家康が岡崎城で生まれたのは天文11年(1542)12月26日とされる。駿府での生活を経たのちに、岡崎城に本格的に戻ったのが、永禄3年(1560)5月19日の、桶狭間の戦い後だった。

以後は元亀元年(1570)に居城を浜松城に移すまで、家康は岡崎を拠点にした。また、浜松に移ってからも、天正18年(1590)の小田原征伐ののちに家康が関東に移るまで、およそ30年にわたって、徳川家による三河国(愛知県東部)の支配の拠点であり続けた。

そのころ岡崎城がどんな姿であったか、具体的にはわかっていないが、ドラマのなかでCGによって映し出された景観と大差なかったはずだ。石垣が一部に積まれていた可能性までは否定できないものの、基本的に土の城であったことはまちがいない。

ただし、いま天守が建っている本丸跡が、当時も城の中心だったと考えられる。そして現在も、城の中心部には一部に、家康時代の名残を見ることができる。

本丸の北側には、清海堀とよばれる空堀が二重に配され、曲線的な構造がいかにも中世の城らしい。この堀は、本丸の対岸に築かれている石垣はのちの改修によるものに違いないが、堀自体は家康時代に由来すると考えられているのである。

家康時代の名残りをとどめる岡崎城の清海堀
筆者撮影
家康時代の名残りをとどめる岡崎城の清海堀 - 筆者撮影

■現在の城のひな型を作ったのは秀吉の武将

だが、岡崎城がいまに通じる姿に改修されたのは、豊臣秀吉の時代になってからだ。家康が関東に移封になると、岡崎城には豊臣系大名の田中吉政が入城。城の西側の湿地を埋めるなどして城域を拡張するとともに、城下町全体を堀で囲んだ。

そして、本丸の周囲には近郊で産出される花崗岩を積み上げ、石垣を築いた。要するに、家康の手を離れてようやく、岡崎城は石垣で囲まれ、瓦を葺いた立派な建物が建ち並ぶ城になったのだ。そして、天守も建てられたようだ。

当時の岡崎城が、関東の家康に対する防衛線を兼ねていたわけで、家康にとっては、自分の生地が自分への備えになるという、皮肉な状況だったのである。

現在、天守が建っている石垣(天守台)は、自然石を割った割石を、多少加工して積み上げたという積み方から、田中吉政時代にさかのぼるのは確実だと見られている。

しかし、田中吉政が建てた天守は、完成後、そう時間を得ないうちに、なんらかの理由で失われてしまったらしい。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いののち、岡崎城がふたたび徳川の支配下に戻ると、譜代大名の本多氏が入城し、元和3年(1617)に天守を再建したようだ。

この2代目の天守は、明治6年(1873)に取り壊されるまで残っていた。

「どこ行く家康」の対象である現在の岡崎城は、家康の居城だったころから数十年のあいだに、頻繁に改修を加えられ、発展したのちの姿であることが、わかってもらえたと思う。

では、いま岡崎城に建っている天守は、どんな由来のものなのか。一応、明治に取り壊された2代目の天守を復元したという建前にはなっているが、少々やっかいな存在だといえなくもない。

二の丸の真ん中に建つ岡崎城大手門
筆者撮影
なぜか岡崎城二の丸の真ん中に建てられた大手門 - 筆者撮影

■古写真をもとに作られた鉄筋コンクリ城

経済白書が「もはや戦後ではない」と宣言した昭和31年(1956)ごろから、天守を復興しようという動きが全国で活発化した。その中心は名古屋や広島、岡山、和歌山など、戦災で天守を失った都市で、故郷のシンボルを取り戻したいという思いが込められていた。

こうした都市が、二度と焼失しないように鉄筋コンクリートで天守を再建する道を選んだのは、わからないではない。だが、この動きは全国の元城下町に波及した。過去に失われた天守を再建すれば、観光客を呼び寄せることができる、という発想で、全国に鉄筋コンクリート造の天守が乱立することになったのである。

そして、岡崎城にも昭和34年(1959)、明治初期の取り壊し前に撮られた数枚の古写真を頼りに、鉄筋コンクリート造で天守が建てられた。

■観光用にねじ曲げられた

しかし、図面も古絵図もひな形もなく、不鮮明な写真だけを頼りにした再建だから、外観がきわめて大雑把に再現されたにすぎない。また、目的が観光客の誘致で、当時は、天守の最上階は視界がよくなければならないという思い込みがあった。しかも、外に出られるのがベターだと考えられていた。

そこで岡崎城の天守も、古写真で見るかぎり、最上階には小さな窓があったにすぎないはずなのに、大きな開口部を設け、さらに廻縁と欄干までつけてしまった。

いまの岡崎城は家康の城ではない、というだけではない。家康の手を離れたのちに改修された城を、形をねじ曲げて再現した、といっていいシロモノなのである。

平成5年(1993)に建てられた大手門が、元の位置からはかなり遠い旧二の丸内に建っているのも、いかがなものだろうか。

■歴史的事実とはなんら関係がない浜松城

じつは、家康が岡崎の次に居城にした浜松城も、似たような経緯をたどっている。

浜松城も、家康時代についての具体的な記録は残っていないが、本丸を中心とした中枢部の構造は、複雑に折れ曲がった石垣などに自然丘陵のかたちが反映されていて、家康時代の姿をかなりとどめていると考えられている。

ただし、いまも残る天守台などの石垣を築いたのは、やはり家康が関東に移ってのちに入城した、豊臣系大名の堀尾吉晴だと想定されている。ちなみに天守は、17世紀半ばに幕府に提出された「正保の城絵図」にはすでに描かれていないので、それ以前になんらかの理由で失われたものと思われる。では、昭和33年(1958)年に鉄筋コンクリート造で建てられ、最近、『どうする家康』の放送開始に合わせて化粧直しが終わった天守は、なにを参考に建てられたものか。

400年近く前に失われ、写真はおろか絵図もなにも残っていないので、なにも参考にするものがなかったというのが現実である。要するに、歴史的事実とはなんら関係がない建物なのだ。おまけに、当時の予算の都合で、天守台東側の約3分の2だけを使ってこじんまり建てられている。

浜松城の復興天守は、石垣の3分の2しか使っていない
筆者撮影
浜松城の復興天守は、石垣の3分の2しか使っていない - 筆者撮影

■家康ゆかりの地めぐりで気を付けること

家康ゆかりの地を訪れるのはいい。しかし、現実には、このように家康とは縁もゆかりもないものが、いかにも家康と深い縁がありそうな顔をして待ち構えているので、チェックが欠かせない。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください