なぜ籠城せず、わざわざ城から出て負けたのか…徳川家康の唯一の敗戦「三方ヶ原の戦い」の謎を解く
プレジデントオンライン / 2023年2月25日 18時15分
※本稿は、河合敦『徳川家康と9つの危機』(PHP新書)の一部を再編集したものです。
■「慢心の戒めで絵を描かせた」はウソ
徳川美術館に「徳川家康三方ヶ原戦役画像」という肖像画がある。別名「顰(しかみ)像」と呼ばれる。
家康といえばでっぷりとした老人をイメージするが、この像は、それとは全く異質といってよい。剝き出した歯で下唇を強く噛みしめ、見開かれた大きな目は血走り、眼孔は落ち込んで眉がゆがんでいる。あきらかに憔悴(しょうすい)しきった人間の顔である。
じつはこれ、三方原と称する台地で武田信玄の大軍にいどみ、大敗を喫して浜松城に逃げ戻ってきたときの家康の容貌を描いたものだといわれる。
このおり家康は恐怖のあまり、馬の鞍上で脱糞してしまうほどだったそうだ。
だが、家康のすごいところは、ここからだ。どうにか帰城した家康は、ただちに絵師を呼び寄せ、戦に敗れたみじめな自分の姿を描くよう命じたのである。こうして完成した顰像をいつも手元に置いて、家康は慢心の戒めとしていたという。
「さすがは後の天下人」と称賛したくなる行動だ。しかしなんとこの逸話、近年は後世の作り話だったことが研究者の原史彦氏によって明らかにされてしまった。
原氏によれば、顰像が三方原合戦の敗戦での姿を描いたという話は、古くても昭和11年(1936)より前に遡ることができないと述べ、この逸話を全面的に否定している。
それだけではない。さらに、18世紀には家康を描いたものと認知されていたこの顰像だが、別人であった可能性も視野に入れておく必要があると論じているのだ。とはいえ、三方原の戦いが家康にとって人生最大の危機であったことは変わりはない。
■三方原合戦の謎
三方原合戦は、元亀3年(1572)12月22日に起こった。大軍(人数は諸説あり。2万~3万)を率いて徳川領内に侵入してきた武田信玄が、家康の本拠地・浜松城に迫ってきたので、家康が城から出撃して衝突した野戦である。
ただ、徳川方は織田信長の援軍を入れても1万1000。相手は2倍から3倍。兵数に大きな差があった。そんな大軍に挑んだ家康の判断は、とても尋常とは思えない。ある意味、はじめから勝算のない無謀な行動だったといえる。
いくら自領を蹂躙(じゅうりん)されたといっても、浜松城という堅城に籠っていれば、その身はしばらくは安全だったはず。やがては信長軍の応援や、上杉謙信の後方攪乱も期待できたはず。
にもかかわらず、なにゆえ家康は、早々に城を出て戦うという決断を下したのか。本稿では、そのあたりの謎に迫っていく。
■武田信玄が仕掛けた罠
12月22日、武田軍は、浜松城北方12キロの三方原まで南下してきた。が、突如ここで進路を変更、西へ進み始めたのである。一方、武田軍の接近を知った家康は、重臣の反対を押し切って、城から出てしまう。
浜松城を出た徳川軍は、にわかに進路変更した武田軍に対し、距離をとりつつ追尾していった。だが、三方原台地がとぎれ地形がくだりに変わる直前、武田軍はピタリと動きをとめ、陣形を素早く魚鱗に変化させ、戦闘態勢を整えたとされる。
家康は状況によっては背後から一撃を加えようと考えていたが、まさかその手前で、対峙(たいじ)するとは思ってもみなかった。
そこでとりあえず、陣形を鶴翼(敵を前に左右に広がって兵を配置する形態)に展開したものの、敵を追いかける態勢になっていた徳川方の武将たちは、すぐにでも相手に襲いかかりたいという心理を持ってしまったようだ。
これは信玄の巧妙な罠であり、さらに信玄は、徳川方に石礫(いしつぶて)を雨の如く投げるという挑発行為に出た。馬鹿にされたと思った徳川の武将たちは、家康の制止も聞かず、次々と武田軍に襲いかかってしまった。
かくして両軍の全面衝突が始まる。当初、徳川軍は勢いに乗っていたようで、『三河物語』によれば、緒戦で敵の一陣、二陣を撃破したという。武田軍はさらに新手をくり出してきたが、この軍勢も切り崩して信玄の本陣まで到達した。
しかし、威勢が良かったのはここまで。まもなく数の差で戦況が逆転しはじめ、やがて徳川軍の潰走(かいそう)がはじまった。家康は動転することなく、小姓たちを討たせまいと馬を乗り回して抗戦し、やがてまん丸になって退却していった。
『松平記』は、家康は裏切った山家三方衆や小山田信茂の軍勢へ攻めかかり、これを追い立てて100人を討ち取ったものの、他の味方が崩れてしまったので兵を引いたという。ただ、『三河物語』と『松平記』では、家康の動きは簡潔すぎてよくわからない。
■「ここで討ち死にする」
これが史実かどうかは別として『徳川実紀』になると、かなり詳細になってくる。夏目吉信は浜松城にいたが、味方の敗北を知ると、手勢を引き連れて家康のもとへはせ参じ、「すぐに御帰城ください」と述べた。
しかし家康は、「こんな負け方をして、どうしておめおめ引き返すことができようか。それに敵が追撃してくれば、城まで引き返すのは難しい。ここで討ち死にする」と退却を拒んだ。
すると吉信は、家康の馬の口をつかみ、側にいた畔柳(くろやなぎ)武重に「私が主君の身代わりになる。お前はすぐにお供して撤退せよ」と言い、自らを家康だと名乗り、十文字の槍を手に取って激しい戦いのすえ命を落としたという。
武重は吉信が時間を稼いでいる隙に家康の馬を引いて撤退しようとしたが、家康は激怒し、乗り馬を激しく何度も蹴ってその場を動かさないようにした。けれど武重は強引に馬を引きずって戦場から離脱したのである。
ただ、武田軍は追撃の手を緩めなかった。このとき松井左近忠次が家康のもとに参じ、家康が身につけている目立つ朱色の甲冑(かっちゅう)と自分の甲冑を交換させ、その場に残って奮戦した。
■家臣の動揺を抑えるために行ったこと
こうしてどうにか浜松城にたどり着いたものの、城兵は当初、家康だとは気づかず、何度も武重が「城門を開けよ」と叫んでも開けなかったという。城兵の異常な警戒ぶりがよくわかる。
すでに徳川が大敗したという情報は、浜松城に伝わっていたのだろう。城に戻った家康は城門を開かせ、松明を焚き、敗兵がすぐに城内に逃げ込めるようにした。
これを危惧する家臣もいたが、「逆に門が開いていれば、やってきた敵は不審に思い近づかないだろう」と述べたという。また、家康は高木広正に命じ、彼が討ち取った首級を武田信玄のものだと偽らせ、城中の不安を和らげたとされる。
そして、敗戦当夜、鳥居元忠と渡辺守綱に夜襲を敢行させ、武田軍を牽制したのだ。また、『三河物語』によれば、勝利した信玄が首実検をしているところに、大久保忠世が鉄砲を撃ちかけ、驚かせたとある。
なお、帰城した家康は、湯漬けを3杯平らげ、高いびきをかいて熟睡してしまったので、家臣たちはみな感心したという。
こうした逸話の数々は『徳川実紀』が採録した軍記物などの記述なので、事実かどうかは疑わしいが、そうまでしなくては家臣たちの動揺を抑えられなかったわけだ。
■武田軍が浜松城を攻めなかったワケ
武田軍はすさまじい追撃に出たが、浜松城は包囲しなかった。おそらく信玄の目的は、信長の本拠地である美濃をたたくこと、あるいは上洛を果たすことであり、もし浜松城を囲めば、二俣城以上に月日がかかる。ゆえに始めから攻城戦は想定していなかったろう。
信玄はしばらく三方原北端の刑部(おさかべ)に駐屯して年を越し、やがて三河の野田城をめざして消え去った。
三方原の戦いの戦死者は、武田軍が400人、徳川軍が1000人といわれ、勝負は家康の惨敗だった。
■なぜ家康は負けるのがわかっていて出撃したのか
それにしても、なぜ家康は、負けることを承知で出撃したのだろうか。巷説では、同盟者の信長に対する義理だったとか、遠江の武将たちの離反を防ぐためだった、あるいは武士の意地だったという。
ここからは、あくまで私見である。
もし信玄が数カ月後に病没しなければ、この戦い如何によっては、徳川家自体が消滅した可能性があると考える。
■実は「譜代」の家臣は極めて少なかった
徳川家臣団は、家康に忠節を尽くした武士の鑑であるかのように伝えられているが、それは大きな間違いだ。
そもそも譜代の数は極めて少なかった。なぜなら岡崎城主で家康の祖父・松平清康は、三河の国衆の一人に過ぎなかったからだ。
しかし清康はたぐいまれなる戦ぶりで20代の若さで三河一国を平らげるような勢いを見せた。が、それから5年後、家臣に謀殺される。嫡男・広忠はわずか10歳だったので、たちまちにして松平(のちの徳川)家は分裂、実権は親族の松平信定らに奪われている。
広忠は流浪のすえ駿河の今川義元の後援を得て三河を取り戻すが、このおり嫡男・家康を人質に入れたものの、24歳の若さで死没した。ために三河国は今川氏の支配下に組み込まれ、家康は義元が桶狭間で死ぬまで城主として岡崎城にいることを許されなかった。
そんな家康がようやく三河一国を平定したのは8年前、遠江国を制したのが3年前だ。だから、心から家康に忠誠を尽くしている家臣たちは、ほんの一握りだったのではなかろうか。
実際、今回の三方原合戦の前より、遠江の国衆の多くが武田に寝返り、本国三河からも裏切りが出はじめていた。また、三方原の戦いでの敗戦が確実になると、水野信元など多くの一族や譜代家臣が浜松城へ戻らず、そのまま他所へ遁走(とんそう)してしまった。
また、何を思ったのか、家康より先に浜松城へ逃げ帰った家来が「上様ハ御打死(おうちじに)を被成(なされ)たる」(『三河物語』)と偽の情報を城中に触れ回り、味方を絶望のどん底に陥れている。
さらに岡崎城まで逃亡した山田正勝も、やはり岡崎にいた信康(家康の嫡男)に「大殿様(家康)ハ御打死を被成候」と言上している。しっかり主君の死を確かめもせず、なんとも情けない失態である。
■信玄と戦う以外の選択肢はなかった
こんな混乱状況だったこともあり、家康も馬上で糞を漏らしてしまったといわれる。すると、重臣の大久保忠世はこれに感づき、主君をねぎらうどころか、「殿が糞を垂れて戻ってきたぞ」と大声でゲラゲラと笑う始末だった。
おそらくこの話は、後につくられたフィクションだろうが、こうした素行のよくない連中のまえで、戦わずして尻尾を巻いて城中で震えていたら、家康は譜代にさえ見限られたはず。つまり、この一戦にお家の存亡がかかっており、家康は武田の大軍と戦うしかすべはなかったのである。
しかしながら、明らかに敵は大人数ゆえ、さすがに家康も正面から衝突するつもりはなかったはず。
とりあえず矛を交えて己の勇敢さを内外に示し、巧みに敵を翻弄(ほんろう)しつつ浜松城に入り、籠城して味方の後詰めを待つつもりだったのではなかろうか。
にもかかわらず、武田の大軍と激突してしまったのは、家康の制止を無視して敵に突入してしまったダメな家臣たちのせいだった。
■幸福の女神が微笑んだ
結果、家康は生涯最大の惨めな敗北を喫し、遠江を中心に多くの武将が武田方に寝返っていった。おそらく、何もなく時が進行していたら、家康の領地は信玄に併合されてしまった可能性もある。
だが、信玄が危篤に陥ったのである。肺結核とも胃癌ともいわれるが、病名は定かではない。
そして4月12日、信玄は伊那駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で死亡したとされる。53歳だった。いずれにせよ、家康は信玄の死によって、命拾いしたのである。
今度の危機は己の努力で乗り越えたわけでなく、幸福の女神が家康に微笑んでくれたおかげだった。
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歴史研究家・歴史作家
1965年生まれ。東京都出身。青山学院大学文学部史学科卒業。早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。著書に、『逆転した日本史』『禁断の江戸史』『教科書に載せたい日本史、載らない日本史』(扶桑社新書)、『渋沢栄一と岩崎弥太郎』(幻冬舎新書)、『絵画と写真で掘り起こす「オトナの日本史講座」』(祥伝社)、『最強の教訓! 日本史』(PHP文庫)、『最新の日本史』(青春新書)、『窮鼠の一矢』(新泉社)など多数
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(歴史研究家・歴史作家 河合 敦)
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