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秀吉は左遷人事のつもりだったのに…徳川家康が「関東への国替え」を大チャンスに変えられたワケ

プレジデントオンライン / 2023年2月14日 9時15分

徳川家康公之像(静岡県静岡市葵区黒金町)(写真=Akahito Yamabe/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

なぜ徳川家康は天下人になれたのだろうか。作家で歴史ユーチューバーの堀口茉純さんは、「秀吉から命じられた関東への国替えに従ったことが功を奏した。江戸は交通の要所で、力を蓄えるのには最適な場所だった」という――。

※本稿は、堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)の一部を再編集したものです。

■小田原征伐の陣中で決まった家康の関東転封

小田原を本拠地とする北条家は関東一円を支配した一族である。北条氏政・氏直親子は秀吉の上洛要請に応じず、惣無事違反もあったことから、秀吉は全国統一事業の仕上げとして、諸大名を総動員した小田原征伐を決定した。

天正18年4月、秀吉は小田原城に籠城する氏政・氏直親子を16万ともいわれる大軍勢で取り囲み、7月初旬に落城させた。

家康は娘を氏直に嫁がせていたため北条家とは親戚で、友好関係を築いていた。このため秀吉と北条家のあいだに入って和解を斡旋したのだが、開戦が決まると先鋒を命じられて豊臣方として小田原征伐に参戦した。

家康の江戸入りが決まったのは、この陣中のことである。経緯については様々な史料に同じような内容が記されているので、ここでは徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』の記述を適宜意訳して紹介しよう。

■地理的には左遷だが、石高は大幅アップ

小田原城落城前、秀吉は家康を見晴らしの良い場所に誘った。そして、「小田原城が落城したら北条家の旧領国を徳川殿に明け渡したい(つまり徳川家は関東へ転封)と思っているが、どこにお住みになるおつもりか」と聞いた。

家康は「さしあたっては小田原城に住もうと思っています」と応えたが、秀吉は「それは甚だよくない。ここは東国の喉仏なので家臣のなかで軍略に優れたものに守らせ、徳川殿自身はここよりさらに東の江戸城を本城にされるとよい。地図を見るとなかなかいい場所である」と言った。

というのだ。つまり、家康の江戸入りを決定したのは秀吉である。

徳川家の旧領の三河、遠江、駿河、信濃、甲斐の5カ国はおよそ150万石だったが、北条家の旧領である関東への転封により240万石になることが見込まれたので、転封自体は栄転であった。

ただし、豊臣政権の中枢である京都・大坂から距離的にはぐっと離れる形になり、さらに本拠地をぐぐっと東の江戸に指定されたということは地理的には左遷とも受け取れる。

秀吉は何を意図して江戸を指定したのだろうか。

皇居(江戸城跡)
写真=iStock.com/kuremo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kuremo

■秀吉にとって面倒な存在だった

その理由を確定できる史料は今のところないので状況から想像するしかないのだが、私は「家康を敬して遠ざけられる場所が江戸だった」のではないかと考えている。

もとはといえば秀吉は織田信長の家臣であり、家康はその信長の同盟相手。いわば上司の盟友である。秀吉に臣従した織田・豊臣恩顧の大名たちとは立場が違い、家康の顔が立つよう豊臣政権内でも厚遇する必要があった。正直面倒な存在だっただろう。

今や全国屈指の実力ある大名となった徳川家康が機嫌を損ねて謀反を起こせば、豊臣政権も無事では済まない。この危機感は豊臣政権重鎮の前田利家にとっても共通の認識だったようだ。

利家の家臣が記した逸話集『利家夜話』には、利家が「いつか必ず家康と敵対することになるので、その時に北条家の遺臣が前田家に味方するよう手なずけておく必要がある」と語ったエピソードが記されている。

このように豊臣政権の脅威となりうる存在の家康に小田原にいられては都合が悪かった。なぜなら小田原は秀吉が言ったように「東国の喉仏」つまり、箱根峠に隣接しているからである。関東の定義が、足柄峠と箱根峠の東、という意味であることからもわかる通り、箱根峠は陸上交通の要衝中の要衝だ。

秀吉は小田原城には家康の家臣の大久保忠世に入るよう指名したのだが、これは家康が謀反を起こすことを想定し、その際に小田原の大久保忠世が豊臣方に有利な動きをするよう恩を売ったのだと伝わっている。

■京都・大坂から家康を引き離したかった

では、なぜ江戸なのか、ということになるが、江戸は赴任先として決して悪い場所ではないのだ。

江戸は古くから東国と西国の水上物流の拠点であるのはもちろん、陸上交通の要衝でもあった。相模国と中原街道・鎌倉街道などでつながり、さらに奥州につながる街道もあった。秀吉は小田原征伐の後に奥州仕置(奥州地方の大名たちの領土仕置)を構想していたため、奥州へ向かうルートの確保のためにも江戸は重要地点だったといえる。

戦略拠点となる江戸を任せることで、豊臣政権内で徳川家康の力量を最大級に評価しているというポーズをとりつつ、権力中枢の京都・大坂からは地理的に引き離せる。秀吉にとって家康を配置する最適な場所が江戸だったのである。

江戸の地図
写真=iStock.com/tupikov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tupikov

では秀吉から江戸を指定された家康はどう受け止めただろうか。私は内心「しめた!」とほくそ笑んだのではないかと想像している。

■家康は江戸のポテンシャルを見抜いていた

実は家康は自身の関東転封が濃厚となったころから江戸に強い関心を示し、家臣を江戸城に何度も派遣して様子を探らせていた。

江戸城を造ったのは室町時代の智将・太田道灌だが、道灌が謀殺された後は紆余(うよ)曲折を経て北条家の支城となった。

北条家は初代・伊勢宗瑞(通称・北条早雲)が、伊豆・相模を実力で奪い、2代・氏綱、3代・氏康、4代・氏政、5代・氏直と、権力を引き継ぎながら東に勢力を伸ばし、領国をついに関東一円に広げた。

最大領土になったのは4代・氏政の時だが、この氏政は天正8年に家督を5代・氏直に譲り、自身は北関東および江戸の経営を直接行なうようになった。

それから10年ほど経った天正18年の江戸は、北条氏の新たな重要拠点として整備が進み、都市として発展する過渡的な段階にあったと考えられる。家康は北条家と友好関係にあったから、こういった江戸の都市化に関する最新の情報は秀吉以上に豊富であった可能性が高い。

そもそも関東支配の拠点としては、小田原では西に寄りすぎている。関東平野の扇の要のような位置にある江戸の方が地勢的にも理にかなっていた。また水上&陸上交通の便の良さを鑑みれば、全国統一事業が完了して大名間の領土的障壁がなくなればさらなる経済発展も見込まれる。ポテンシャル無限大!

家康にとって江戸は、京都・大坂を拠点にする豊臣政権と適度な距離をとりつつ、より大きな力を蓄えるのに最適な場所だった(なぜそんなに大きな力を蓄える必要があったのかはご想像にお任せします)。

■2人にとって江戸がベストだった

さらに見逃せないのが、小田原征伐の家康の陣中に天海がいたことである。寺社の沿革をまとめた『御府内備考続編』にはこんなエピソードが記されている。

天正18年4月初旬の事、家康の陣中にいた天海が、小田原に浅草寺の別当を呼び寄せ、家康に「江戸城の鬼門に位置し、源氏と所縁深い(源義家や源頼朝も祈願に訪れた)浅草寺を徳川家の江戸の祈願所にするように」と進言した、というのだ。

つまり小田原征伐が本格的に始まる4月初旬の時点で、家康は天海の助言を得て、水面下ですでに江戸入りの準備を始めていた。

天海といえば徳川将軍家に仕えて方位学を駆使した江戸の都市づくりの中核を担った人物。その天海が小田原征伐の陣中にいたのなら、家康に、江戸城が四神相応に叶い、方位学的にも幕府を開くのに……イヤイヤ、本城を置くのにふさわしい場所であるというお墨付きを与えた可能性は高いだろう。

堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)
堀口茉純『江戸はスゴイ 世界が驚く!最先端都市の歴史・文化・風俗』(PHP文庫)

こうして家康は、自身の関東支配の拠点を江戸にする意思を固めた。

秀吉による家康の江戸入り命令が、このような家康の意思を反映したものなのか、それとも偶然なのかはわからない。

とにもかくにも、秀吉、家康、お互いの思惑の落としどころとして、江戸がベストだったということは確かである。

小田原城が落城すると、家康は秀吉の指定通りに速やかに江戸城に入り、8月、9月のわずか2カ月で旧領から関東への領地替えを完了した。そのあまりのスムーズさは「速なるにも限あることなれ(速いにもほどがあるだろ!)」と秀吉を驚かせたほどだった。

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堀口 茉純(ほりぐち・ますみ)
作家・歴史ユーチューバー
東京都足立区生まれ。タレント、作家、歴史ユーチューバー。明治大学文学部を卒業。卒業後は女優として舞台やテレビドラマに多数出演。2008年に江戸文化歴史検定一級を最年少で取得し、執筆、イベント、講演活動にも精力的に取り組む。著書に『TOKUGAWA15』(草思社)、『UKIYOE17』(中経出版)、『EDO-100』(小学館)、『新選組グラフィティ1834-1868』(実業之日本社)がある。

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(作家・歴史ユーチューバー 堀口 茉純)

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