1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

「ここはどこ?」「『ここ』ってどこだ?」…認知症特有の「取り繕い反応」は、哲学への入り口だった

プレジデントオンライン / 2023年3月15日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/byryo

認知症には「取り繕い反応」という典型的な症状がある。忘れていることを覚えているかのように振る舞うものだが、認知症の父・昭二さんを介護したノンフィクション作家・髙橋秀実さんは「親父の言葉を吟味してみると、これはひょっとすると哲学の問題ではないかと思った」という。なぜ哲学なのか。新著『おやじはニーチェ』(新潮社)を出した髙橋さんに聞いた――。(文・聞き手=ノンフィクション作家・稲泉連)

■母の死で顕在化した父親の「認知症」

髙橋秀実さんの新作『おやじはニーチェ』は、父親を介護する日々をちょっと意表を突く視点から描いた一冊だ。

髙橋秀実さん(写真提供=新潮社)
髙橋秀実さん(写真提供=新潮社)

テーマは「哲学」――。認知症になった父・昭二さんとの日常や会話が、アリストテレスや表題にあるニーチェ、ウィトゲンシュタインやハイデガーなどの言葉から読み解かれていくのである。

「私の父が『認知症』だと認定されたのは、母が亡くなった直後。そのとき父は87歳でした」と髙橋さんは振り返る。

それまで妻と2人暮らしだった昭二さんは、普段の生活は全て妻任せで、もともと家のことは「自分では何もできない人」だったという。

「認知症とは本来、ひとつの病名ではなく、記憶障害や見当識障害、思考障害などの症状の総称です。母と暮らしていたとき、父のそれらの症状は生活を支える母の存在によって見えませんでした。母が亡くなったことで、1人では生きていけない父の『認知症』が顕在化したわけです。これを私は『家父長制型認知症』と呼んでいるんです」

今日は何日だっけ?

そう聞くと昭二さんは倉庫に古新聞を取りに行き、いちばん上に置いてある新聞を手に取って「これか?」と言う。

「100引く7は?」と問えば、「じかに引いちゃっていいのか?」と逆に聞かれる。

■いつもの取材のように父親の言葉をメモしてみる

そうして始まった介護の日々に髙橋さんは困り果てていくのだが、その体験を書くことになったのは、ある日、妻からこう言われたことがきっかけだったという。

「メモしてないの?」

「そうか、と思いました。メモすればいいのかと。30年近くにわたって人の話を聞く仕事をしてきたわけですから。それで親父の言っていることを、いつもの取材のようにメモし始めてみると、不思議と腹が立たなくなったんです。それまではイライラすることも多かったのですが、親父の言っていることを一字一句正確に書き起こしてみると、それなりに一理あるような気がしてきたんですね」

そんななか、髙橋さんは「これは哲学の問題なのではないか」と思うようになった。

「例えば、認知症の見当識のテストにあるように、親父に『ここはどこ?』と聞くと、『どこ?』と聞き返してくるんです。『ここ』と答えると、『ここってどこだ?』と逆に問われたりして。私が質問した『ここ』は特定の場所ですが、父が言う『ここ』は概念としての『ここ』。つまり親父は概念の所在について言及しているわけです。

認知症になると語彙(ごい)が減少すると言われているので、それを確かめるために何かを手に持って『これは何?』と質問したんですが、親父はなぜか『ほう~』とか『へぇ~』とか感心するんです。一種のごまかし、『取り繕い反応』とも言えるんですが、よくよく考えてみると、私も妻に『これは何?』と聞かれることがあります。靴下を脱ぎ捨てたまま放置したりして。この場合、『靴下』と答えるべきではなく、『どうもすみません』と答えるのが正解ですよね。

つまり『これは何?』という問いは名前を聞いているとは限らないんです。母の遺影を見せて『これは何?』と聞いても、それは『写真』でもあるし、『写真立て』でもある。正解は『母』のようですが、『母』そのものじゃないわけで。そういえばアリストテレスも『形而上学』の中で『「これは何?」というのは難問だ』と言っていたな、と思い出しまして」

■父親の言葉から見えてきた哲学の本質

以来、髙橋さんは父親の介護を続けながら、哲学書を盛んに読むようになった。

〈一瞬一瞬に存在は始まる。それぞれの「ここ」を中心として「かなた」の球はまわっている。中心は至るところにある。永遠の歩む道は曲線である〉(ニーチェ著『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳、中公文庫)
〈再現(模倣)することは、子供のころから人間にそなわった自然な傾向である〉(『アリストテレース詩学・ホラーティウス詩論』松本仁助、岡道男訳、岩波文庫)
〈私が『私はそれを覚えている』と正当に言う場合、そこで起こっていることはきわめてさまざまでありうる〉(『哲学的文法――1 ウィトゲンシュタイン全集3』山本信訳、大修館書店)

父の介護をするまで、こうした哲学者たちの言葉は「何が言いたいのかよくわからなかった」と髙橋さんは語る。だが、認知症の解説だと思うと理解できる。もしかすると哲学者というのは多かれ少なかれ認知症のような気がしたという。

ニーチェのプレート
写真=iStock.com/claudiodivizia
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/claudiodivizia

■父親のことだと思えばヘーゲルは理解できる

例えば、高齢者用のパスが見つからず、どれだけ一緒に探しても「あるはず」と言い張る父。その出来事から髙橋さんは存在論について考える。

〈純粋な有〔あるということ〕がはじめをなす。なぜなら、それは純粋な思想であるとともに、無規定で単純な直接態であるからであり、第一のはじめというものは媒介されたものでも、それ以上規定されたものでもありえないからである〉(ヘーゲル著『小論理学(上)』松村一人訳、岩波文庫)

ヘーゲルのこのような難解な文章も、パスを「ある」と言い続ける父親のことだと思って読み解くと、〈驚くべきことにすっと理解できた〉と髙橋さんは書いている。

〈物事のはじめにあるのは「ある」ということなので、「ある」は無前提に「ある」。「ある」は「ある」ことの他に規定のしようがなく、「ある」は「ある」としか言いようがない〉

そう父の言葉を解釈し始める論考を読んでいると、こちらもなにやらおぼろげに意味がつかめていくから不思議だ。

■ユニークさとともに感じられる切実な愛情

また、子供の頃の思い出を際限なく語る父と接しながら、髙橋さんはニーチェの〈わたしは、永遠にくりかえして、同一のこの生に帰ってくるのだ〉(『ツァラトゥストラ』同)という言葉の意味を読み解いたかと思えば、散歩の途中で息子を指さして「あたしはこの人の息子です」と言った父の反応に触れ、大乗仏教を確立した龍樹(ナーガールジュナ)の次のような一文を引用する。

〈父と息子とのふたりのうち、いずれが息子であり、いずれが父なのか。それらはふたりとも、生じさせる者であるから父の特徴を持っているし、また生じさせられる者であるから息子としての特徴ももっている。ここにこの際、どちらが父で、どちらが息子なのか、という疑いがわれわれに生じるのである〉(「廻諍論」梶山雄一訳/『大乗仏典 第十四巻』、中央公論社)

哲学書を手掛かりに父の「いま」を理解しようと奮闘するそんな姿からは、ユニークさとともに切実な愛情が感じられるはずだ。

「この社会や人間関係は、あらゆることが『約束事』で成り立っています。例えば、親父は『今の季節は?』という問いに、『別にどうってことないです』と答えました。これも考えさせられましたね。

季節というものがあるわけではなく、私たちが季節を決めているんですよね。いわば約束事であって、親父はその決めることに対して『別にどうってことないです』と評したんじゃないかと思ったんです。

つまり約束事と世界を認知することは別なんです。認知症は約束事には従いにくくなりますが、世界を認知することについてはむしろ鋭敏になる。『存在』や『時間』のありのままの本質を問うのが哲学だとすれば、認知症になった親父の言葉はまさにその哲学そのものだったと思うのです」

■認知症はノンフィクション

そうして髙橋さんは父親の言葉、さらには父親自身への理解を深めようとしていく。本書を読んでいると、そのうちに難解な哲学と認知症への理解が、相互に深まっていく気持ちにさせられるだろう。

髙橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)
髙橋秀実『おやじはニーチェ』(新潮社)

「正常な認知というものは、実は社会の約束事に則ったフィクションです。その約束事が取り払われた親父の言葉は、いわば文字通りのノンフィクションだと思いました。つまり、認知症というのはノンフィクションなんです」

昭二さんが亡くなったのは3年前――。

〈私の顔の右半分あたりに「いる」という感覚はだいぶ薄れましたが、時折、自分が父と同じことをしていることに気がつきます〉

あとがきにそう綴った髙橋さんは、認知症の父の「言葉」ととことん向き合った記録であるこの本を、「きっと親父は『そんなこと言ったっけ?』と笑ってるかな」と語った。

----------

髙橋 秀実(たかはし・ひでみね)
ノンフィクション作家
1961年横浜市生まれ。東京外国語大学モンゴル語学科卒業。テレビ番組制作会社を経て、ノンフィクション作家に。『ご先祖様はどちら様』で第10回小林秀雄賞、『「弱くても勝てます」開成高校野球部のセオリー』で第23回ミズノスポーツライター賞優秀賞を受賞。その他の著書に『からくり民主主義』、『道徳教室』など。『はい、泳げません』は長谷川博己、綾瀬はるか共演で映画化。

----------

----------

稲泉 連(いないずみ・れん)
ノンフィクション作家
1979年東京生まれ。2002年早稲田大学第二文学部卒業。2005年『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』(中公文庫)で第36回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。著書に『ドキュメント 豪雨災害』(岩波新書)、『豊田章男が愛したテストドライバー』(小学館)、『「本をつくる」という仕事』(筑摩書房)など。近刊に『サーカスの子』(講談社)がある。

----------

(ノンフィクション作家 髙橋 秀実、ノンフィクション作家 稲泉 連)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください