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「ご飯が食べれる」の何が問題か…「ら抜き言葉」を「若者言葉」と批判する人に日本語の専門家が言いたいこと

プレジデントオンライン / 2023年3月3日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/zhz_akey

若者の言葉は乱れているのか。大東文化大学の山口謠司教授は「日本語史的に言うと、必ずしもそうではない。『ら抜き言葉』は、ことばの乱れと批判されるが、実は室町時代に起きた日本語のある変化から生まれたものだ」という――。

※本稿は、山口謠司『面白くて眠れなくなる日本語学』(PHP)の一部を再編集したものです。

■「ら抜き」は「ことばの乱れ」か

「会長が来られる」と小耳に挟んだとします。前後のことばがまったくなかったとしたら、みなさんは、このことばをどのように理解しますか?

こんなふうに思う人も多いのではないでしょうか。

・何言ってるの?
・来ることができるって? 可能ということ?
・尊敬? だったら「いらっしゃる」とか「お見えになる」と言えばいいのに
・ことば遣いが古くさい

一般に「ら抜きことば」と呼ばれるものについては、二つの視点から考えることができます。

ひとつは「ことばの乱れ」です。こう言ってしまったほうが簡単なので、多くの人は、「最近の若い人は」的な批判で片付けてしまいます。

ですが、はたしてそうなのでしょうか。じつは、言語学的な、あるいは日本語史的視点で言うと、この現象は室町時代後期に起こる五段活用の影響なのです。

■「可能」と「尊敬」の区別がつかなくなってしまった

現代日本語の「読む」は、

読ま─ない
読み─ます
読む─とき
読め─ば
読め!
読も─う

と「まみむめも」の五段全部を使って活用します。

これに対して、古語は、

読ま─ず
読み─たり
読む。
読む─とき
読め─ば
読め!

と、「まみむめ」の四段しか使いません。

「四段活用」から「五段活用」が起こったのが、室町時代だったのです。

ところで、「る・らる」という助動詞があります。

これを使って「読むことができる」(可能の意味の現代日本語)は、

古語=「読むる」
室町時代以降の五段活用=「読まれる」

「お読みになる」(尊敬、ていねいの意味の現代日本語)は、

古語=「読まる」
室町時代後期以降の五段活用=「読まれる」

となって、混同してしまいます。

このことによって、可能の意味の「読まれる」は、次第に「まれ」の部分が「め」に変わって、「読める」になってしまうのです。

これが「ら抜きことば」が生まれてくる原因だったのです。

室町時代後期から「受身・尊敬・可能・自発」の四種類の意味を持っていた助動詞「る・らる」は、現代日本語の「れる・られる」に次第に変化してくる過程で、「可能」の意味を表す「読まれる」「見られる」「着られる」などが、「読める」「見れる」「着れる」など、「ら抜きことば」になっていくのです。

文法に即した表記で言えば、上一段活用と下一段活用、カ行変格活用の場合に「ら抜き」とされるケースがほとんどだと言えるでしょう。

このことによって「読まれる」「見られる」「着られる」は、聞き手(読み手)にすぐにこのことばは「尊敬」か「受身」だなと判断できるようになるのです。

「ら抜きことば」は「ことばの乱れ」と言うのは、表層的なものの見方でしかありません。

■東京朝日新聞の連載小説で全国に広がった

ただ、ひとつ付け加えておけば、室町時代後期から始まる動詞の五段活用とそれにともなう助動詞「る・らる」の活用の変化(「ら抜き」への傾向)は、京、大坂、江戸などの都市部で拡大し、それが次第に地方に及んでいくことになります。

これが、一気に広がるのは大正時代から昭和初期です。川端康成の初期の作品『浅草紅団』は昭和4(1929)年12月から東京朝日新聞夕刊に連載されたものですが、絶大な人気のあった、ちょっとした探偵小説です。

この中で、川端は「ら抜きことば」を連発します。もちろん、この後の川端のベストセラー『伊豆の踊子』『雪国』なども「ら抜きことば」でいっぱいです。おそらく、「ら抜きことば」を全国に蔓延させたのは川端の小説だったのではないかと思われます。

「ら抜きことば」は「日本語の乱れ」と言うのであれば、それは川端に責任があるのかもしれません。でも、ぼくは、川端の責任だとは言いません。「ら抜きことば」という現代日本語の現象は、室町時代後期から次第に起こる日本語の変化によって、生じたことだと知っているからです。

■平安時代後期まで「父」は「ティィティィ」だった

現代日本語では「はひふへほ」と書いて「ハヒフヘホ」と発音しますが、まだ〈ひらがな〉や〈カタカナ〉がなかった頃の『古事記』、万葉の時代、日本人は「万葉仮名」で「波比富辺保」と書いて「パピプペポ」と発音していたのでした。「ハヒフヘホ」という喉から出す音は日本語にはなかったのです。

また、平安時代後期(『源氏物語』が書かれる頃)まで、「サシスセソ」と言えず「ツァツィツゥツェツォ」、「タチツテト」が言えず「ティァ、ティィ、ティゥ、ティェ、ティォ」と発音していました。

「父」は「チチ」ではなく、「ティィティィ」と発音していたのです。

さて、発音が変わっても「さしすせそ」「たちつてと」という表記に変化はありません。人間の性格が何かの影響でまったく変わったにもかかわらず、外見は何も変化がないようなものです。ところが、外見がサッパリしたら、その人の性格がまったく変わってしまったという場合もあります。

日本語も書き方が簡単になったら、意味がまったく変わってしまったという例があります。

■「い」と「ゐ」は別の発音だった

分かりやすく説明するために、「犬がいる」という文章を旧仮名遣いの〈ひらがな〉で書いてみたいと思います。

「いぬがゐる」です。

山口謠司『面白くて眠れなくなる日本語学』(PHP)
山口謠司『面白くて眠れなくなる日本語学』(PHP)

みなさんは、一般的にほとんど1946年4月以降に教育を受けて新仮名遣いで文章を書いていると思います(旧仮名こそ「伝統的」日本語の書き方だからそれを踏襲しているという方もありますし、旧仮名遣いを守っていたほうが、日本語に詳しくなりやすいのは確かですが)。

「いぬ」と「ゐる」、我々現代人は「い」と「ゐ」を同じ発音で混同してしまいます。

ところが、13世紀の半ば、モンゴル軍が日本に襲来する1274年(文永の役)頃までは「い」と「ゐ」は区別して発音されていたのです。〈カタカナ〉でその違いを記しておきましょう。

「イヌ が ウィる」です。

江戸時代の国学者・本居宣長も「イヌ が イる」と発音していますが、ただ「伝統的」学習で「いぬがゐる」と書いているだけです。13世紀半ばに両者の発音が同じになったということも知りません。

■紫式部が「イヌがイる」と聞いたら…

もし、「イヌがイる」という発音を紫式部が聞いたら、「犬が(そこに)いる」という意味ではなく、「犬が(どこかに)入る」という意味だと思ったに違いありません。

「居(ゐ)る」と「入(い)る」は、13世紀半ばまでまったく異なる発音で、異なる意味だったから、書き分けられていたのです。

「紫式部図」
「紫式部図」(画像=土佐光起作/石山寺所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

ところが、この後、発音が混同されたにもかかわらず、「犬」は「いぬ」、「居る」は「ゐる」、「入る」は「いる」と書くのだと教えられて、それをあまり疑問にも感じずに踏襲してきたのです。

「入る」は、古語では「い―る」と読みますが、現代語では「はい―る」と読みます。これは「い─る」と読んだら、「居る(be)」なのか「入る(get in)」なのか、区別がつかなくなってしまうからです。

■日本語の原則からみれば「こんにちわ」で問題ない

みなさんは、「こんにちは」と書くのと「こんにちわ」と書くのと、どちらが正しいと思いますか?

ぼくが「こんにちわ」と書くと、「バカって思われるわよ」と時々注意してくれる人がいます。パソコンの変換辞書も、「こんにちわ」と書くと自動変換して「こんにちは」に直してくれます。

でも、なぜ「コンニチワ」と発音するのに、「こんにちは」と書かなければならないのでしょう。

ぼくは、是非は別にして「こんにちわ」と書くほうが、新仮名遣いという現代日本語の原則に則して言えば、正しいのではないかと思っているのです。

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山口 謠司(やまぐち・ようじ)
大東文化大学教授
1963年、長崎県生まれ。大東文化大学文学部卒業後、同大学院、フランス国立高等研究院人文科学研究所大学院に学ぶ。ケンブリッジ大学東洋学部共同研究員などを経て、大東文化大学文学部中国文学科教授。専門は、文献学、書誌学、日本語史など。著書に、『日本語を作った男 上田万年とその時代』(集英社インターナショナル)、『ステップアップ0歳音読』(さくら舎)、『眠れなくなるほど面白い 図解論語』(日本文芸社)など多数。

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(大東文化大学教授 山口 謠司)

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