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「同じような毎日が続く…このままでいいのか」そんな人に哲学者ハイデッガーが伝えたかった"ただ1つのこと"

プレジデントオンライン / 2023年2月8日 9時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/recep-bg

人間とはどのような存在か。ドイツの哲学者ハイデッガーはただそこに存在するだけでなく、道具を使って生きて日常の行為をしているものと説いた。また、「良心の呼び声」に従い死を意識したときに本来性を取り戻すという。作家の白取春彦さんが書いた『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)より、ハイデッガーの哲学を紹介しよう――。

※本稿は、白取春彦『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

■「人間とはいったい何なのか」ドイツの哲学界に衝撃を与えた1冊

ハイデッガー『存在と時間』(原題:Sein und Zeit 1927)
「良心は、呼びかけられているものに何ごとを呼び伝えるのであろうか。厳密にいえば――何ごとをも呼び伝えはしない」
「良心は、ひたすら不断に沈黙という様態において語る」
(『存在と時間』Ⅰ~Ⅲ 原佑・渡邊二郎訳 中央公論社)

これは、ハイデッガーの代表作『存在と時間』(原題:Sein und Zeit 1927)の一節です。

ハイデッガーの問題意識は、古代ギリシア語でいうところの「存在」(ousia(ウーシア))とは何か、というものです。存在とは何かを知るために、まず人間という存在とはどういうものかと分析しているのが、ハイデッガーが38歳のときに刊行した『存在と時間』です。

人間とはいったいどういう存在かというこの問いについては、古代ギリシアの時代から人間を外から見て気づいたことを人間の特徴とすることが続いてきました。

それとは逆にハイデッガーは人間を内側から見て、人間というものがどのような存在であるかを引き出そうとしました。そうすれば存在が何であるか、わかってくるだろうと考えたのです。

そこでまず人間を、ハイデッガーは「現存在」(Dasein(ダーザイン))と呼びました。これは、「そこに存在しているもの」という意味です。

(ただし、これはラテン語で「事実存在」を意味するエクシステンティアをドイツ語に翻訳したもので、カントやヘーゲルも使っていました。しかし、頻繁に使ったのはハイデッガーです。ドイツ語としても一般的とはいえないこういった造語はこの本の中でも多用されています。

ハイデッガーによる造語の特徴は、日常のドイツ語の意味を勝手に拡大して使っていることです。そのため、読者にとっては難解になるだけではなく、意味が深いようにも感じられてしまいます。

その独特の異様さがわかるように、また、ドイツ語を辞書で引ける人のために、この概説では造語のほんの一部のドイツ語表現も記しておくことにします)

■人間は「道具連関」の中でしか生きられない

さて、「現存在」(人間)はただ存在しているだけではなく、生きて日常の行為をしています。この行為のとき、いつも道具を使っている。だから、身の回りの事物は「道具的存在」(Zuhandensein(ツーハンデンザイン))だとハイデッガーは名づけます。

「現存在」が何事かをするとき、その目的に達するための手段として道具を使っているので、「現存在」と道具の間には「道具連関」があるといえます。そして「現存在」はつねに「道具連関」の中で生きている、また、その「道具連関」の中でしか生きられない。

したがって、「道具連関」こそ「現存在」が生きている場所です。その場所こそがすなわち世界であり、したがって「現存在」が住んでいる場所は「(道具連関の)世界内存在」(In-der-Welt-Sein(イン デア ヴェルト ザイン))だ、ということになります。

その世界に「現存在」がみずからの意思で入りこんでいるのではなく、「現存在」はすでに投げこまれてしまっている状態です。これを「現存在」の「被投性」(Geworfenheit(ゲボオルフエンハイト))といいます。

最期をみとる手元
写真=iStock.com/kazuma seki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kazuma seki

■自分のあり方が時間をつくっている

「現存在」である人間は道具連関の世界の中に投げこまれて生きていますが、何か事物を道具として用いるのは、その人のそのときの欲望、必要性、関心に応じているということであり、そのことをハイデッガーは「気遣い」(Sorge(ゾルゲ))と名づけました。

何か物を見てこれは何々に使えると思うことも「気遣い」です。そのとき、道具として見える物は「現存在」のなんらかの可能性を実現化するものの1つとして見えているわけです。

要するに、人間は自分が生きていくために役立つ可能性のあるものを世界にある物からチョイスして自分のために利用しているということです。

「気遣い」の意味にはその他に、関わりあうこと、探ること、論じること、問うことまでも含まれています(これはもちろんふつうのドイツ語としてのSorgeの使い方ではなく、ハイデッガーがそういう広い意味を含んだ造語にして用いているのです)。

しかも、その「気遣い」を左右しているのは「現存在」の「情状性」(Befindlichkeit(べフイントリッヒカイト))だというのです。これは、「現存在」が何事をするにもそのときの気分に動かされているということです。

しかも、その「情状性」は「気遣い」と結びついて、今ここの世界の意味(その人にとっての意味)を構成しているのです。

時間の感覚もまた、「情状性」に動かされています。退屈だったら時間が長く感じられるというふうに。そしてまた、いつものような日々がえんえんと続くかのように錯覚しているのです。

自分のあり方が時間をつくっていることに気づいていないのです。

また、知性すら、この「情状性」を基盤にしているとハイデッガーはいうのです。

■死を意識したときに「本来性」を取り戻す

さて、「現存在」は、ずっと「気遣い」に囚われたまま生きていかなければなりません。そして、そういう状態であることに「現存在」の不安があります。

そして、この不安は自分が「ヒト」(das Man(ダス マン))でしかなくなっていること、他の人と代替可能な、そのへんにいくらでもいるたんなる「ヒト」(これは「世人」と翻訳されていることもあります)であることに気づくことから生まれてくるものなのです。

なぜ不安を覚えるかというと、「ヒト」であることが人間として自分の本来の姿でないこと、つまり非本来的であることに漠然と気づくからなのです。

今までのようにだらだらと非本来的な生を送ることを「頽落(たいらく)」(Verfallenheit(フエアファレンハイト))とハイデッガーは呼びます。多くの人は、ふだんは頽落の日々を送っているのです。

そして「現存在」という本来性に気づかせてくれるのは死なのです。死だけは、他の事柄のように誰か他人が代わりになることができない、徹底してそれは自分だけの死であり、本来的なものだということになります。

したがって、「現存在」は生まれたときから「死へと向かう存在」(Sein zum Tode(ザイン ツム トーデ))なのです。

そして、自分の死を意識したときに「良心の呼び声」(Stimme des Gewissens(シュティンメ デス ゲヴィッセンス))が自分をその本来性へと目覚めさせ、本来性へと自分を投げ入れるきっかけを与えてくれるのです。

本来性へと自分を投げ入れることを「企投」(Entwurf(エントヴルフ))と術語化しています。ハイデッガーはまた、本来的なあり方をしていることを「実存」と呼んでいます(ですから、サルトルのいわゆる実存主義が使う実存とは意味内容がかなり異なります)。

「現存在」は実は最初から死とかかわりあっているのですが、ふだんの生活で「ヒト」として頽落している間は、良心からの呼び声が聞こえてこない。死を意識したときになって初めて自分自身というものに目覚めるのです。

なぜならば、良心は「現存在」に本来の実存を「了解」するようにほのめかすからです。良心は「現存在」に事実を開いてみせるものであり、良心のその呼び声は「本来性を奪い返せ」という「指令」なのです。

ですから、ハイデッガーが使う意味での良心は、一般的にいうところの良心ではないということです。

■世界的影響とナチス党員問題

『存在と時間』は未完です。当初の予定では存在一般についても書かれるはずだったのですが、「現存在」について書かれた部分、予定の3分の1程度で終わってしまっています。

にもかかわらず、刊行されるとすぐに国際的に評判が高まりました。

近隣のヨーロッパ人同士が殺しあう第一次世界大戦が終わって既存の価値観が破壊されたのを実感した世界の人々には人間とは何なのだろうかという深い疑問があり、そこに『存在と時間』に書かれた死を意識したときの「良心の呼び声」という謎めいた表現が深遠に響き、何かを教えてくれるかもしれないと期待したからかもしれません。

一方、ハイデッガーは哲学者シェーラーから多くの考えを無断で引いていると批判する学者もおり、哲学者ルドルフ・カルナップ(1891~1970)にいたっては、ヘーゲルやハイデッガーは言葉を適切に使用できていないから述べていることは無意味でしかないと批判しています。

確かに人間の死について書くにしても、造語を多用するばかりか、次のように意味の濁った迷走した文章を記しています。

「死へとかかわる存在において現存在は、1つの際立った存在しうることとしてのおのれ自身へと態度をとっている」(原・渡邊訳)

なお、『存在と時間』はフランスで実存主義を提唱することになったサルトルに特に大きな影響を与え、サルトルは『存在と無』というタイトルの著書を出しています。

ハイデッガーには妻子があったのですが、マールブルク大学で助教授をしていた頃に学生のハンナ・アーレントを愛人とし、二人の交流は彼女の死まで続きました。

白取春彦『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)
白取春彦『超要約 哲学書100冊から世界が見える!』(三笠書房)

また、ハイデッガーはフライブルク大学総長になったときにナチスに入党しました。第一次世界大戦での膨大な賠償金を命じられていたドイツを根底から社会変革しようというナチスの考え方に賛同したのです。

ナチス党員であったことを彼はのちに責められていますが、ハイデッガーの実人生にも思想にも全体的に差別的な傾向があったのはいなめないでしょう。

いつまでもフランス人をドイツ人よりも下に見ていましたし、著書の『時間と存在』の中でも、気分のままに生き(ているように見え)る一般人を「非本来的」な生を送っているヒトと一方的にみなしているからです。

マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)
1889~1976 帝政ドイツのバーデン大公国の南部にある小村メスキルヒの教会の家屋管理人で樽桶職人の家に生まれる。フライブルク大学神学部に入学。哲学博士号取得。1919年、フッサールの助手を務めながら教壇に立つ。マールブルク大学で助教授。1928年、フライブルク大学教授。1933年の春から約1年たらずフライブルク大学総長、ナチス入党。86歳没。

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白取 春彦(しらとり・はるひこ)
作家
青森市生まれ。ベルリン自由大学で哲学・宗教・文学を学ぶ。哲学と宗教に関する解説、論評の明快さに定評がある。 主な著書に、ミリオンセラーとなった『超訳 ニーチェの言葉』のほか、『頭がよくなる思考術』(ともにディスカヴァー・トゥエンティワン)、『この一冊で「聖書」がわかる!』(三笠書房《知的生きかた文庫》)、『行動瞑想 「窮屈な毎日」から自由になるヒント』(三笠書房)など多数。

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(作家 白取 春彦)

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