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「全駅名を暗記できないあんたはバカ」教育虐待の毒母に置き去りにされた小2娘がそれでも母を好きだった理由

プレジデントオンライン / 2023年3月4日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PORNCHAI SODA

現在40代の歯科医の女性は小中学生時代、母親の恐怖教育に支配されてきた。勉強を強要され、成績が少しでも落ちると食事抜きで土下座を命じられた。それでも当時、母親を好きだったという女性は「毒親だったと気づいたのは、私が結婚・出産を経て、つい最近のこと。私たち母娘は完全に共依存のいびつな関係でした」と話す――。
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーは生まれるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。

■無関心な父親

関東在住の上地美栗さん(仮名・現在40代・既婚)の両親はいわゆる交際0日婚だった。もともと同じ保険会社に勤めていたが、母親は28歳の時に退社。1歳上の父親はひそかに好意を抱いていた母親の家を突然訪ね、なんとプロポーズ。しかも、母親もそれを承諾するという驚くべき展開で結婚に至った。その1年後に長女、その3年後に次女(上地さん)が誕生した。

交際0日婚の2人は親としては明らかにポンコツだった。

父親は、物心ついたばかりの上地さんが言われたらどんな気持ちになるかろくに考えずに、「本当は、2人目は男の子が良かった」と無邪気に言い放った。生まれてくる子の性別がまだわからない時期に男の子っぽい色やデザインの服ばかり用意していたため、上地さんはしばらく周囲の人からよく男の子に間違われた。

それはまだ序の口だ。上地さんが小2になると、長女と共に母親に連れられ祖母の家へ初めて電車で出かけることに。ウキウキ気分の上地さんに母親は乗車前にこう命じた。

「乗った駅から終点まで、電車に乗っている間に全部の駅を暗記しなさい。覚えられないようなバカはうちの子ではない。終点で置いていくからね」

上地さんは、「置いていかれたらどうしよう」という恐怖で萎縮し、全く頭に入らない。初めての路線で、駅の数はたくさんあったのだから当然のことだ。しかし、「あんたはバカ、うちの子じゃない」と怒り狂った母親は降車駅の改札を出たところで、「ついてくるな!」と長女の手を引いてぐんぐん歩いて上地さんだけを置き去りに。ぽつんとひとり残された上地さんは大声で泣いた。

「電車の乗り方すら知らなかった頃です。周囲の人の視線が刺さっていたたまれない気持ちでしたが、私は泣くしかありませんでした。しかも、母親が“回収”にやってきたのは数十分も経過してから。乗り換えで他の線に乗った時に、『もう一度覚えなさい。じゃないと今度は本当に置いていくから』と言われ、今度は何とか覚えきり、無事祖母の家まで行けました」

翌日も嫌な思いをした。実は前日、上地さんが終点の駅で泣いていたとき、偶然仕事中の父親が通りかかった。ところが、ひとりで泣く姿を知りつつ、「恥ずかしいから無視して通り過ぎた」とニヤニヤしながら話すのだった。

「父は、楽しそうに笑っていました。子供に興味がない。他人に興味がない。だから手を差し伸べない、妻への注意もしない。それが私の父です」

運動会や授業参観などの学校行事にクラスメートの両親は2人そろって来ていたが、上地家は母親が1人。父親は気が向けばふらっと来るくらいで、他の親はわが子と目が合うと微笑んだり手を振ったりするが、上地さんの父親は無反応。自分から声をかけたり、競技に出る娘を応援したりしなかった。

■教育ママの母親

母親は教育ママだった。上地さんは小学生の頃から塾に通わされ、テストの点が悪かったり、塾での順位が低かったりすると、怒鳴られ、夕食を与えられなかった。

「父方の伯父(父の兄)の子供2人は名門私立中学に合格し、エスカレーターで大学生になっていたため、その伯父家族に負けたくないと思っていたのだと思います。姉と私、特に私は、小学生時代にひどい教育虐待をされました」

上地さんが最も忘れられないのは、塾での成績が悪く、母親に怒鳴られ、なじられ、土下座までさせられたときの記憶だ。

「こんな成績であんたどうするの? あのダッサい制服の公立中学に通うの? 勝手にすればいいわ。そうなったら知らない。こんな点しか取れないなんて、勉強したくない、中学受験したくないってことでしょ? そんな子のことなんて構ってられない。恥ずかしい。受験したいの? 塾行くわけ? 勉強するの? だったらそこに土下座してお願いしなさい! どうするの?」

母親にまくしたてられた上地さんは、「中学受験させてください! 塾に行かせてください!」と、土下座して泣いてお願いした。

「今なら、『それなら公立中行くわ!』って言いますが、11〜12歳では、母に見捨てられると思い、とても言えませんでした。父は助けてくれないと分かっていましたし、泣いて土下座するしかありませんでした」

つらい思いをし、土下座までして挑んだ中学受験だが、上地さんは失敗。落ち込んで泣いていた娘に対して母親は、

「泣きたいのはこっちだ! お姉ちゃんだってあんたに期待していたのに。お姉ちゃんのお友達の妹は合格したってさ!」

と心ない言葉を浴びせかける。それでも、上地さんはずっと母親が大好きだったそうだ。

「幼少期は割と頭が回る方で、勉強しなくても覚えてしまうことが多く、怒られず良い子でした。学校などで問題を起こしたことはないですし、私は母のお気に入りでした。私も母が大好きでした。言うことを聞いていれば優しくしてくれたからです」

ののしり合いのけんかをする両親の間で耳をふさぐ少女
写真=iStock.com/solidcolours
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/solidcolours

一方、両親の夫婦仲は上地さんが物心ついた頃にはすでに冷めきっていた。母親は父親をほぼ無視して、父親は母親に反抗すると面倒だと思っていたのか、言われるがまま。上地さんが中学受験の頃も、母親に怒鳴られている娘を横で見ているだけ。母親から、「勉強しているか監視して!」と指示されれば、上地さんが勉強している後ろでずっと監視していた。3つ上の姉に対してはどうだったのかといえば……。

「母は私びいきでしたから、姉は寂しい思いをしたのではないかと思います。夫婦げんかをすると、母は自分の実家に私だけを連れて行きましたから。勉強についても、私ほど期待されていませんでした」

子供時代、上地さんは友人と遊ぶよりも、家で母親といることが好きだった。思春期を迎えても、反抗期はなかったという。

■毒親と娘の共依存

中学に入ると、テストの順位が出るたびに母親は、「なぜ100点が取れないの? 勉強しなかったの?」などと圧力をかけ続けたが、なぜか高校からは言わなくなった。上地さんが入学した高校では順位が出なかったからかもしれない。ただ、大学受験が近づいてくると、母親は「歯学部に入ったら?」と半ば強制した。

「当時、私には特になりたいものや自分の考え、夢がありませんでした。母のコントロール下にいましたので、母に言われたことと、資格職で食いっぱぐれないだろうとの思いから、進学先を決めました」

母親の恐怖支配から逃れたい気持ちもあり、上地さんは猛勉強してみごと歯学部に合格。

大学に入学すると、母親は「留年は許さないよ」「国家試験に落ちたら、その後はお金は出さないからね」と釘を刺した。無事、国家試験にも合格し、歯科医になった娘に、母親は得意げにこう言った。

「私の思い通りになった」

母親は友人や近所の人に、娘が歯科医になったことを自慢して回った。勤め先の歯科医院が決まると、勤め先まで言いふらした。

歯科にて治療中
写真=iStock.com/kumikomini
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kumikomini

「今から思えば、あんなに成績に敏感だったのに、母は私に勉強を教えてくれたことは一度もありませんでした。きっと教えられないし、一緒に頑張ろうという気がなかったんでしょう。『子供のための教育』って時々、親の自己満足になっていると思います。勝手に期待して、その期待に応えられないと怒って、その子の人権を踏みにじって怒りを相殺させるのです」

確かに、近年「教育虐待」という言葉ができたように、「子供のための教育」という大義名分が親の虐待を正当化し、エスカレートさせるふしがある。

「私の母のような親だと、子供はどんどん恐怖で洗脳され、どんどん深い傷になるのだと思います。私もそうでしたが、大人になっても脳裏に母の顔が浮かび、母ならどう思うかを判断基準にする習慣ができていました。ただ服を購入する時でさえです」

今でこそ両親のことを毒父・毒母と言う上地さんだが、自分の両親が“毒”だと気付いたのはつい最近のことだ。

「なんでこんなひどい目に遭っていながら、長い間気が付かなかったのだろうと思います。おそらく、共依存になっていたからですね。過去の自分に言いたいです。『あんたの両親は典型的な毒親よ! 早く距離を置いて!』と……」

■結婚後の変化

上地さんが歯科医として働くようになって以降、母親は上地さんに父親の愚痴を吐き、自分がいかに不幸かを話して聞かせるだけでは済まず、いろいろなものを買わせては、それを友人や近所の人に自慢した。しかし、買ってあげたものを大切に使うならまだしも、母親は上地さんに買ってもらったものを誰かにあげてしまうこともしばしば。上地さんがあえて買わないと、「ケチ!」とにらみつけた。

上地さんは36歳の時、友人の紹介で商社に勤める1歳年下の男性と出会い、約1年後に結婚。約2年後に長女を出産。

出産後、育休に入ったり、時短勤務になったりで収入は減り、子供の将来を考えるようになると、以前のように母親が望むままに何でも買ってあげられなくなる。断ると、「前はそんなこと言わなかった。ケチになった」と口を尖らせる。「誰かにあげちゃうなら、お金を払ってほしい」と上地さんが言うと、「急に嫌な人間になった」と眉をひそめた。

また、上地さんが結婚して以降、まるで自分より娘が幸せになるのが許せないかのように、上地さんの夫のダメな部分を指摘し、今まで散々愚痴を吐いてきたくせに、父親の方が上地さんの夫より優れているとアピール。夫だけでなく、夫の両親とも比較し、「私の家族の方が幸せだアピール」をしては、上地さんに同意を求めた。

両手で顔を覆う女性
写真=iStock.com/mapo
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/mapo

「夫に対する悪口は本当に多く、その割には夫にもいろいろとお願いをしていたので、私だけでなく、私の家族も自分の思い通りにしようとしていたのだと思います。両親は不仲なので、私も自分と同じ目に遭わせようとしているように感じました。うらやましいのかもしれません」

先に結婚し、家を出ていた姉には子供が2人いた。

「私に子供が生まれると母は、孫3人のうち、姉の子供である『初孫が一番かわいい』と、わざわざ私に言ってきました。思うのは勝手ですが、私に言う必要はなく、とても気分が悪かったです」(以下、後編に続く)

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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