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「終活」という言葉ほどバカなものはない…定年本や老後本にある「豊かな老後」を信じると後悔するワケ

プレジデントオンライン / 2023年2月26日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AndreyPopov

「豊かな老後」とは一体どんなものか。作家の勢古浩爾さんは「定年本や老後本によく書かれている言葉だが、『豊かさ』の中味は一人ひとりちがう。こうした希望や不安を煽るだけの言葉に騙されてはいけない」という――。

※本稿は、勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)の一部を再編集したものです。

■偽りの希望の言葉に騙されてはいけない

自分の言葉は自分をしばる。だからできるだけ、ウソはつかないほうがいいのである。適当なこともいわないほうがいい。しかしここでいいたいことは、そのことではない。人をたぶらかそうとする、もっともらしい公の言葉に、騙されないように(しばられないように)ということである。

定年本や老後本を開けば、たいてい「豊かな生活」とか「充実した人生」とか「成長しつづける」などの、偽りの希望の言葉が書かれている。しかし、こういうもっともらしい言葉がじつはよくない。これらはだれもが望むような言葉である。そのための方法を求めて、人は本を読むのである。

だがそのなかに、なにが「豊か」でなにが「充実」なのかが書かれていることは少ない。ほとんどない、といっていい。希望を示すような言葉だけが、しばりとなってわたしたちに残るだけである(それはなにか、を自分で考える人はいるだろう)。

映画『セックス・アンド・ザ・シティ2』で、ある中年妻が夫にいう。当然、中年男である。「わたしたちはキラキラした人生を送るべきよ」と。あっちもおなじなんだな。「キラキラ」の原語はたしか「スパークリング」だったか。

■「こうすれば老後は豊かになる」は本当か

なかには、老後のいまが一番楽しい、なんていう人もいる。わたしはこんなに楽しい老後をおくっている、人生は充実している、あなたもわたしみたいにこうすればいいですよ、というのだろうか。そりゃよかったね、というほかはない。

「いい人をやめれば人生はうまくいく」という人もいる。そんなばかな。人生がうまくいく方法などどこにもないし、それを知っている人など、この世にひとりもいるはずがないのである。

人生に「こうすればこうなる」なんてことはない。それはインチキビジネス書や成功本の幼稚な手口である。だから、こうすれば金儲けができる、成功する、雑談力があがる、老後は豊かになる、人生は充実する、輝く、なんてことはないのだ。

まあ、毎日酒浸りの生活をつづければ、体を壊し、いずれ死ぬぞ、ということはあるだろうが。人生にあるのは「こうするつもり」とか「やってみせる」という意志だけである(もちろん、その意志も大半は通らない)。

■「老後のいまが楽しい」はいったもん勝ち

すべての甘言は疑似餌である。食えたものじゃないのである。「輝く」なんてバカ言葉を使っている時点で、すでにアウトである。わたしはそんな子ども騙しのエサにだれが食いつくかね、と思うが、おいしそうなエサだと食いつく人がいないわけではない。ウソでもいいから、夢や希望を与えてくれ、と思っている人である。

ウソでもいいから、はなかろうと思うが、そんな人はいるのである。安くない金を払って本を買ったのだから、せめて夢や希望を与えろよ、本にはオレたちの知らない秘策が書いてあるものだろ、でなきゃただの買い損じゃないか、というのだろう。

「わたしは老後のいまが人生で一番楽しいよ」という人がいてもしかたがない。どういうつもりか知らないか、本人がそういうのだから、止めようがない。毎日が楽しい、充実しているよ、という人もいるだろう。そういうことをいうのはその人の勝手だし、いったもん勝ちである。

しかしそんなことなら、わたしだって、毎日充実してますよ、といえるわけである。これを読んでいるあなただって、まあおれも充実してるといえばそうかな、といっておかしくはないのである。なんだっていえるのである。

■「どうでもいい」と思ったほうが、すっきりする

ただし、そういったからといって、なにがどうなるわけでもない。味気ない生活が、そういったとたんに楽しくなるわけではない。それに、もしかれらがほんとうに楽しい生活を送っているにしても、かれらはあなたやわたしではない。なんの関係もないのである。

本を書いている人が作家だ学者だコンサルタントだといって、人生の達人であるわけがない。そんな人間はいない。あたりまえである。かれらも自分の人生を生きるのに精一杯なのだ。

もし「豊かな生活」や「充実した人生」を送りたければ、自分でつくるしかない。一人ひとり「豊かさ」や「充実」の中味がちがうからである。あなたの人生を知っているのは、あなた以外にはいないのである。

しかしほんとうに「豊かな生活」とか「充実した人生」って、なんですかね? 言葉の綾だというのはわかるが、中味のない、ただ聞こえのいいだけの空語ではないのか。そんなものはどうでもいい、と思ったほうが、いっそすっきりするのではないか。

■ベストセラーをきっかけにした「定年後」ブーム

楠木新の『定年後 50歳からの生き方、終わり方』という本が異例のベストセラーになったことを受けて、「『定年後』に輝くための7カ条」(『週刊文春』2017年9月14日号)という記事と、「大特集 定年後の常識が変わった」(『文藝春秋』2017年10月号)という記事がたてつづけに出た。

定年後のなにが「輝く」わけでもないし、「定年後の常識」というものがあるにしても、そんなものは自動的に変わりゃあしません。変えるか変えないかを決めるのは、あくまでも自分である。

また、『ライフシフト 100年時代の人生戦略』というベストセラーの影響で、早くも尻馬に乗って、これからは「人生百年だ」なんてことをいう人も出てきたが、そんなことは一個人にとっては、どうでもいいことである。かれらは売り上げを伸ばそうといろんなエサを垂らすが、われわれが、いちいちそんなものに食いつく義理はないのである。

■「終活」という言葉ほどバカなものはない

なにがバカくさいといって、「終活」という言葉ほどバカなものはない。クラブ活動が「部活」になったのは正当である。「就職活動」が「就活」なのもいい。「婚活」は「結婚活動」か。もうここでだめなのだが、まだ許せなくはない。

「妊活」とはなんだ。「妊娠活動」か。アホか。そんな言葉はない。「不妊治療」なら「妊治」だが、それじゃだめだ。「活」がないと。で、ただ「活」をつけたのだ。

「終活」にいたっては、ただ調子に乗っただけである。「終焉(しゅうえん)活動」などはない。しかしそんなことはどうでもいいのだ。「活」をつけたかっただけである。便利だし、わかるだろ、というわけである。葬儀屋の陰謀なのか。

自分の最後をどうしようか、と考えることは無駄ではないが、「終活」という言葉に踊らされて、おれもなにか考えなくてはな、と焦ることはあほらしい。エンディングノートを書き、尊厳死協会に入会し、生前墓を建てて、さてあとはなにがあるんだ? と計画を立てておくのは、人それぞれだから、他人がとやかくいうことではない。自分らしい個性的な死を演出しようと考える人が出てきてもしかたがない。そういう人は「終活カウンセラー」なんかに世話になるのだろうか。

■無になる人間が名を残すことに意味はない

わたしが自分の死で考えることは、「終活」とはなんの関係もなく、たったひとつ。残る者に金銭の負担をさせないように、葬式無用、戒名不要をいっておくだけである。墓はいらない。延命治療はもちろん断る。骨の欠片を小箱に入れて、手元供養でいい(「たったひとつ」ではなかったのか)。

残りの大量の骨の処分が厄介だろうけど、なんとか処分してもらう。散骨など邪魔くさい。葬儀をケチったと人に思われないように、これは故人の意志だということをはっきりさせておく。あとはテキトーでいい。

ほんとうは手元供養もいらない。記憶として残るだけで十分である(それも死んでしまえばわからないが)。もし記憶に残してくれる人がいるとしても、その人が死ねば、そこで終わりである。なにをどうしても、人間はいずれ無になるのである。レジェンドとして名を残しても、当人にとっては無意味である。「終活」などは、商売人の言葉にすぎない。

■「孤独死」というはやり言葉への違和感

孤独死という実体はある。昔からあるはずである。ひとりぼっちの高齢者もいまにはじまったことではあるまい。わたしが住んでいる近所に、静かなおじいさんがひとりで住んでいて、会えば挨拶をしたが、いつの間にか介護施設に入所したらしい。

わたしがはじめて「孤独死」という言葉を知ったのは、NHKの特集番組だったと思う。だからどうした、と思った。番組はもちろん露骨にではないが、みじめな死、人間としてあってはならない死、というメッセージを出していたように思う。だから孤独死を防ぐにはどうしたらいいか? と。悲惨といえば悲惨、みじめといえばみじめ、哀れといえば哀れな、だれにも看取られない死。この番組を観た人の多くは、ああはなりたくないな、と思ったのではないだろうか。

夕暮れ時、ビーチのブランコに一人で座っている男性
写真=iStock.com/AntonioGuillem
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AntonioGuillem

孤独死がみじめなら、ではどんな死であればいいのか。5千人もの人が参列する大葬儀か。ばかばかしい。親族に看取られる大往生は幸せな死か。いったい死に、幸せな死、などあるのか。こちらは孤独死、あちらは大葬儀。世間は当然、大葬儀のほうを評価するが、そんなことは、生きている人間による「哀れな死」と「見事な大往生の死」という、死の品評にすぎない。死んだ人間にとっては、おなじである。

■人間はどんな死でも死にうる存在である

火葬場に行くと、ずらっと並んだ焼却炉の前で、こちらはけっこうな人数、あちらは2、3人ということがある。見送る人が数人か、かわいそうに、と思ってはならない。人数の多寡、規模の大小など、大したことではない。それに、こっちの多数はほとんどが義理、あちらは真に親密な人、ということだってあるのだから。

勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)
勢古浩爾『脱定年幻想』(MdN新書)

人間はどんな死でも死にうる存在である。わたしみたいに真の厳しさを知らず、ぬくぬくと暮らしている人間がいってもなんの説得力もないが、わたしはそう考えている。むろん、嫌な死に方というものはあるが、それをいってもどうにもならない。自殺でもしないかぎり、自分で死に方は選べないからである。

わたしはどんな死に方をしても、文句はいわない。山ほど後悔するかもしれないが、文句はいわない(いえないのはそのとおりだが、いえたとしても)。ほとんどの死は偶然であり、自余(じよ)のことは、わたしが自分で決めたことだ。孤独死という事実はたしかにあるが、「孤独死」という言葉は愚劣である。その死を見る視線も愚劣。

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勢古 浩爾(せこ・こうじ)
作家
1947年大分県生まれ。洋書輸入会社に34年間勤務ののち、2006年末に退職。市井の人間が生きていくなかで本当に意味のある言葉、心の芯に響く言葉を思考し、静かに表現し続けている。著書に『結論で読む人生論』(草思社)、『自分をつくるための読書術』『最後の吉本隆明』(ともに筑摩書房)、『まれに見るバカ』(洋泉社)、『人生の正解』(幻冬舎)、『定年バカ』(SBクリエイティブ)、『自分がおじいさんになるということ』(草思社)など多数。

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(作家 勢古 浩爾)

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