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「大量の鉄砲が武田の騎馬隊を蹴散らした」はウソである…最新の研究でわかった長篠の戦いの本当の姿

プレジデントオンライン / 2023年2月12日 17時15分

長篠合戦図屏風(画像=長浜市立長浜城歴史博物館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

織田信長と徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で起きた長篠の戦い(1575年)とは、どんな戦いだったのか。歴史研究家の河合敦さんは「『大量の鉄砲が騎馬隊を退けた』と教科書などにも書かれているが、最新の研究ではいくつもの異論が出ている。武田方が破れたのは、兵種の違いではなく、兵力の差だったのではないか」という――。(第1回)

※本稿は、河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■「武田の騎馬隊vs織田・家康の鉄砲隊」は史実なのか

5月21日の早朝(朝6時頃)、武田方の最左翼にいた山県昌景の隊が徳川方の大久保忠世の隊に攻めかけたことで、設楽ヶ原を舞台とした有名な長篠合戦がはじまったとされる。

この戦いでは、信長は武田騎馬隊の猛攻撃を馬防柵で巧みに防ぎ、足軽鉄砲隊を三段構えにし、3000挺の連射によって武田軍を大敗させたといわれてきた。

現在の教科書にも「三河の長篠合戦では、鉄砲を大量に用いた戦法で、騎馬隊を中心とする強敵武田勝頼軍に大勝」(『詳説日本史B』山川出版社2020年)とある。

だが近年、この定説には、いくつもの異論が出されるようになっている。そもそも、武田方に騎馬隊があったかどうかということについて疑問が出されている。

当時の日記や書簡など一次史料や、信用できる編纂資料(二次史料)では、そうした事実が確認できないのだ。

信玄の業績をたたえた江戸時代の『甲陽軍鑑』(近年、史料的価値が見直されている)などをみても、武田軍には騎馬武者は少なく、その多くが馬は家来に曳かせ、自ら槍を振るって奮戦したとある。じっさい、長槍隊が武田軍の主力をなしていたようだ。

ともあれ、武田軍といえば、騎兵が圧倒的多数というイメージがあるが、騎馬隊なるものは、江戸時代の軍記物が勝手に創作した幻らしい。ただ、相当な騎兵がいたと主張する研究者がいることも付記しておこう。

■「鉄砲隊の三段撃ち」はウソ

織田軍の装備についても、かなり誇張がありそうだ。

日本の侍を完全な鎧で飾ったアンティークイラスト
※写真はイメージです(写真=iStock.com/NSA Digital Archive)

まずは鉄砲の数である。3000挺というのは比較的信憑性の高い太田牛一著『信長公記』の記述だが、写本のなかには1000挺とするものがあり、こちらのほうが正しいと見る学者も多い。

つまり、従来の3分の1の数しか、鉄砲を保有していなかったわけだ。

また近年、武田方も相当多くの鉄砲を所持していたという説もある。ただ、鉛が不足していたらしく、武田軍が銅を溶かして弾丸にしていたことがわかっている。

対して織田軍のほうは、弾にタイの鉱山から輸入した鉛を使っていたことがわかっており、弾や火薬が豊富だったのは確かだろう。さらに、多くの研究者が指摘するのは、三段撃ちのウソである。

信長は合戦当日、足軽鉄砲隊を3列横隊に並べ、前列が引き金を引いたらすぐに最後列に下がり、代わって2列目が引き金を引くといったように、間断なく弾を発射し続ける集団戦法を考案し、突撃してきた武田騎馬隊を壊滅に追い込んだとされてきた。

ただ、これは信憑性に問題がある小瀬甫庵の『信長記』に端を発する記述である。

実際、設楽ヶ原の地形は、凹凸が激しく入り組んでいて、とてものこと、武田騎馬隊が土煙をたてて横一列に一斉に突撃してくることは考えられない。

そのうえ、大混乱を来(きた)している戦場にあって、足軽鉄砲隊が一糸乱れず整然と三段撃ちを為すには奇跡的な技量を必要とする。

なおかつ、鉄砲隊は横列ゆえ、もし敵に横から回り込まれてしまったら、簡単に陣形は崩されてしまう。

ともかく、現実的には到底不可能な戦法、それが巷説の三段撃ちなのである。

このため近年は、弾を込め終えた足軽から次々と引き金を引いただけではないかといわれている。

■武田軍のほんとうの死者数は

さらにいえば、戦国時代の馬は、現在のサラブレッドとは比較にならないくらい体格は小さかった。ポニー程度の大きさしかない。

しかもスピードは時速20、30キロ程度だったらしい。とはいえ、力は非常に強く、人間を蹴散らすことは十分可能だった。

ゆえに、武田軍が織田・徳川軍のつくった馬防柵を強硬に破ろうとしたのは事実らしい。

結局、敵勢を突破できずに武田軍は大敗を喫した。

『信長公記』によれば、武田軍は1万人が死傷したという。さすがにオーバーな数字といえよう。なお、信長は細川藤孝に宛てて「数万人を討ち果たした」と輪をかけて誇張した数字を記し、さらに「勝頼の首はまだ発見できないが、きっと斬り捨てられ、他の武田兵同様、川に漂っているだろう」と、勝頼まで倒したように誇張している。

当時の『多聞院日記』(奈良興福寺の英俊が著者)には1000人ほどが死んだとあり、このあたりが実数に近いかもしれない。とはいえ、武田方の大敗北は事実だった。

■なぜ勝頼は無謀な強行策に出たのか

なぜ劣勢に陥った段階で、勝頼は強行突破を断念して引き下がらなかったのだろう。

じつは、これには理由があった。戦いの前夜、信長は酒井忠次(家康の重臣)に別働隊を組織させ、長篠城を攻撃するために構築した武田方の鳶ノ巣山砦を攻め落とす手筈を整えていた。

【図表1】長篠合戦地図
出所=『徳川家康と9つの危機』

この作戦を申し出たのは、『三河物語』によれば、酒井忠次本人だったという。忠次は信長に対し、「長篠城の鳶ノ巣山の砦を遠回りして攻め落としてみせます」と述べたので、喜んだ信長は「お前の武名は耳にしていたが、まるで眼が十あるような者だ」と褒(ほ)めて、その作戦を実行させたという。

一方、『信長公記』は、この作戦をあくまでも信長の考えた作戦だとする。同書によれば、信長は酒井忠次を招き、忠次隊2000に信長の馬廻(うままわり)鉄砲500を与え、さらに織田兵2000を援軍につけ、あわせて4000で鳶ノ巣山の砦を攻撃させたという。

そこで忠次隊は大きく武田軍の背後に回り込み、早朝(6時頃)、にわかにときの声を上げて鳶ノ巣山砦を急襲し、大量の鉄砲を一斉に放った。すると長篠城の城兵も城門を開いて出撃し、協力して猛攻撃をおこない、すさまじい武田方の抵抗を受けながらも、ついにこの砦を陥落させたという。

砦が織田・徳川軍の手に渡ったことで、合戦の最中に武田軍は前後を挟撃される状況になった。このため退却できなくなった武田軍は、何度も突撃を繰り返し、前面の敵陣を突き破るしかすべがなかったといわれる。

■織田・徳川軍の本当の勝因

早朝(6時頃)に始まった戦いは、正午あたりから武田方の劣勢が明確になり、午後になると一気に瓦解(がかい)し、パニック状態になった。武田軍の後備えだった穴山信君や武田信廉ら親類衆は、勝頼を捨てて先に逃げ去っている。

この戦いでは、山県昌景、馬場信春、内藤昌秀、原昌胤、真田信綱、真田昌輝など武田の重臣の多くが死傷するという大損害を出してしまった。

山県昌景は、すでにこの戦いで死のうと決意していたとされ、徳川の本陣を目指してすさまじい突撃を繰り返していたが、本多忠勝の隊に捕捉され、数発の銃弾に貫かれた。

昌景は軍配を口にくわえ、しばらくこらえていたが、やがて馬から落ちて息絶えたといわれる。勝頼に設楽ヶ原での合戦を諫止した馬場信春は、戦場から逃亡する勝頼の横に付き添い、彼を援護して戦線からの離脱に成功させたといわれる。そして勝頼が落ち延びたのを見届けると、敵陣へ突撃し、壮絶な討ち死にを遂げたという。

武田勝頼
武田勝頼(画像=高野山持明院蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

こうして長篠合戦は、終わりを告げた。武田軍が大敗した理由は、勝頼の慢心か、信長の足軽鉄砲隊の攻撃か、それとも背後からも敵が来たからか――。私はそうではないと思う。

武田軍1万5000に対し、織田・徳川連合軍は3万8000人。後者の兵力はゆうに2倍はある。そういった意味では、数の差が最大の勝因だったのではないかと思うのだ。

いずれせよ、信長の援軍を得て長篠合戦に勝利できた家康。これにより武田勝頼の勢いは衰え、ようやく家康は窮地を脱したのである。

■「長篠の戦いは特筆すべき戦いではなかった」

ただ、どれほど長篠の戦いが武田勝頼に痛手を与えたか、戦国の地図を塗り替えたかについては、これまた学者によって見解が大きく異なる。

たとえば笠谷和比古氏は「長篠の戦いは劇的であった」「武田方はこの戦いにおける惨敗でもって昔日の面影を喪うに至るのであるが、しかしながら信玄の遺産のゆえであろうか、武田家がただちに滅びるということもなく、守勢の状態とはいえなお甲信方面において重きを保っていた」(『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』ミネルヴァ書房)。

本多隆成氏も「長篠合戦では織田・徳川連合軍が武田軍に圧勝したため、それ以後、両者の明暗を大きく分けることになった」(『徳川家康と武田氏 信玄・勝頼との十四年戦争』吉川弘文館)とする。

河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)
河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)

金子拓氏は、このあと勝頼は北条氏との縁組みによって同盟を強化したり、軍役の再編成などにより「勝頼の基盤強化につながったともされ、敗北が7年後の天正10年(1582)における武田氏の滅亡に直結したとは、かならずしも言えない」としつつも、「客観的にみれば、長篠の戦いを期に、それまでの武田氏が支配していた領域が織田・徳川氏に奪われたことは間違いない」(『シリーズ実像に迫る021 長篠の戦い 信長が打ち砕いた勝頼の“覇権”』戎光祥出版)と論じる。

対して藤井讓治氏は、「武田の騎馬隊を迎え討ったと通説では語られてきたが、近年の研究成果ではそれほど特筆する戦いではなかったとの評価がなされている」「この戦いで勢力図が大きく変化したわけではない」(『人物叢書 徳川家康』吉川弘文館)と述べている。

■家康を苦しめ続ける武田勝頼

このように長篠の戦いにおける歴史的評価については、学者によっても見解はバラバラなのだ。

ただ、武田軍を再編した勝頼は、翌年になると再び活動を活発化させ、北条氏、さらには上杉謙信と提携して再び家康を悩ます存在になっている。

これだけの敗戦なのだから、痛手を受けなかったわけがないが、それでも立ち上がってくる勝頼。おそらく若き好敵手に家康も戦慄(せんりつ)を覚えたのではあるまいか。

しかも、我が子・信康が、そんな勝頼と手を結ぼうとしたとの嫌疑が持ち上がるのである。こうしてまたも家康は危機を迎えることになる。

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河合 敦(かわい・あつし)
歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数

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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)

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