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地上46メートルに黄金で覆われたド派手な御殿を作った…織田信長が建てた安土城天主の奇想天外さ

プレジデントオンライン / 2023年2月19日 15時15分

安土城天主 信長の館(写真=Panoramio/baggio4ever/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

織田信長が琵琶湖の東岸に建てた安土城とはどんな城だったのか。歴史評論家の香原斗志さんの新著『教養としての日本の城』(平凡社新書)の第1章「安土城」より、一部を紹介する――。(第1回)

■宣教師が驚愕した安土城天主の姿

安土城の天主(安土城と、その前に信長が居城にした岐阜城には、信長自身の命名といわれる「天主」という表記がもちいられる)はどんな姿をしていたのだろうか。

信長とたびたび面会し、安土城にも招かれたイエズス会の宣教師、ポルトガル人のルイス・フロイスが書き遺した『日本史』から引用する。

「(城の)真中には、彼らが天守(ママ)と呼ぶ一種の塔があり、我らヨーロッパの塔よりもはるかに気品があり壮大な別種の建築である。この塔は七層から成り、内部、外部ともに驚くほど見事な建築技術によって造営された。事実、内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋めつくしている」

「外部では、これら(七層の)層ごとに種々の色分けがなされている。あるものは、日本でもちいられている漆塗り、すなわち黒い漆を塗った窓を配した白壁となっており、それがこの上ない美観を呈している。他のあるものは赤く、あるいは青く塗られており、最上層はすべて金色となっている」

「この天守は、他のすべての邸宅と同様に、われらがヨーロッパで知るかぎりのもっとも堅牢で華美な瓦で掩(おお)われている。それらは青色のように見え、前列の瓦には金色の丸い取付け頭がある」(『完訳フロイス日本史』松田毅一・川崎桃太訳)

安土城の天主台入り口
安土城の天主台入り口(『教養としての日本の城』より)
礎石が残る安土城天主台
礎石が残る安土城天主台(『教養としての日本の城』より)

■最上層の7階はすべて金

外観5重、内部は地上6階、地下1階で、計7階建ての壮麗な天主。信長の旧臣の太田牛一が記した『信長公記』(巻九)の記述で、さらに具体的に補っておきたい。

「六重め、八角四間あり。外柱は朱なり。内柱は皆金なり。釈門十大御弟子等、尺尊成道(しゃくそんじょうどう)御説法の次第、御縁輪には餓鬼ども、鬼どもがかゝせられ、御縁輪のはた板には、しやちほこ、ひれうをかゝせられ、高欄ぎぼうし、ほり物あり。

上七重め、三間四方、御座敷の内、皆金なり。そとがは、是又、金なり。四方の内柱には、上龍、下龍。天井には天人御影向の所。御座敷の内には、三皇、五帝、孔門十哲(こうもんじつてつ)、商山四皓(しょうざんしこう)、七賢などをかゝせられ、ひうち、ほうちやく、数十二つらせられ、狭間戸鉄なり。数六十余あり。皆、黒漆なり。御座敷の内外柱、惣々、漆にて、布を着せさせられ、其の上、皆黒漆なり」

6階(地上5階)は八角堂で外柱は朱塗り、内柱はすべて金で装飾され、内部は釈門十大御弟子や釈尊成道御説法などの仏画で飾られ、縁には餓鬼や鬼が描かれた。

そして最上層の7階は、外側も内側もすべて金で、座敷内には三皇、五帝、孔門十哲、商山四皓、七賢などの絵が描かれていた、という内容である。

一方、下層の障壁画は花鳥や賢人が描かれていた旨が記されている。

■安土城と他の城の決定的な違い

その後、この安土城がモデルになることで、各地の城に天守という高層建築が、シンボルとして建てられるようになった。

ただ、その後の天守と安土城の天主とのあいだには、ひとつ大きな差異がある。いま日本には12の天守が現存する。そのいずれかを訪れたことがある人は、粗削りの梁(はり)や桁がむき出しになるなどした、装飾がほとんどない無骨な内部が印象に残っているのではないだろうか。

17世紀以降に建てられた天守で、居住性が求められた例は多くない。それ以前も絢爛(けんらん)豪華な内装は多くなかった。城主が住んだり政務を行ったりする建物は御殿であって、天守の内部は普段は使われないため、装飾するだけ無駄だったのだ。

華麗な天守がそびえていた安土城天主台
華麗な天守がそびえていた安土城天主台(『教養としての日本の城』より)

一方、安土城の天主は、すでに見たように、外観はもちろんのこと内部も華麗に装飾されていた。

フロイスは、先に引用した文に続いて、「それらはすべて木材でできてはいるものの、内からも外からもそのようには見えず、むしろ頑丈で堅固な岩石と石灰で造られているかのようである」と書いている。

すみずみまで徹底的に装飾され、柱や床をふくめ白木が見える部分がなかったと推測される。じつは、信長だけは(あとにも先にも信長だけだが)、一定程度、天主に居住したと考えられている。だから、その内装は御殿のように、あるいは御殿以上に飾られたのである。

■奇想天外の建築を思いついたワケ

だが、ここで根本的な疑問を示したい。なぜ信長は権力のシンボルとして、天主なる高層建築を建てることを思いついたのだろうか。

安土城天主南立面
安土城天主南立面(画像提供=三浦研究室)

安土城以前に天主が存在しなかったわけではない。たとえば、信長が安土の前に居城にした岐阜城にも、明智光秀の坂本城にも、すでに天主(天守)が建てられていたとされる。だが、そのスケールと豪華絢爛たる度合い、ひいては象徴性を考えれば、天守は安土城にはじまったといっていい。

そもそも日本の建築史上、仏塔をのぞけば4階建て、5階建ての建築は、それまでほとんど例がなかった。ましてや居住できる7階建てだなんて、当時としてはあまりに奇想天外な建築だった。

■「天主」はどこから来たのか

井上章一著『南蛮幻想』は、この画期的な建築が誕生した理由が、その後どのように理解されてきたかについて、細かく追跡している。それによると19世紀末までは、江戸後期に儒者の太田錦城が『梧窓漫筆拾遺(ごそうまんぴつしゅうい)』で述べたように、西洋ではキリスト教、すなわち天主教の神を高層建築に祀る習わしがあり、信長もそれに倣(なら)って神を祀ったので天主という名が成立した、という理解が平均的だったという。

しかし、歴史家の田中義成は明治23年(1890)の「天主閣考」で、天守とキリスト教のあいだの因果関係を否定。

天主教とは中国の明代の呼称で、その漢訳を考案した宣教師のマッテーオ・リッチが明に入国したのは、安土城が炎上した天正10年(1582)なのだから、それ以前に「天主」の訳語が日本の建築に充てられたわけがない、というのである。

ちなみに、田中は天主の語源を仏教の経典に求めている。事実、四天王を置いて守護させたから天守だという解釈は、江戸時代からあった。

一方、天主という呼び名が天主教に由来する、という説が否定されたのちもなお、安土城に天主が建ったのはヨーロッパの築城術の影響だ、とする考えは根強かった。

ところが、洋式の築城術で建てられたという主張は1910年代から下火になり、天守とは日本で自律的に発展したものだとする説が登場。

大類(おおるい)伸(のぶる)らは、日欧は同じように封建主義を経験したので、同じような高層の城が出現した、という説を唱えた。その流れは、1930年代になって国粋主義が台頭すると加速する。

■ヨーロッパ起源説の根拠

そして戦後になっても、天守は日本起源だとする流れは変わらなかった。

そこに一石を投じたのが、建築史家の内藤昌氏だった。和漢古書専門の図書館である静嘉堂文庫で、旧加賀藩の作事奉行を務めた池上家に伝わる「天守指図」を発見。

そこに示された天主1階の不等辺8角形の平面図が、安土城址に残る天主台の平面と一致したことで、その「指図」をもとに、昭和51年(1976)に天主の詳細な復元案を発表。

「指図」によれば、4階までが日本の建築としては異例の吹き抜けなので、内藤氏はそこに、宣教師たちから受けたヨーロッパの影響を指摘した。

内藤氏の復元案に対しては、いまも反論が多い。そして多くの反論は、ヨーロッパの影響を受けたという解釈に対しても否定的である。その際には決まって、過去に例がない重層の建築が安土城に出現したのは、日本人の創意か、さもなければ中国の建築様式の影響だ、と主張される。

もし宣教師らが建築についてなんらかの手ほどきをしたなら、フロイスがそのことを書かなかったわけがない、というのである。

たしかに、フロイスの『日本史』には、信長の安土築城にあたって、南蛮人とよばれた人たちがなんらかの協力をしたとか、サジェスチョンをあたえたという記述はない。

それ以外の宣教師たちの記録にも、そういう記録は見つからない。

■信長が宣教師に3時間質問攻めした内容

だが、『日本史』によれば、信長は面会した宣教師らをいつも質問攻めにしている。

このほか、「彼(信長)がインドやポルトガルからもたらされた衣服や物品を喜ぶことに思いを致したので、彼に贈られる品数はいともおびただしく」という記述からも、信長が南蛮の文物へ強い関心をもち、所有するのを好んだことがうかがい知れる。

香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)
香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)

また、永禄12年(1569)、フロイスらに岐阜城内を案内する前に、信長は「貴殿には、おそらくヨーロッパやインドで見た他の建築に比し見劣りがするように思われるかもしれないので、見せたものかどうか躊躇する」と発言したという。

さらには、岐阜城を案内する際の信長の様子についても、フロイスは「彼は私に、インドにはこのような城があるか、と訊ね、私たちとの談話は2時間半、または3時間も続きましたが」と記している。

このときにかぎらず、信長はフロイスらと対面するたびに、日本の建築などをヨーロッパのそれとくらべたがったことは、見逃してはなるまい。

つまり、宣教師たちから、建築についての指導を直接は受けなかったとしても、彼らの語るヨーロッパの建築に想像をめぐらせ、イメージを喚起され、それを日本で具現化しようとした可能性は否定できない。

それは、われわれが日常的に周囲の人たちやさまざまな文物から受ける影響と似ている。そして、このような影響は文献には残りにくい。

■フィレンツェとの意外な共通点

では、安土城天主のどこに、なにからの影響が感じとれるだろうか。先に天主の地上5階は八角堂だったと書いたが、当時の日本には、高層部に八角堂がしつらえられ、そのさらに上部に四角い望楼が載せられた建築など、安土城の前には絶無だった。

では、西洋には当時、それに類する建築があったのだろうか。信長の同時代、すなわち16世紀当時のキリスト教世界を代表する建築は、なにを措いても、フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母)大聖堂だった。いまもフィレンツェのシンボルであり続けているこの教会堂は、中央にフィリッポ・ブルネッレスキ設計のクーポラをいただいた八角形のドームが載り、その上に小さな望楼が載せられている。

フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂
フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(写真=Flickr/Frank K./CC-BY-2.0/Wikimedia Commons)

信長からヨーロッパの建築について尋ねられたフロイスらが、具体的にどんな建築について語ったかを想像するに、フィレンツェの大聖堂について触れなかった可能性は、かぎりなく低いように思われる。そして、安土城天主のてっぺんから2層は、その様態を言葉で説明するかぎり、この大聖堂の形式に非常に近いのである。

といっても、信長が宣教師らの話から影響を受け、わけてもフィレンツェの大聖堂の姿を意識したと証明できる史料は存在しない。だから、歴史とは厳密な史料批判を行い、事実のみにもとづいて記述するべきものだ、という実証主義の立場からは、こうした推論は否定されてしまう。

しかし、われわれの実生活を思い起こしても、なにかを見て強烈な印象を受けたり、だれかの言葉に心を突き動かされたりして、自分の理想や世界観が大きく変わることは多い。繰り返すけれども、そういう影響は具体的な記述に残りにくく、実証的に示すことが困難である。だから、歴史を客観的に把握する姿勢を貫くほど、すくい上げるのが難しい。したがって、これから記すことも推論を越えないが、信長と宣教師たちとの交わり方から考えるに、彼らからの影響がないと判定するほうが不自然だと私は考える。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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