役立たずの人間だから、スクラップに出してくれ…そんな盲ろうの祖母を笑顔に変えた「奇跡の靴下」の物語
プレジデントオンライン / 2023年2月22日 15時15分
■生きづらさを抱えた盲ろうの祖母の本音
2018年の春の出来事を、田村(たむら)優季(ゆき)は一生忘れない。
祖母が暮らす愛媛県松山市のマンションを久しぶりに訪ね、ふたりきりで世間話をしている時だった。「前できたことが最近しづらくなってね……」と小さくつぶやいた。
祖母は、視覚と聴覚に障害のある盲ろう者だ。かつては光の調光を感じることができたが、今は完全に見えない。聴覚は右耳が少し聞こえる程度だ。
ダイニングにあるイスにぽつんと座る祖母。その右隣に田村はひざまずき、ひざにそっと手を置いて話を聞いていた。その時、思わぬ言葉を耳にした。
「おばあちゃんは目も見えないし、耳も聞こえない。役立たずの人間だから、もうスクラップに出してくれ」
無性に怒りがこみ上げ、胸が締め付けられる思いがした。田村は「なんでそんなこと言うの。おばあちゃんがいたからお母さんがいて、私が生まれたのに!」と言った。
いつもは気丈に振る舞う祖母が、なぜ――。今まで、たびたび生きづらさを感じてきたのだろう。戸惑いながらも「なんとかせな」と思った。
長く裁縫の仕事をしていた田村は「祖母の喜ぶ服をつくろう」と動き出す。目指すは目が見えなくても一人で簡単に着られ、自分らしくいられる服だ。
そして2020年にインクルーシブデザインを中心としたアパレル&コミュニティブランド「ouca(おうか)」を立ち上げ、2022年、これまでにない靴下「minamo(みなも)」を開発した。
■前後、左右、裏表のない靴下
この靴下は、かかとがなく、筒状になっている。左右の違いもなく、360度どの方向からも履ける。特殊な編み方を施しているため、ふくらはぎがズレにくく、締め付け感がない。
左右の違いだけではなく、この靴下には裏表がない。色も柄も非対称になっているので、靴下の組み合わせは自由に選べる。左右ワンセットという概念もない。まさに「目を閉じても履ける靴下」なのだ。
価格は3本セットで5500円。「2本じゃないんですね」と聞くと、田村はこのように答えた。
「ペアにしないと履けない、というストレスをなくしたかったんです。片方だけなくしたり、同じものを履き続けると、痛んだり、破れたりしますよね。でも3本をローテーションすれば長く使えます。どんな角度でも履けるので、同じところが傷みにくいんです」
■障害のある人も、ない人も使いやすいデザインに
2022年5月にクラウドファンディングで販売すると、開始から1日半で目標金額24万円を達成し、全部で528本が売れた。同じタイミングで、大阪駅直結の駅型商業施設「大阪ルクアイーレ」のセレクトショップでも期間限定で発売。9月にはNHK「おはよう関西」に取り上げられ、新聞やメディアからの取材依頼が舞い込むようになった。
「裏表を気にせず洗濯機に入れて洗える」
「靴下の片方を探す手間がなくなった」
「爪の生え際に縫い目があたらないから快適!」
と、SNSを通して多くのコメントが寄せられる。この靴下を愛用するのは障害者だけではなく、健常者も多いという。
「minamo」の製造は靴下工場で行っているものの、編み終わりの部分を手作業で糸始末をする必要があり、田村自身が大阪市のアトリエで1本ずつ行っている。「一人社長だから、毎日てんてこ舞いです」と言うが、その表情はどこかうれしそうだ。
「靴下を作るきっかけはおばあちゃんだったけど、健常者の方からも『すごく使いやすいから、子ども用もほしい』って声をいただきます。この商品を通して、誰かの不便はみんなにとっても価値があるんだと気づいてもらえたらと思います」
おだやかな口調で話す田村だが、ここに辿りつくまでは、まさに「いばらの道」だったという。「祖母の言葉があったからこそ今があります」と語る34歳の彼女は、どのように婦人子供服製造技能士になり、靴下づくりをはじめたのだろうか。自宅兼アトリエで話を聞いた。
■工場に就職、手取り6万円の生活…
1988年、愛媛県松山市に生まれた田村は、高校までを地元で過ごした。高校3年の夏に図書室で借りた小説の主人公の自由な生き方に憧れて、服飾の道を志す。
なぜ、服飾だったのか。
「小学校3年生くらいのとき、父方の祖母がワンピースを作ってくれたんです。それがうれしくて、私もスヌーピーやリカちゃん人形に服を着せてみようと、見よう見真似で作り始めて。5年生で手芸部に入ったんですけど、そのころから『いつか、人にずっと着てもらえるような服を作りたい』って思うようになってました」
その後、神戸にある4年制の服飾専門学校を卒業。大阪市にある大手縫製工場に就職した。意気揚々と入社したものの、ふたを開けてみると、縫製職人の道は自分が想像していた以上に険しく、厳しいものだった。
勤務時間中はノルマに追われた。先輩に手本を見せてもらいながら進めるが、何度やってもうまくできず、縫っては解いての繰り返し。チームの流れを止めている焦りから、始業より1時間半ほど早く工場に向かい、遅れを取り戻そうとした。
工場から歩いて30分の場所にある寮はトイレ、風呂、キッチンが共用で、部屋の壁が薄くて隣に住む同僚がお菓子を食べている音が聞こえた。寮費と食費、そして週3回の研修費などが引かれ、給料は手取り6万円。土日は寮で食事が支給されないため、自室の小さな冷蔵庫に値引きされた食材を詰め、狭いキッチンで作って食べた。
■仕事から何度も逃げたくなった
工場はチームごとに行うシステムで、なかでも腕のいい先輩たちの班に配属された。そのため難しい服を任されることが多く、うまくできないことが多かった。班長からは「やり方がわからんのなら帰って!」と厳しく指導されたこともあった。
気が付けば1つ上の先輩が全員辞めていた。田村も何度も逃げたくなったが、夢は諦められない。「負けたくない」という気持ちで工場に通った。
勤務時間外にもミシンの練習を重ね、休日には服飾の講習会に通った。2016年には婦人子供服製造技能士1級の国家資格を取得。入社4年目で班長に抜擢される。
■無理がたたってうつ病に
工事に勤めて6年目の秋、異変が起こる。
目が覚めると身体がだるく、布団から起き上がれない。工場に休みたいと電話を入れると社長から病院に行くよう勧められ、タクシーで急ぎ向かった。
フラフラになりながら工場が提携するクリニックに行くと、終始涙が止まらない。医者に「あなた、内科じゃないわ」と言われ、心療内科に連れていかれた。パニック症と躁うつ病だった。睡眠薬やめまい止めなどを処方され、あまりの薬の多さに「今の私、悪いんだ」と、そこで初めて自覚した。
その後も薬を飲みながら仕事に復帰するが、副作用で身体がだるく、昼間は眠気に襲われた。どうしても業務に集中できず、数週間後、診断書と退職届を握り締めて社長室に向かった。2017年の1月、6年間勤務した縫製工場を退社した。
■縫製工場を辞め、フリーランスになる
縫製工場の寮を出た田村は大阪市でアパートを借り、パタンナー(服のデザイン画の型紙を起こす人)が所属する会社に勤め始めた。しかし、さらに症状が悪化し、その会社は3カ月で辞めることになる。
なだれ込むように実家に戻ると、一時的でも苦しい環境から離れたことで少しずつ回復していく。2カ月後には薬を飲まなくても、普通に生活できるようになった。
「そろそろ大阪のアパートをどうするか決めないと……」と考えていたとき、1本の電話がかかる。勤務していた縫製工場の社長だった。近況を伝えていたこともあり、「こっちに戻ってくるんやったら、サンプル縫うのやらへんか?」と誘われる。
「サンプル」とは、洋服の試作品のこと。縫製工場にはサンプル室という、メーカーから依頼された試作品を縫う場所がある。この仕事はアルバイトやパートが多く、報酬は出来高制(製造した物の量等の成果に応じて賃金の額を決定する制度)だ。最初から最後まで1人につき1着を任されるため、好きな時間に工場でも自宅でも仕事ができる利点があった。
「この方法なら縫製の仕事を続けられるかも」
大阪に戻り、2017年11月に開業届を提出。フリーランスで縫製工場のサンプルの仕事を引き受けるようになった。
■祖母の苦悩と、生きづらさを抱えた経験が重なり合う
その後、心のゆとりを取り戻し、愛媛にいる母のマンションに頻繁に顔を出すようになった。徳島県に住んでいた盲ろうの祖母は、母と暮らし始めていた。そんな中、2018年の春、祖母の本音を耳にする。
「おばあちゃんは目も見えないし、耳も聞こえない。役立たずの人間だから、スクラップに出してくれ」
祖母が自暴自棄になってしまう理由には、生い立ちや障害からくる心労が背景あった。
田村は、当時の祖母をこう振り返る。
「おばあちゃんは、料理や身の回りのことをほとんど自分でやっていました。人に迷惑をかけることが嫌いで、誰かに頼ることがとても下手な人です。でも、ここ数年でできないことが増えて、光の調光さえ感じられなくなって…。積み重なったものがバーッと爆発してしまったんだと思います」
■私にできることをやってみよう
後日、母とふたりで居酒屋に行ったとき、祖母に言われたことを話した。すると、このように返ってきた。
「おばあちゃんはね。目が見えんくて、耳が聞こえないけど、それでいいの。だって、あの人はいるだけでいっぱいいろんなこと教えてくれるから、宝物なんよ」
母の言葉に、ふっと心が軽くなった。それと同時に、祖母の苦悩を自分の生きづらさと重ねていたことに気が付く。「自分は人より劣っているのでは」とコンプレックスを抱えた10代。人間関係に悩んだ社会人時代。躁うつ病だとわかったあのとき……。「こんなにも生きることが苦しいなら、産まないでほしかった」と母に嘆いたこともあった。
「おばあちゃんの苦悩は、私にもあるものなんだってわかったんです。誰かの生きづらさは他の人からしたら大きな気づきになるし、すごく価値があるものなんじゃないかなって思いました。自分の生涯を嘆いたり、怒ったりするんじゃなくて、私にできることをやってみようって。それで、祖母に『生きてて良かった』と思ってもらえることをしたいって思いました」
■肌に触れるものに敏感な祖母のために
独立して1年が経過した2018年の秋。インクルーシブデザインを中心としたアパレルブランド「sakae(さかえ)」を立ち上げた。
インクルーシブデザインとは、従来では除外されてきた多様な人々と一緒になって考えたり、デザインしたりする手法のことを指す。日本でも「東京2020パラリンピック」に向けて、車いす用の席が500席設けられたり、さまざまな障害に応じた用途別トイレが設置されたりするなど、公共設備のバリアフリー化に向けてこの方法が用いられた。
「デザイン設計の段階から障害者に参加してもらうことで、健常者では気づけない発見が見つかるんです。おばあちゃんのような人たちと一緒に不便さについて考えていけば、これまでにないモノづくりができるんじゃないかと思いました」
さっそく「おばあちゃんが喜ぶ服は何だろう?」と考え始めたある日、祖母は手で触った感覚をとても大切にしていることに気が付く。
「目が見えないからこそ、肌に触れるものに敏感なんだな。私も肌が弱いから、自分にもおばあちゃんにも優しいものを作れたらいいな」
まずは下着の開発に取り掛かった。2019年に第1号となる、タンクトップとショーツが完成。だが、肝心の販路や人に周知してもらう方法がさっぱりわからなかった。そこで、友人の紹介で経営塾やSNS運用についてコンサルを受けるようになる。
■鉢植えのアロエを食べるか悩んだ…口座残高50円の極貧生活
これらの費用は全部で200万円を要した。さらに、縫製技術を磨くセミナーに通っていたことも重なり、コツコツ貯めていたお金がどんどん減った。通帳を開くと残高が50円になっていた。当時のことを、田村は苦笑いをしながら振り返る。
「あまりにも極貧で、縫製工場のパートのおっちゃんにご飯をご馳走になったり、『困ったら、これ食べな』とアロエの植木鉢をもらったこともありました(笑)。でも、あのアロエには絶対手を付けないようにしようって思いながらがんばってましたね」
初期投資とはいえ、生活費を捻出できないほどお金を使うのはやや行き過ぎているように思うが、そこには彼女なりの信念があった。
「自分が何をしたいかを理解できなければ、たとえブランドを作っても人に伝わらないって思ったんです。当時の私は祖母のために何かしようと思っても、まだ気持ちがフワフワしていました。だからまずは自分のブレない目標を見つけて、そこに向かって走っていけるような環境に身を置きたかったんです」
無鉄砲にも見える投資だったが、自分の意志が明確になり、行動に移す原動力になった。
まずは、ブランドのコンセプトや下着を紹介するために、SNSに毎日文章を投稿するようにした。すると、セミナーを通じて知り合った人から賛同のコメントが寄せられるようになった。「応援してくれている人と、何でも話せる関係がつくりたい」と思い、Facebookでコミュニティーグループを結成した。
だが、まだまだ多くの人に周知されるまでに至らず、右往左往する日々が続いた。
■靴下づくりをはじめたきっかけ
2019年の夏、「靴下づくり」のきっかけが訪れる。プロダクトデザイナーの鈴木康祐との出会いだ。
「鈴木さんは、家具や生活雑貨のデザインを手掛けている方です。頼りになる先輩ができたようでうれしかったですね。ある日、雑談のなかで鈴木さんが『実は僕、いつか靴下のデザインをしてみたいんだよね』と話しているのを聞いて、『そういえば……』ってピンと来たんです」
以前、視覚障害者の友人から「裏表や色の違いがわからないから、靴下を履くのに時間がかかる」と相談を受けたことがあった。また、祖母も靴下を履くことに難儀していた。
「目が見えなくても、簡単に履けておしゃれな靴下があったらいいですよね」と話すと、「いいね、やろう!」と鈴木。田村は靴下づくりに舵を切ることにした。
2020年10月、ブランド名を「sakae」から「ouca(おうか)」に変更。「人生を謳歌(おうか)する」という意味を込めた。まずはたくさんの人から悩みを聞くところから始めようと、SNSでアンケートを実施。視覚障害者3人と、化学物質過敏症を持つ1人を招き、オンラインでヒアリングをした。アトピー性皮膚炎の田村自身も、積極的に意見を出した。
■障害者の声を形にする
視覚障害のある参加者から、「『靴下の組み合わせが違うよ』と指摘されて、ものすごく恥ずかしい思いをしたことがある」という話があった。その言葉を聞いて「私もお寺に行ったとき、靴下を裏表に履いていて恥をかいたことがあったな」と思い出した。そこで、作るべき靴下のイメージがぱっと浮かんだ。
「色違いOKが前提の、どの向きからも履ける靴下があれば解決できるかも!」
靴下は縫うのではなく、編むことが前提だ。婦人子供服製造技能士1級の国家資格を持っていたとしても「自分では作れない」と思ったことから、知り合いの糸屋から紹介を受け、「靴下の町」で有名な奈良県広陵町の靴下工場に足を運んだ。
工場長に企画書を見せると、「まずは一度サンプルを作ってみましょうか」と言ってもらえた。だが、靴下づくりの道のりは思った以上に難航する。作りたいものが、靴下業界ではイレギュラーなことばかりだったからだ。
「表裏の柄を表現するには、
■発案から完成まで2年かかった
靴下の市場で100足以上のリサーチをし、6回の試作を重ねたが、納得いくものができずにしばらく悩んだ。ある日、ふと、「色の反転を利用するのはどうだろう?」と思い付く。
鈴木にデザインを描いてもらい、それを工場長に見せに行った。すると「田村さんが表現したいこととマッチしていて良いですね」と言って、サンプル作りに取り掛かった。
そこで完成したのが、「minamo」だ。発案から約2年の年月がかかったからこそ、達成感はひとしおだった。名前の由来は「太陽の光が反射して、水面がキラキラと輝くようなイメージでデザインしたから」という。
糸はコットン・ウールなどの天然素材を使用し、縫い目やゴムによる締め付けがないように工夫した。履き心地に徹底的にこだわったのは祖母の存在があったからだ。
「おばあちゃんは目が見えないからこそ手先が敏感で、感覚も鋭いから、触って気持ちのいいものに包まれてほしかったんです。minamoで『あなたは生まれてきてよかったんだよ』って伝えたかったし、祖母に『残りの人生、優季のおかげで楽しかった』って思ってもらいたい……。その気持ちが原動力でしたね」
■「つま先が楽だね。こりゃすごいすごい!」
まずは最小ロット数の200足を仕入れ、今年5月にクラウドファンディングを行う。すると、わずか1日半で目標金額24万円に到達し、最終的に約51万円が集まった。これにより、工場の加工賃を確保できた。
靴下を利用した人の声が続々と届いた。
「靴下のことで人に頼る罪悪感がなくなった(視覚障害者の方より)」
「足の大きさが関係ないから家族で使えるし、片方を探す手間がない」
「この靴下がきっかけで、障害者がどんなところに不便を感じているのかを知りました」
その言葉を一つひとつ読みながら、田村は「誰かの生きづらさが、みんなの価値になったんだ。やってよかった……」と喜びを噛みしめた。
クラウドファンディングを終えた2022年のお盆、田村は開発した靴下を鞄に詰め、愛媛県にある母の家に帰った。ダイニングテーブルで糸始末を施し、「これ、私が作ったんだよ」と祖母に靴下を手渡した。
手のひらで感触を確かめる祖母。靴下の裏表を探るも違いが見つけられず、不思議そうな顔をしている。そこで「おばあちゃん、これね、もう裏表を確認せんでいいよ」と説明すると、「なるほど、そういうことか」と言いながら履き始めた。
「つま先が楽だね。こりゃすごいすごい!」
■祖母が前向きになってくれた
喜ぶ祖母を見て心が躍った。「改めて、感想を聞かせて」とせがむと、祖母は「私なんかが意見なんて……」と言いつつ、「私にはちょっと長いけど、ひっくり返してもかわいいから、折って履けるね」と新しい履き方を教えてくれた。
「『大切すぎてもったいないから』って、最初はあんまり履いてくれなかったんですけどね。最近は、通っているデイサービスに持って行ってくれているみたい。本当はまめに履いてほしいけど、人前でちゃんとしたいときに履こうとしてくれているのがうれしいです」
祖母は以前まで嫌がっていた補聴器を、率先して着けるようになった。おかげで、家族は声を張り上げなくてもコミュニケーションが取れるようになった。もしかすると、「孫の活躍を自分の耳で聞きたい」という思いがあったのかもしれない。
田村自身にも変化があったようだ。障害者の友人のことを祖母によく話すようになった。「いろんな考え方の人がいるんだよ」と伝えることで、祖母に前向きになってもらいたかったからだ。
「優季の活動を見届けたいから、もっと生きないかん」
祖母のこの言葉は、田村の宝物になっている。
■靴下づくりから生まれた交流
開発した靴下はインターネットで一般に販売している。定期的に購入するリピーターが増えているという。
彼女の活動は、靴下だけにとどまらない。たとえば友人のネイリストと始めた点字を施したネイルチップのオーダー製作。最近では、視覚障害者と踊る社交ダンス愛好家から「一緒に踊るパートナーに気持ちを伝えたい」と注文が入った。指先をなぞりながら気持ちを知った相手は、とても喜んだという。
また、不定期で障害のある・なしにかかわらず参加できる交流の場も設けており、そのイベント内容はなかなか尖っている。脳性麻痺の方から相談を受けたことから、デリケートゾーンについての勉強会を開いた。トランスジェンダーの友人と共同で開催した「大人のおもちゃやさんツアー」も企画した。
「なかなか人には聞けないことを、みんなで語ったり、体験したりすることに意味があるんです」と語る。
「町で障害者とすれ違ったとき、自分とは違う世界の人だと思いがちです。でも、本当は普段の悩みも日ごろの不便さも、実は近かったりする……。一緒にいることで、『私もそうだな』って気づくことが大切で、その人の生活の中で障害者の普段が見えたらいいなって思うんです」
■誰かが抱える生きづらさを、みんなの価値に変えたい
苦しい環境であってもじっと耐え、努力を続けてきた。ときに憤り、不安にさいなまれることもあった。それでも前進を続けてきたのは、祖母をはじめ、あらゆる人たちの悩みが自身の生きづらさと重なり、それを昇華させたいと強く願ったからだ。
「『もしかしたらこんなふうに困ってるんじゃ?』と想像したり、『こうしたらできるかも?』って工夫したりする力があれば、世界はもっと優しくなると思います。これからも障害のある方々の声に耳を傾け、人生を謳歌してもらえるような、生きててよかったと言ってもらえるプロダクトやイベントを生み出したいです」
誰かが抱える生きづらさを、みんなの価値に変えたい――。このテーマを胸に、彼女は今日もミシンと向き合っている。
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インタビューライター
インタビューライターとして年間100人のペースでインタビュー取材を行う。社交ダンスの講師としても活動。誰かを勇気づける文章を目指して、活動の枠を広げている。2021年10月より横浜から奈良に移住。4人姉妹の長女。
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(インタビューライター 池田 アユリ)
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