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6000本の杭を打ち込んだ不思議な構造物…岡山県の「謎の遺跡」に秘められた古代人の凄い発想

プレジデントオンライン / 2023年3月8日 15時15分

5世紀前半ごろの築造とされ、全長350m、高さ31m、平面積約7.8haの規模を持つ岡山県の造山古墳。1980年代、ここからほど近い高速道路の建設現場で謎の遺構が見つかった。(写真=©地図・空中写真閲覧サービス 国土地理院)

1980年代に岡山県で発見された津寺遺跡は、用途がわからず「不思議な構造物」とされてきた。工学博士で元国土交通省港湾技術研究所部長の長野正孝さんは「近くには日本で4番目に大きい造山古墳がある。津寺遺跡は交易や水路維持のためにつくられた港湾施設で、そこから得られた浚渫土で巨大古墳がつくられたのだろう」という――。

※本稿は、長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)の一部を再編集したものです。

■発掘当初は何が何だかわからなかった

岡山県岡山市には日本第4の大きさの造山(つくりやま)古墳がある。この巨大な塚を築いたであろう港が見つかっていた。巨大古墳は例外なく河川・水路の傍にある。河川や海岸に堆積した土砂の浚渫(しゅんせつ)を行ない、それを積み上げた結果、大王の古墳になったと私は今まで書いてきた。

古墳の土砂運搬には数多くの船と造成のためのシステムが必要である。この津寺遺跡にはそのシステムが見えるのである。現代に置き換えれば、関西国際空港の埋め立ての土採場から運搬、埋立(土砂投棄)に至るプロセスがわかるような施設であった。

その遺跡とは、おかしな河川の護岸があったと片付けられていた岡山市の津寺(つでら)遺跡である。1980年代に岡山市津寺地区の山陽自動車道と中国横断自動車道の岡山ジャンクションの工事中に、古墳時代の終わりの頃から奈良時代と推定される不思議な遺跡が発見された。旧足守(あしもり)川の左岸に、長さ約90メートル、幅約5メートルにわたり6000本以上の杭が打ち込まれている水際の不思議な(群杭)構造物が見つかったのである。前例のない遺跡であった。

■「治水遺跡」と認定されたが…

この遺跡は、日本道路公団広島建設局岡山工事事務所と岡山県教育委員会との合同調査によって、「岡山県埋蔵文化財発掘調査報告『津寺遺跡2』山陽自動車道建設に伴う発掘調査(その1)」(1995)として報告された。その後、河川技術の権威によって津寺遺跡は「古墳時代末期から平安時代の代表的な治水遺跡」とされた。

岡山市の津寺遺跡で発掘された、多数の杭が打ち込まれた遺構(1989年3月17日)
写真=時事通信フォト
岡山市の津寺遺跡で発掘された、多数の杭が打ち込まれた遺構(1989年3月17日) - 写真=時事通信フォト

報告書と、発掘調査に立ち会ったという柴田英樹氏によれば、護岸のような構造物であるが、不思議にも背後には土盛りがなく水面であったという。その構造は、非常に独特で、群杭の間にはスギの樹皮や木の皮、葦(あし)などを挟み込んだ盛土(もりど)があり、横木もあった。過去に類例を見ない、歴史的な大発見とされた。しかし、報告書を読んでも、特殊な河川の護岸であると書かれているだけで、詳細はわかっていないようである。

■「護岸」「堤防」にしては低すぎる

写真を見てもらえればわかるが、治水が目的の割には、天端(てんば)(堤防の高さ)が低すぎる。少し増水すればすぐに水は乗り越える(当時は足守川はまだなかった)。当時、現地調査に携わった前述の柴田氏は、背後(堤内地)に護るべき重要な施設もない、堤内地も水面であって不思議だったという。当時、総社(そうじゃ)市、倉敷市、玉野市から岡山市にかけて穴の海と呼ばれた大きな海があり、この遺跡はその北西部の足守川の左岸に位置している。

現在も標高10メートル以下の低湿地の多くは田圃(たんぼ)であり、4世紀から5世紀の時代、足守川の吐き出す土砂で陸化が進んでいた場所であった。浅い海、もしくは一面ぬかるむ泥の汽水域であった。千年後に豊臣秀吉が水攻めにした備中高松城が北方1キロ余りにあり、その時代も泥田であったことからも想像がつく。

そして、西に日本第4位の古墳造山古墳があり、東に加茂遺跡、南に楯築(たてつき)墳丘墓が位置する。いずれも1から2キロメートル範囲である。以前私が吉備津(きびつ)神社に訪れたとき、吉備津駅前と神社の間に小さな川があった。その川は「吉備の中山みち」に沿って東に流れているが、古代の穴の海の交易を支える重要な水路であったと考える。地図に川の名前がないので、岡山市に聞いたところ、「名無しの排水路」であるという。

■船着場、泊地、そして運河維持のための複合施設だった

その構造物の位置と構造に多くの知恵と工夫があった。彼らは現代人より頭が良い。

1)交易のための船寄場と大溝 

この構造物は港である。楯築墳丘墓がある向山に遮蔽(しゃへい)され、さらに南に微高地がある静穏な海で、多くの船が係留できる場所である。加茂遺跡など周囲に点々と微高地ができつつあった。加茂遺跡の地に住んでいた人々はこの港で働く集団であり、加茂遺跡は市場であったと考える。多くの船が寄せられるように長さ90メートルの突堤(とってい)(実際はもっと長いかもしれない)をつくった。

船着場、泊地、そして前述の「名無しの排水路」に続く大溝があった。私は、名無しは可哀そうであるので、この大溝を「吉備津大溝」と名付けたいと思う。隣接する微高地の加茂遺跡から鉄器、青銅器などが出土している。数百年間、山陰から日野川、高梁川経由で運ばれてきた鉄器などの高価な品々をさらに東に運ぶための、中継用の運河であったことを物語っている。足守川のこの構造物は、中継港であったことを指しているのではないか。

これは何を意味するか。100年前の造山古墳が造られた時代の交易ルートがここにあったのだ。運河の前面に吉備津神社があることでその重要性がわかる。すなわち、広大な穴の海の中で、海全体を支配する吉備津彦(きびつひこ)が祀られているのである。

現在は田んぼになっている低地を見渡すように建つ吉備津神社。
現在は水田になっている低地を見渡すように立つ吉備津神社。(写真=Reggaeman/CC-BY-SA-3.0-migrated/Wikimedia Commons)
(2)堆積防止の導水路

構造物の位置と向きを考えてもらおう。江田山(227m)の尾根が迫り、この付近の潮の流れが速くなる場所である。日に2回訪れる引き潮の流れをさらに速くし、そこに土砂堆積が起きないよう漏斗(ろうと)状の構造物をつくり、泊地となる部分とそれから続く運河を維持したのである。

角度が曲がったり、杭の密度が違ったりしている。報告書に「北の部分においては洗掘と補修が繰り返されている」と書かれていることから、現場で浅い海(将来足守川になる水辺)のご機嫌を伺いながら試行錯誤で長い時間かけて、澪(みお)すじ(船が通る水路)の潮の満ち干にあわせてたえず水深を維持させてきた構造物であることが推察できる。

(3)多くの作業船の泊地

吉備津大溝は津寺遺跡、加茂遺跡の北側、そして鼓山(つづみやま)山麓をつなぎ、吉備津神社を経て笹ヶ瀬川から旭川水系、瀬戸内海から東に抜ける物流の大動脈であった。この大溝(運河)がなければ、吉備中山の南側、現在の新幹線が走るあたりを迂回(うかい)して漕ぎ進まねばならず、さらにこの付近は海が開けており南風が吹くと航海は難儀した。しかし大溝を通れば、東への安全かつ穏やかな水路が約束されていた。

ところが時代が進むにつれ、このメイン航路の西側の入口・吉備津大溝が、足守川の押し出す土砂で埋没し始め、その対策として頻繁に土砂を浚(さら)うことを余儀なくさせられた。そのため、多くの作業船が従事した。その係留場所・泊地が津寺遺跡であったと考えられる。

(4)吉備津大溝の入口を守る構造物

足守川と反対側(堤内地)は泊地として多くの船が係留されたが、船の出入り口が必要であった。南側に開閉式のような入口が見られる。そこは東に吉備津彦神社の方向に延びる大溝の入口であった。その証拠に、報告書にここから東に水路があるという記述があった。海が浅くなるにつれ膨大な水路の浚渫土が生まれる。津寺遺跡ができる100年以上前から山を造り、日本第4の古墳が誕生している。

どのように土砂を運んだか? 浚ったばかりの土は大変重い。水路の脇に近くの微高地に一次土捨て場を設け、小山をつくり、天日干しにする。水分を十分抜いたあと、船で造山古墳に続く多くの古墳まで運んだのではないか。古墳での陸揚げにおいては、モッコに詰めて運んだのだろう。6世紀になって現場で土のうに詰め船で運ぶ方法がとられるようになるが、ここではどちらかわからない。いずれにしても、この港のおかげで巨大古墳はつくられたのである。

■19世紀オランダの技術と酷似

2メートル程度の杭長であり、根入れを考えれば、おそらく水深、数十センチの杭である。左側は足守川(繰り返すが当時は足守川はない、将来川になる)、右側は遊水地を兼ねた泊地であったと考える。足守川の水は木杭の隙間から遊水地に透過する。構造物に横方向の水圧が加わらない棚式突堤であった。

ただし、流れのゆるやかな場所でなければ成立しない。波や流れがあればすぐに流され、吹き飛ぶ弱い構造である。オランダの粗朶(そだ)沈床(ちんしょう)の技術と酷似している。桟橋(さんばし)構造は粗朶という軽い材料で背後の土圧を軽減する(ここの場合は背後の土圧はない)とともに、すべりによる崩壊を防いでいる。

オランダはラインデルタの軟弱地盤でできた国で、石材もない。木材と海岸で生える灌木で堤防や岸壁、いや国土そのものをつくってきた。古代の吉備の人々は19世紀のオランダ人と同じ程度に知恵があったということを証明した構造物である。この津寺遺跡の遺構を改めて正しく評価することが必要である。

■発見当時の専門家はなぜ「護岸」と思い込んだのか

現在でこそ、多くの河川の技術者は、この国の歴史が河川舟運で支えられてきたことを学んでいる。だが、この構造物が発見された、1980年代の専門家はどうであったか? 戦後の高度経済成長を支えてきた水力発電、工業用水などの河川の利用が最盛期で、防災面でもスーパー堤防などの議論が主流を占め。治水、利水全盛の時代であった。古代、モノが川で運ばれたという歴史はまったく脳裏にはなかった。

長野正孝『古代史のテクノロジー』(PHP新書)

当時の建設省で功成り名を遂げたある大先輩が「川は水を通す愚直な道具、浮かんでいるモノは船でも下駄でもゴミ」といっていた時代があった。縦割り行政で川と道路は建設省、港は運輸省、灌漑(かんがい)は農林省と専門性が高まり、総合的に見られなくなっていた時代であった。

すなわち、鉄や青銅器が山陰から船で運ばれた、造山古墳の石棺や膨大な土砂が船で運ばれたという考えは、諸先輩方は思いもつかなかった。専門外でやむを得なかったこともある。

だが、古代の穴の海を少し考えれば、海の中(一面泥の海)にポツンと護岸があることはあり得ない、そこは気付くべきである。

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長野 正孝(ながの・まさたか)
工学博士
1945年生まれ。名古屋大学工学部卒業。工学博士。元国土交通省港湾技術研究所部長、元武蔵工業大学客員教授。広島港、鹿島港、第二パナマ運河など、港湾や運河の計画・建設に携わる。

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(工学博士 長野 正孝)

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