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なぜ世界遺産・姫路城は圧倒的に美しいのか…同時期に建てられた名古屋城との決定的違い

プレジデントオンライン / 2023年3月5日 9時15分

圧倒的に美しい姫路城天守(『教養としての日本の城』より)

なぜ姫路城は日本有数の名城となったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「羽柴秀吉が作った狭い土台の上に、その後の城主が最新の技術を駆使して次々に天守や櫓を建てた。その結果、建築物が重層的に重なり合い、唯一無二の美しさを持つ城になった」という――。(第2回)

※本稿は、香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)の第5章「姫路城」の一部を再編集したものです。

■なぜ姫路城を美しいと感じるのか

姫路城は美しい。石垣とそのうえに建てられた白亜の櫓や門、塀が複雑に重なり合う重層的な景観は、ほかの失われた近世城郭の古写真や復元図と比較しても、唯一無二の美しさを湛えている。

とりわけ、立体的に重なる三棟の小天守に囲まれて大天守がそびえる姿は圧巻である。

だが、じつは姫路城の美しさは、ねらって生み出されたものではない。特別な美が誕生した理由を知るために、まず、この城の歴史をひもときたい。

■幻になった信長の御座所プラン

姫路城の内郭の中心部は、本丸を中心とした標高45.6メートルの「姫山」と、西の丸があるやや低い「鷺(さぎ)山」から構成されている。姫山に城が築かれたことが文献で確認できるのは16世紀半ばで、城主は黒田重隆だった。豊臣秀吉に仕えた軍師、黒田官兵衛孝高の祖父である。

そして天正8年(1580)、2代のちの官兵衛が城主だったときのこと。

播磨国を平定し、いよいよ中国地方の毛利を攻めに出る羽柴秀吉に、官兵衛は、因幡街道、伯耆街道、但馬街道、京街道、そして室津街道がとおる交通の要衝で、中国攻略の拠点として望ましい姫路城を、無償で献上したという。

このとき、総石垣で天守がそびえ、多くの建造物に瓦が葺かれた織田信長の安土城は、すでに存在していた。黒田家が城を構えていた地に秀吉があらたに築いた姫路城も、広範に石垣が積まれ、3層4階の天守が築かれたと伝わる。

姫路城は信長が西国に出陣する際の御座所にも予定されていたというから、当然だろう。

天正11年(1583)、秀吉が大坂城に移ると弟の秀長が入り、続いて秀吉の正室おねの兄、木下家定の居城となった。しかし、いま見る姫路城は秀吉が築いたときの姿ではない。

■家康が姫路城にかけた期待

関ヶ原合戦後、徳川家康の次女の督(とく)姫をめとっていて、東軍での活躍もめざましかった池田輝政が、論功行賞で三河国(愛知県)吉田15万2千石から大幅に加増され、52万石余りの大身となって姫路に入城する。池田氏は一族で百万石を擁する大大名となったが、それは家康の期待のあらわれでもあった。

 池田輝政画像(写真=林原美術館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)
池田輝政画像(写真=林原美術館蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons)

交通の要衝である姫路の城主となった輝政は、外様ながら「西国将軍」の異名を得て、秀吉恩顧の大名が居ならぶ西国を監視し、大坂の豊臣秀頼にも目を光らせるという、いわば徳川幕府の最重要任務を課されることになったのである。

そういう前提のもとに、慶長6年(1601)から輝政が築城を開始したのが、いま見る姫路城で、秀吉が築いた天守などが取り壊され、慶長14年(1609)までには現存する白亜の連立天守が完成している。そして、3重の堀を左回りのらせん状にめぐらせ、城下町をも取り囲んだ総構の城の原型がかたちづくられた。

■目まぐるしく城主が変わった“たった一つの理由”

しかし、慶長18年(1613)に池田輝政は死去する。家督を継いだ嫡男の利隆(としたか)も元和2年(1616)に急逝すると、わずか8歳の光政が家督を継ぐほかなく、幼少の藩主では枢要の地は守れないという理由で鳥取32万石に移封されてしまう。そこで、徳川四天王のひとり本多忠勝の長男、忠政が15万石をたまわって伊勢国(三重県)桑名から入封した。

この時代に西の丸があらたに造営されたほか、三の丸の御殿群や各所の枡形(ますがた)虎口が整備されるなどして、姫路城の全容が整えられた。

ちなみに、本多家も寛永14年(1637)、大和国(奈良県)郡山に転封となって、家康の外孫の松平忠明が入封した。ところが、正保元年(1644)に家督を継いだ忠弘は14歳だったので、4年後の慶安元年(1648)に山形に転封。やはり家康の孫の松平直基(なおもと)が城主になるが、わずか7歳で死去して7歳の直矩(なおのり)が家督を継ぐと、越後国(新潟県)村上に転封されている。

代わって徳川四天王の榊原康政の孫、忠次が入封するものの、2代のちの政倫(まさみち)がわずか3歳だったため、ふたたび松平直矩が姫路城主に戻っている。

こうしためまぐるしい転封と入封は、寛延2年(1749)に、酒井忠恭(ただずみ)が上野国(群馬県)前橋から移ってくるまで繰り返された。

すなわち、「西国将軍」として君臨した池田輝政ののちも、姫路城主は「西国探題」とよばれ、西国大名の謀反を食い止める最前線であり続けたため、譜代や親藩のなかでも重鎮が充てられただけでなく、幼少の城主は置かないという不文律ができていたのである。

■大坂城、名古屋城との決定的違い

このように江戸時代を通じて重要な軍事拠点であった姫路城は、3重の堀に22の城門がもうけられ、その多くは方形(枡形)に周囲を囲んで2つの出入り口をもうけた枡形虎口だった。

しかし、江戸城や徳川大坂城、名古屋城などにも通じる、その整然とした近世的な城門の姿は、建造物や石垣が折り重なった、われわれが見慣れている姫路城の重層的な景観とは異なっていた。

実際、内堀の内側の内曲輪に入ったのちは、このような典型的な枡形虎口には出会わない。論より証拠で、内曲輪を天守に向かって歩いてみたい。

■注目すべきは石垣の積み方

俗に大手門とよばれる、昭和13年(1938)に設置された桐外門(歴史的な門とは形状も大きさも異なる)を抜けると広大な広場に出る。

ここが三の丸で、江戸時代には城主の休息所と迎賓館を兼ねた向屋敷が東側に、2代将軍徳川秀忠の長女、千姫の居館だったという武蔵野御殿が南西に、そして西の高台には、藩庁と城主の居館を兼ねた本城が建ちならんでいたが、明治7年(1874)、歩兵第十連隊の兵舎を建てるために、すべて撤去されてしまった。

だだっ広い三の丸広場をとおり抜け、有料区域に入るとそこは二の丸で、「菱の門」にむかえられる。縁に黒漆が塗られた釣鐘型の華頭(かとう)窓がしつらえられ、金の飾り金具が打ちつけられるなど、古風な装飾がほどこされた櫓門である。

2009年秋の姫路城(写真=CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)
2009年秋の姫路城(写真=CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

だが、門をくぐる前にその東方の石垣を見ておきたい。自然石がほとんど加工されないまま積まれた古式の「野面積」で、大型の築石(つきいし)が混在している。

また、隅角部は直方体の石の長辺と短辺を交互に積み重ねていく「算木積」(この技法は関ヶ原合戦ののちに急速に発展した)がまだ見られない。つまり、羽柴時代に築かれたことがわかる。

そのさらに東方の上山里曲輪を囲む2段の石垣は、自然石をそのまま積んだことがいっそう明瞭だ。羽柴時代は石垣による築城の草創期で、高石垣を積む技術が未熟だったために、低い石垣を2段にすることで補ったのである。

■迷路のような通路になったワケ

さて菱の門だが、左右が非対称で、向かって左側だけが石垣に載る姿が変則的である。続く「いの門」も「ろの門」も、形状は高麗門だが、ともに片側にだけ脇戸がついており、左右対称ではない。

その先の、右手の土塀と左手の石垣にはさまれた狭い坂は、テレビドラマ「暴れん坊将軍」のエンディングに使われたことから、俗に将軍坂とよばれているが、左手の石垣は一部が野面積で、のちに修復した痕はあるものの、羽柴時代の石積みが基礎になっているのは明らかだ。

その先にある「はの門」は、門柱の礎石に燈籠や五輪塔の一部が転用されており、これも石材の供給体制が整っていなかった羽柴時代の特徴である。

姫路城「はの門」
姫路城「はの門」(『教養としての日本の城』より)

はの門を抜けて右折すると、左手の石垣はやはり野面積で、勾配がゆるく算木積も整っておらず、羽柴時代の特徴が顕著に見てとれる。

ここで天守が間近に見えてくるが、進路はヘアピンカーブのようにほぼ180度転回して天守から遠ざかり、急に道が狭くなって「にの門」に向かう。

これは櫓の下をくぐるトンネルのような門で、抜けると進路はふたたび90度屈曲する。このように天守までの道のりは、さながら迷路である。

旧式の縄張りと最新技術のハイブリッドこうした複雑な進路は、敵の攻撃を削ぐうえで有効だったに違いない。

また、建造物が幾重にも重なり合った姫路城ならではの美しさも、曲輪や通路がこうして入り組んで配置され、そのうえに櫓や塀が構築されることで生じたものである。

だが、それが意図されたものかといえば、どうやらそうではない。

■羽柴秀吉が残したもの

姫路城の内曲輪は、本多時代に西の丸が整備された鷺山は別にして、地山の形状や高低差など、元来の地形を活かしながら小さな曲輪をひな壇上にならべた、羽柴時代の縄張りを活用して築かれている。

事実、ここまでに確認したほかにも、天守を取り囲む乾曲輪、西北腰曲輪、北腰曲輪、そして上山里曲輪などは、羽柴時代の石垣に囲まれている。

羽柴時代に積まれた上山里曲輪の二段の石垣
羽柴時代に積まれた上山里曲輪の二段の石垣(『教養としての日本の城』より)

しかし、築城技術、ことさら石垣を積む技術は、信長の安土城以降、関ヶ原合戦前後までの20余年で著しく向上した。

要するに、池田輝政が姫山の縄張りを構築する際、土木技術が未熟だった時代に造成された構造を活かしたために、つづら折りの迷路のような通路ができ上がったというわけだ。

■床面が大きく傾斜した「櫓」

たとえば北腰曲輪の「ハの渡櫓」の軒先が美しい弧を描いているのは、それが載る石垣が湾曲しているからであり、上山里曲輪東方の太鼓櫓の床面が大きく傾斜しているのは、ゆがんだ石垣上に建てられたからである。

本多時代に築かれた西の丸は、地山の岩盤を削り、その土砂で谷を埋め、周囲に高石垣を築いて平坦な土地を生み出している。比較すると、姫山における旧式の縄張りの特徴がよくわかる。

香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)
香原斗志『教養としての日本の城』(平凡社新書)

一方、大天守と3棟の小天守が渡櫓で連結された、壮麗な連立式天守が載る天守台の石垣は、粗削りした加工石を積み上げた「打込ハギ」で、上物が建てられた慶長6~14年(1601~09)にあらたに積まれたものではある。しかし、そのわりには天守台の平面はいびつなかたちをしている。

3つの小天守は、いずれも平面がゆがんでいて正方形でも長方形でもなく、大天守も東面の石垣が南に向かって狭まっていて、2重目まではゆがんだ石垣上にそのまま、ゆがみを修整せずに建てられている。

じつは天守群も、羽柴時代の3層4階の天守を壊したあとに建てられていたのだ。

昭和の大修理の際、大天守台のなかに羽柴時代の天守台が収まっているのが確認され、そのことから、池田輝政が天守を新造する際、あたらしい石垣も羽柴時代の縄張りに沿って積まれたことがわかった。

■旧式の縄張り×最新の築城技術

先に、姫路城の天守群が立体的に重なり合う美しさに触れた。この摩天楼が林立するかのような景観は、旧式の縄張りを基礎にした、きわめて狭い天守台上に建てるほかなかったことの副産物ともいえる。

むろん、池田輝政は美観を意識しただろうが、天守群を中心に建造物が濃密に重なり合う美しさは、旧式の縄張り上に最新の築城技術を応用したハイブリッドによって生み出された美なのである。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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