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1974年の入社式には「赤やピンクのスーツ」の新入社員がいたのに…日本社会を支配する「空気」の重苦しさ

プレジデントオンライン / 2023年1月31日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

評論家の山本七平氏は、1977年刊行のベストセラー『「空気」の研究』で「日本社会は空気に支配されている」と説いた。ライター・編集者の中川淳一郎さんは「その支配力はますます強くなっている。『空気』に翻弄される生き方を続ける日本人が、幸せにはなれるはずはない」という──。

■日本社会を支配する「空気」に目を向ける

日本では法律や条例ではなく「空気」こそが重要視される。新型コロナ騒動において、「マスクは任意」「マスクは屋外では不要」であっても常時着用の「空気」が存在したため、新型コロナ騒動開始から4年目の2023年1月の今も、人々は他人の目を気にしてマスクを着用し続けている。

他国は「罰則」「義務化」「ルール」により人々を統制するが、日本は法律でもなんでもない「空気」が人々を統制する。そしてタチが悪いのが、「政府も自治体も強制していないというのに、『空気』を読んだ末端の施設や組織が、マスク着用を『お願い』(事実上の強制)する」といった流れだ。こうなると、誰も強制していないものだから、終わらせ時がわからないのである。

というか、為政者たちも「お前らが勝手に着け続けているのだから、われわれに外すタイミングを言わせないでもらえないかなぁ……」と考え、判断を先送りしてきたフシがある。たとえば2020年3月31日の国会審議の写真を見ると、役人は装着している者が見られるが、国会議員の多くはしていない。しかし4月1日になった途端、議員もマスクをし始めた。国民が「規範を見せろ!」とキレたからである。要は、日和見ということだ。

■「空気」を生み出す3つの価値観

コロナに限らず、日本では「空気」がさまざまな行動を規定する。1977年に刊行され、ベストセラーとなった名著『「空気」の研究』で、著者の評論家・山本七平氏はこう述べている。

〈日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると最も軽くて「村八分」刑に処されるからであって、これは軍人・非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。「空気」とはまことに大きな絶対権をもった妖怪である。一種の「超能力」かも知れない〉

同氏は太平洋戦争時に徴兵され、外地での戦闘にも参加した人物であり、昭和の世間を支配していた「空気」について論考したわけだが、本稿で私は、令和における日本の「空気」について考察してみようと考えている。

結論を先に述べてしまうと、昭和も現代もあまり変わりはない。基本的には「全体主義」「他人から厳しい目を向けられないことがもっとも重要」「現実的かつ科学的な結論、具体的な効果効用などはさておき、他者と違うことをしないことが大切」という3つの価値観が、日本社会の「空気」をつくり出している。

■就職活動に見る「空気」の影響

日本社会における「空気」はさまざまな観点から考察が可能であるが、まずは就職活動である。新卒就活では、いわゆる「リクルートスーツ」を着ることが「空気」になっている時代が長らく続いている。そして、入社式でもこのスーツを着ることになっているようだ。女性の場合、長髪の人は後ろで束ねて、地味めのポニーテールなどにするのが常道。茶髪や金髪もご法度である。

入社後も、配属までの研修期間中はリクルートスーツで無難にやり過ごす。そして正式に配属された後、職場の様子や周囲の視線から気配をうかがったり、先輩・同期に話を聞いたりしながら、徐々にリクルートスーツ以外の服装に変えていくのだ。しかしながら、濃紺のスーツで一様に身を固めるスタイルは、1970年代後半に入ってから広まった「空気」らしい。

以前、1960年代の入社式の写真を見たことがあるのだが、新入社員はさまざまな趣向をこらした服でその日を迎えていることが、モノクロ写真からでも読み取れた。60年前の新入社員のほうがよほど自由で、自分らしく社会人デビューを果たしていたといえる。

また、プレジデントオンラインで使っている時事通信の写真データベースを調べると、「1974年の新日鉄(現・日本製鉄)の入社式」という写真が見つかる。手前に写る女性社員は赤やピンク、ブラウンなどのスーツを着ている。また奥に写る男性社員も濃紺一色ではなく、グレーやブラウンを選んでいる。

1974年4月1日新日鉄入社式
写真=時事通信フォト
1974年に行われた新日鉄(現・日本製鉄)の入社式の様子 - 写真=時事通信フォト

私が就活をしたのは1996年のことだが、当時、リクルートスーツは「就活生の制服」のごとく定着していた。だが、空気を読まないタイプは私服で会社説明会へ行ったり、自分がカッコイイと思っているスーツをバシッと決めたりもしていた。そうした姿勢は就活後、本人が武勇伝のように語ったりすることもあるので、若干イタい感じもするが、まぁ、自分のアタマで考え、判断することができるタイプとはいえるのかもしれない。

ちなみに私はスーツを持っていなかったため、父親のダブルのスーツを借りて就活をしていた。そのスーツを着て、OB訪問に出向いたとき、次のようなやり取りがあった。

某社1階のロビーでOBを待っていると、程なく、辺りをキョロキョロと見回す若手社員が現れた。おそらくこの人が、アポを取っていたOBのF氏だろう。「Fさんですか? 中川です」と私が名乗り出ると、F氏は少し意外そうな顔をしながら「あぁ、キミだったのか。いや、ダブルのスーツを着て、レンズに色の入った眼鏡をしているから、てっきり取引業者の人かと思ったよ」と応えた。このときは一瞬、リクルートスーツの利点を知ったような気もした。が、その場にリクルートスーツの若者が複数人いたら、ますます自分のことを認識してもらえないかもしれない──とも感じた。

■失礼クリエーターらが提唱し始めた「就活の謎ルール」

その後、就職氷河期が続くなかで「就活は苦しいもの」というイメージが定着していく。すると「失礼クリエーター(『それって失礼に当たるの?』『そんなことまで気にしている人、いる?』と疑いたくなるような、奇妙なマナーを次々に生み出す)」とも評されるマナー講師、そして人材関連の専門家あたりが「就活の謎ルール」を提唱し始める。それらがネット上で共有され、徐々に「空気」が醸成されていった。

たとえば「部屋に入るときのノックは3回」とか、「自己PRでは困難に直面した実体験を挙げ、いかに周囲を巻き込んで問題解決したかを説明しろ」といったものだ。

特定業種の場合、模範解答が存在する。広告業界であれば「私はゼミの幹事長を務めていたのですが、インカレゼミのレポートを作成する際、グループが2つの意見にわかれ、崩壊寸前になりました」「そこで先生に見解を伺ったうえで、両者が折り合う結論に着地できるよう、各人と意見交換を重ねました」「そして調整に尽力した結果、無事に解決に導くことができました」「広告会社はクライアントと生活者をつなぐ存在です。私は先の経験で多面的視点を獲得しましたが、これは広告業界でもきっと役に立つでしょう」といった展開で面接官にアピールせよ、などと説かれるのだ。

「広告会社はクライアントと生活者をつなぐ存在。会社が新規人材に求めているのは、両方に目を向けられる視野の広さと調整力なのだ!」と就活コンサルは勝手に決めつけているだけ。でも、就活生はワラにもすがる思いで、そのアドバイスを受け入れ、実践していく。そうして画一的なアピール手法が広まり、まずは形から入るような就活の風潮が生まれたのである。

だが、実際に広告代理店で働いた経験を持つ私からすれば「仕事の現場でもっとも求められるのは野心と、クライアントの無茶ぶりを受け止められる根性」だと考えているし、業種や配属先に応じて要求される個性やスキルも異なってくる。当たり前ではないか。

■求職側も、求人側もウソばかり

就活の自己アピールでは、なぜか比喩も多用されるようになった。これも「謎ルール」の影響だろう。私は会社員時代、リクルーターとして就活生と話をする機会が少なからずあったが、「暑さや寒さ、湿度の調整を状況に応じて柔軟にこなすエアコンのように、自分はさまざまな局面に対応できる」だの、「私はサッカーの『リベロ』。このポジションは攻撃にも守備にも参加するので、両方の視点が持てる」だの、つまらないたとえ話を持ち出して「だから、御社に貢献できます!」などと豪語する学生が続き、辟易したものだ。

また、何が目的かは知らないが、大手商社に入った男性がツイッターで就活生に助言をし始め、ドヤ顔を決めたりする姿も散見されるようにもなった。求人サイトの各社情報の掲示板には真偽不明な攻略法が書き込まれ、「参考になります!」と多くの学生がそれに狂喜するような光景も珍しくない。信憑性に乏しい助言に従ってエントリーシートを作り、面接に臨んでいる時点で、うかつな人材、没個性な人材であることを表明しているようなものだろうに。

私なぞ志望動機を聞かれても「ここで働いている○○先輩が楽しそうだったから」程度で済ませていた。だから、1勝16敗という惨憺(さんたん)たる結果になったともいえるが、ウソをつくこともなく、ただ本心を言うだけだったので、ラクではあった。

もっとも、採用側もウソだらけであることは同じである。バイト・パートの求人広告を見ると、「明るい職場です」という一文をよく見かける。「いや、オレが行くコンビニ、いつもドヨーンとした空気が漂っているけどな」と思わなくもない。そもそも大抵の職場は、採用時にはいいことばかり伝えてくるが、実際に働くと苦痛だらけである。「明るい職場です」という触れ込みで入ったバイト先が明るかったためしなどない。

■勤務中に一息つくことすらはばかられる「空気」

続いては仕事における「空気」である。特徴的なのは「○○をするのは失礼である(職業倫理に反する)」という世論の圧力──つまりは「空気」だ。こうした言説の大半には、一切の合理性がない。

具体例を挙げると「コンビニ店員は勤務時間中、座っていてはいけない」「制服を着た人々、役所関係者は外での勤務中、たとえ酷暑で水分補給がしたくても、コンビニに入って飲料を買ってはいけない」「勤務時間中、所属組織が周囲からわかる状況(組織名が書かれたクルマで駐車する、など)で飲食店に入り、昼食を摂ったりするのはご法度」といった「空気」である。

2017年4月、愛知県の消防隊員7名が消防車でうどんを食べに来ていたことが批判された。「公用車を私用に使っていいのか」と市民は憤ったわけだが、実際は外での業務からの帰路、「署に戻って出直すと昼食を摂るタイミングを逸してしまうから」ということでやむを得ず立ち寄っただけなのだ。むしろ、以降の仕事に集中し、穴を開けないため、そして効率的に休憩を取るためにとった行為なので、誹るのはお門違いだと思う。

この件でテレビの取材に答えた20代女性は「私たちの納めた税金でお給料とかガソリン代を払っているので怒りを感じますね」と、したり顔で話していた。実際、私の知り合いの県庁職員や市役所職員も、県や市のロゴ付き公用車を利用する場合は飲食店を使わないという。通報されるからだ。

これはかなり厄介な話で、クレームを付ける人間はごく少数派であり、大多数はこの件については「仕方がない」「大した問題ではない」と考えている。しかし、クレームを受ける側は事態を収拾するために過剰に忖度(そんたく)し、「そのような『空気』になっているのだから、仕方ない」と処分をしたり、けん責をしたり、謝罪をしたりするのである。最近、夏の水分補給については「熱中症対策」の名目で業務中でも許されるようになってきたが、これも「空気」が規定したものだ。

■「無駄に参加者が多い会議」の奇妙な作法

仕事の現場はとにかく「空気」だらけである。特にそれが表れるのが会議の場だ。会議なんてものは各部署の意思決定者だけが参加すれば成立すると思うのだが、なぜかゾロゾロと人がやってくる。かつての広告業界の例でいえば、5つの部署から人が来て、プレゼンに向けた会議をするなんてことがザラにある。営業・マーケティング・制作・PR・SPの5部署からそれぞれ3~6人がやってくるとなると、参加者は20人を超える。

しかし、この会議で喋るのは各部署の一番エラい人、もしくはナンバーツー的な人だけだ。その他の下っ端はただメモを取っているのみ。会議室のテーブル席には主要メンバーが座り、下っ端は隣の会議室から椅子を持ってきて壁際に座る。国会の委員会、審査会で政治家やエラい官僚がテーブル席に座り、後ろに下っ端が控えている映像を見たことがある人も多いだろう。アレと同じなのである。

加えて、こうした会議では、最終的に意思決定をする各部署の一番エラい人ないしはナンバーツーが遅刻をすることは、なぜか許される。時間どおり集まったメンバーたちは「Xさん、まだ来ませんね」「忙しいんですかね」などとときおり口にするだけで、1時間半ものあいだ、ほぼ黙って待機していることさえあった。そして、当のX氏は酒を飲み、顔を真っ赤にした状態で悪びれもせず登場。「いやいや、クライアントから情報、取ってきたからさ~」「で、どこまで進んだ?」なんてやるのだ。

会議に遅れてくる人
写真=iStock.com/FangXiaNuo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/FangXiaNuo

■仕事にまつわる理不尽も「空気」のせい

そんなこんなで、会議冒頭ですでに語られた案件趣旨や決めるべき事柄について、改めて説明が始まる。続いて、メンバーたちがそれまでに検討を重ねてきた案──重鎮たるX氏の考えそうなアイデアがポツポツと提案される。まあ、悪い案ではないし、一同もおおむね納得しているから、せいぜい微調整程度の指摘を受けるだけでゴーサインが出るか……と思いきや「う~ん」と白々しくうなり始めるX氏。「なんかピンとこないな~」「こういうの、クライアントは好きじゃないと思うんだよね~」などと、いきなりちゃぶ台をひっくり返し、これまでの1時間45分の会議(さらにいえば、会議に至るまでの各部門での検討)を完全にぶち壊す。

しかし「Xさんが遅刻するのが悪いんです。アナタが不在のあいだにわれわれは議論を重ねて、一定の結論に至りました。もう、この方向で進めようと思います!」などと反旗を翻すことは不可能である。何しろこの場の「空気」はX氏が握っているのだから。おまけに「遅刻するほうがエラい。売れっ子である証し」という「空気」もある。「優秀な人ほど忙しい」「忙しいのだから、会議に遅れても悪くない」という価値観がまかり通ってしまう。遅刻した人も「オレ様が売れっ子だからお前たちに給料が払われているんだぞ」といったプライド、そしてマウンティングの意識があるのだろう。

こうした光景を目にしているから、若手社員は定時に仕事が終わっていたとしても帰ることができない。「いま帰ったら無能だと思われてしまう」という恐怖から、どうでもいいPDF資料を見返すなど仕事をしているフリで、時間をつぶす。その意味で、パソコンは「熱心に仕事に取り組んでいるフリ」ができる最高のツールといえる。実際はPDFやワードファイルを開いた横で、なんとなくネット記事を見ているだけだったりするのだが、「情報収集しております!」という雰囲気を出せば、仕事をしているように見せかけるのも容易だ。

■日常生活のさまざまな事柄に「空気」の圧が絡む

「空気」の厄介さは家庭生活にも反映される。たとえば「女性は料理ができなくてはいけない」という「空気」だ。「彼氏ができた」とでも話そうものなら「彼にはどんな料理作ってあげているの?」と聞かれてしまう。結婚したことを男性が報告すると「奥さん、料理は上手?」「新妻の家庭料理、うらやましいな」なんてことを無配慮に口にする人も少なくない。

私の家についていえば、料理は完全に私の担当である。妻は一切料理ができない。本人も認めているが、センスがないのだ。そのかわり、私が苦手とする食器洗いや洗濯は、妻が一手に引き受けてくれている。家事なんてものは適材適所。できるほうがやる、でいいのだ。

日本では他にも、日常生活に関係するさまざまな事柄に「空気」が存在し、価値観や行動を規定している。いくつか思い付くままに列記してみよう。まったく、くだらないものばかりだ。

・そこそこ「いい会社」に勤めている人はマイホームを買わなくてはいけない
・「大人の社交上のたしなみ」としてゴルフをしなくてはいけない
・結婚をしたら子供をつくらなくてはいけない
・子供が生まれたら、その子を夫婦ぞれぞれの実家にマメに連れて行かなくてはならない。連れて行く家はより「圧(空気)」の強いほうが優先される
・都会である程度の収入がある家の子供は「お受験」をしなくてはならない
・タワマンでは上層階に暮らすほうがエラく、カースト上位として振る舞える
・ある程度収入が高い人が東京都内に住む場合、港区・中央区・江東区・新宿区・渋谷区・中野区・杉並区・世田谷区・品川区あたりでないと格好がつかない。足立区や墨田区、北区、板橋区などは一段下に見られてしまう
・ある程度収入がある人は、欧州車かレクサスなど国産高級車を買わなくてはいけない
・インスタグラムでオシャレな暮らし、丁寧な暮らしをアピールしたければ、手料理はオーガニック食材や、貴重なお取り寄せ食材を使ったものでなくてはならない
・デキる男は時計と靴が高級品でなくてはならない
・カップ麺を食べてもSNSに公開してはならない。なぜなら、マウンティングに寄与しないから
・リモート会議では、下っ端ほど先にログインして上席を待ち、ログアウトする際は最後まで残らなくてはいけない

■上司の上海焼きそばが来ないと、自分の担々麺が食べられない

サラリーマンのランチでも、こうした「空気」は存分に効力を発揮する。端的なところでは「上司の注文品が部下の頼んだものより遅い場合、部下は箸をつけてはいけない」あたりが代表例だろう。

こうした状況になると、部下は「遅いですね……」と周囲の様子をうかがったり、店員に「あのぉ、上海焼きそば、まだですか?」などと軽く圧をかけながら確認したりする。上司に忖度し、「私は部長の頼んだ上海焼きそばのことを気にかけています!」という「空気」を醸し出すわけだ。部長が「私のことは気にせず、先に食べ始めて」「せっかくの担々麺が冷めてしまうよ」なんてざっくばらんに言ってくれても、「いやいや! もうすぐ部長の品も来ますから!」などと、部下はお預けを喰らった犬のごとき状態で、目の前の料理が冷めていくさまを見続けるのである。

担々麵
写真=iStock.com/SetsukoN
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/SetsukoN

コレ、一体誰が得をするの? 上司は「イヤ、別にオレ、何もわだかまってないけど。それよりも、お前らの麺が伸びることのほうが気になるわ」なんて思っているだろうし、部下も「あぁ……どんどん味が落ちていく」と気分が落ちるだけ。店員も「さっさと食べてちょうだいよ。そのほうがおいしいし、私らも早く片づけることができるのに」と考えていることだろう。誰もがこのバカげた「空気」でメリットを得ていないのである。この手の無駄な「空気」読みが、日本社会には多すぎるのだ。

■「空気」は物事の優先順位を崩壊させる

公共交通機関も「空気」を読む場所の典型である。電車には「降りる人が先、乗車するのはその後」という乗降マナーが存在するが、これには合理性がある。しかし「車内で泣く赤ん坊は迷惑だから、舌打ちOK。親は席から離れて、スミのほうであやすべき。あるいは次の駅で降りろ」「電話で喋っている外国人はニラんでいい」「寝たフリをすれば高齢者や障害者に席を譲らなくて済む」「マスクを着けていない不心得者を撮影し、SNSで公開してもいい」といった「空気」はいかがなものか。

コロナ初期の頃、珍現象が発生した。7人がけの席の場合、4人が1席ずつ空けて座る「空気」が醸成されたのだ。また、座っている人間と吊革で立っている人間同士が向かい合うとコロナに感染する、という「空気」も生まれた。それにより何が起きたかといえば、ドア付近の混雑である。まったく本末転倒だが、これが2020年春の風景だった。しかし、緊急事態宣言が終了するとなし崩し的にこの「空気」は収まり、7席すべてが埋まるようになった。とはいえ、マスクを着用しない者が椅子に座ると露骨に不快感を示す「空気」は続いたし、マスクをしていない人間が車内に入ってきたら隣の車両に移る者もいた。

車内のソーシャルディスタンス
写真=iStock.com/Fiers
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Fiers

有効性を無視して、なんとなくの「空気」だけで規範を作り、それが無意味であることがわかった後も思考停止で守り続ける。まったくワケがわからない。そんなことより、いまだに駆逐されない電車内の痴漢の問題を何とかしろよ、と思う。コロナ騒動に踊らされた日本人は、物事の優先順位が完全にぶっ壊れてしまったのだろうか。

■自粛警察、不謹慎厨が「空気」の理不尽さを強化

コロナ騒動では「自粛警察」が大量に誕生したが、その元祖は2011年の東日本大震災である。

このときは多数の死者が出たほか、寒いなかで避難所生活を強いられる人々も多かった。そこで「被災者の苦しみと比べたら、私の人生なんて平穏なもの」「自分は恵まれている」「何かできることをしなければ」といった気運が高まり、「セルフ自粛」(変な言葉だが)をする人が増えた。また、福島第一・第二原発が稼働停止したため、電力のひっ迫も懸念され、節電ムードも広まった。首都圏からネオンの明かりが消え、施設内照明や街灯も大幅に減灯となり、街全体が暗闇に包まれた。

そうした風潮のなかで出現したのが、「自粛警察」「不謹慎厨(何かにつけて『不謹慎です!』と難癖をつけてくる人々)」である。東日本大震災の発生からしばらくは、SNSに豪華な料理の写真や笑顔の写真を公開するだけで、非難の対象になった。コロナ騒動でも同様の「空気」が生じ、「亡くなった人や症状に苦しんでいる人がいるというのに、楽しそうに過ごしている写真を公開するなんて常識を疑う!」「皆が我慢しているところ、会食したり、旅行に出かけたりするなんてけしからん!」などと自粛警察、不謹慎厨は騒ぎ立てた。

写真を公開した人からすれば「暗いムードを少しでも吹き飛ばして、明るい気持ちになれたら」「1日でも早く日常を取り戻したい。経済を回したい」といった思いがあったのだろう。でも、自粛警察や不謹慎厨は「正義はわれらにあり!」とでも言わんばかりに糾弾した。私のまわりでも、一緒に小旅行に出かけたり、会食をしたりした人(とりわけ、それなりの立場にある人、知名度のある人)から、「悪いんだけど、今日の写真、SNSにアップしないでおいてくれるかな」とお願いされるケースがいくつかあった。自粛警察に見つかったら、何を言われるかわかったものではないからだ。

■コロナ以降、日本の「空気」はますます面倒くさいものに

それにしても、ここ数年のコロナ騒動は、日本社会の「空気」に関する議論をますますややこしいものにしてくれた。とくにマスク着用については理不尽なことばかりで、「空気」にまつわる悪い側面が集約されたような、実に醜悪な「コロナしぐさ」となった。

先ほど述べた「職場のランチ」においても、コロナ騒動以降は「その場で一番エラい人がマスクを外さない限り、下っ端は外せない」という「空気」が広まった。サラリーマンだろうと、肉体労働者風の人々だろうと、上司や最年長とおぼしき人物がマスクを外さなければ、自分もマスクを外さない。ところが、その上役的な人物がマスクを外した途端、全員がいっせいにマスクを外す。そして、上役が食べ終わって再びマスクを着けると、他の面々も慌ててマスクを着ける──そんな光景が、昼食時の飲食店でよく見られた。

私が、この「空気」の珍妙さ、問題の根深さを痛感したのは、3~4人組の学生の食事風景を見たときだ。上役的な人物が存在しないグループでは「誰が最初にマスクを外していいのか」がわからない。つまり「空気」が読みづらいのだ。そこで、まずはお冷やを飲むとき、「まだマスクを完全に外してはいませんよ」とばかりに、政府分科会の尾身茂会長が推奨したスタイル──マスクの片側の紐を耳にかける「尾身食い(飲み)」、もしくは「あごマスク」で対応する。その後、最初に食事が到着した人が「お先!」とマスクを外し、食べ始めたところでようやく全員が外しだすのである。この流れに、何の合理性があるのか。

合理性がないといえば、「店に入るとき」「注文したものが来るまで」「便所へ行くとき」「会計・退店をするとき」にはマスクを着けなければならない、という「空気」も謎である。そこまで飛沫(ひまつ)を気にするのであれば、もっとも飛沫が飛ぶであろう「飲食時」こそマスク着用を徹底するべきである。けれど、それでは飲食ができないから、客はせめて「尾身食い」を励行し、店側は守らない客を即座に追い出さなければならない。「そんなの、現実的ではない」「暴論だ」という向きもあるだろう。それは百も承知だ。マスクに関する「空気」は、どう考えても合理的ではない。だから、非現実的な話にしかならないのである。

■もはや「空気」の読み合いでしかないマスク着用

これが、コロナ以降の「空気」がもたらした、すさまじき行動規範の実態だ。飛行機やスーパーでは「他のお客様の安心のため、鼻まで覆うマスクの着用をお願いします」といったアナウンスが頻繁に発せられる。もはや感染対策が趣旨ではない。「『マスクをしない人』に過剰反応し、むやみに怖がる人々が醸し出す空気」に忖度しているだけである。

現在、「従業員がコロナに感染したので10日間施設を封鎖し、防護服を着た人間が全館をくまなく消毒する」なんて大袈裟な対応はなくなった。「未知の殺人ウイルス」に恐れおののいていた、あの頃とは違うのだ。時間の経過とともにコロナウイルスにまつわる知見が蓄えられ、人々の恐怖感は確実に和らいでいる。未知だった頃の「空気」は薄れてきたのだ。

しかし、なぜかマスク着用については、その効果にどんなに疑問符が付こうと、なかなか「空気」が変わらない。「マスクを着けることくらい、大した負担ではないだろう」「一度決めたことなのだから、ひとまずはつべこべ言わずに守れ」「バングラデシュの調査とスーパーコンピュータ『富岳』のシミュレーションでは、マスクの効果が認められた」といった意見が大勢を占める。そんな、マスク率90%超(体感値)の社会が放つ「空気」。施設や企業は、それに忖度しているだけなのだ。

加えて「他の施設のマスク着用ルール」と歩調を合わせるよう、各施設・企業が「空気」を読み合ってしまっているのも煩わしい。他より先んじて「われわれはマスクを強要しません」などと打ち出してしまえば、「感染対策がなっていない店」と世間の厳しい目にさらされる。その「空気」感がわかっているから、誰もやめられないという逆チキンレースになっているのである。

■あなたの人生、「空気」に支配されたままでいいのか

こうした「空気」が完全に定着してしまったため、いくら日本が世界最高の陽性者数を2022年に17週間も達成しようが、ワクチンのブースター接種を猛烈に推進しながら世界最高レベルの致死率を「第8波」で記録しようが、もはやどうでもいいのである。重要なのは、ファクトではなく「空気」──それが日本社会の紛うことなき実像なのだ。要するに「マスクをするのが当たり前という『空気』のなか、人が大勢死んでも、みんながその『空気』に従ったのだから、いいよね!」ということである。

コロナによって生まれた「空気」は、醜い差別すら容認してしまった。この3年間、「マスクを着けない者」はいくら差別をしても構わないことになった。大人の社会だけでなく、小学校、中学校などでもマスク差別は横行したと聞く。同級生や先輩、教師、果ては横断歩道で旗を持つボランティアからも差別されるのだ。

そして、「空気」の支配力が最強のSNSであるフェイスブックでは、マスクやワクチンに異議を唱えるような書き込みをすると「いいね」の数が明らかに減る。自分の体感値では、通常の投稿と比べて3分の1~5分の1程度だ。「このエントリーに対して『いいね』を押すと、私も中川さん同様、反社会勢力だと見なされてしまう」「それは怖いから、少し共感する部分もあるけど『いいね』を押すのはやめておこう」という人が多いのだと思う。

というわけで、これからも日本人の皆さんは「空気」に従って、頑張って生きていってほしい。私はもう日本社会に愛想が尽きたので、今年2月6日から、しばらく海外へ逃亡することに決めた。まずはタイへ行き、ビザが切れるまで様子を見る。そこで日本が相も変わらずバカな「空気」を継続するようであれば、次はマレーシアかベトナムに移って、引き続きのんびり過ごす。それでもまだ日本のくだらない「空気」が変わらなければ、再びタイに戻って……といった具合に、日本社会の「空気」とビザの有効期限を鑑みながら、外国を転々とするつもりである。

バカバカしい「空気」に盲従するのではなく、個々人が自分のアタマでしっかりと考え、納得したうえで判断を下すほうが幸せに生きられるし、正しい選択ができる。

それが理解できないまま一生を終える人間のことを想像すると、「ご愁傷様」としか思えない。

【まとめ】今回の「俺がもっとも言いたいこと」

・日本は法律や条令ではなく、世間の「空気」が行動規範として重要視される社会。「空気」を読み、他者から非難されないよう立ち振る舞うことが美徳とされる。

・「空気」には合理性に乏しいもの、有効性に疑問符が付くものが多い。それでも「批判する前に、まずは従え」「皆が守っているのだから、オマエも守れ」と盲従する姿勢が求められる。

・コロナ騒動を通じて、日本社会にはびこる「空気」の理不尽さは、さらに強化された。

・バカげた「空気」に流されることなく、自分のアタマで考え、判断を下すことが大切。

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中川 淳一郎(なかがわ・じゅんいちろう)
ライター
1973年東京都生まれ。1997年一橋大学商学部卒業後、博報堂入社。博報堂ではCC局(現PR戦略局)に配属され、企業のPR業務に携わる。2001年に退社後、雑誌ライターや『TVブロス』編集者などを経て、2006年よりさまざまなネットニュース媒体で編集業務に従事。並行してPRプランナーとしても活躍。2020年8月31日に「セミリタイア」を宣言し、ネットニュース編集およびPRプランニングの第一線から退く。以来、著述を中心にマイペースで活動中。著書に『ウェブはバカと暇人のもの』『ネットは基本、クソメディア』『電通と博報堂は何をしているのか』『恥ずかしい人たち』など多数。

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(ライター 中川 淳一郎)

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