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NHK大河ドラマの準主役なのに…忠臣・石川数正は、なぜ家康を裏切って秀吉のもとに出奔したのか

プレジデントオンライン / 2023年3月5日 17時15分

映画『アウトレイジ ビヨンド』のジャパンプレミアに出席した松重豊さん(=2012年9月18日、東京都千代田区のイイノホール)  - 写真=時事通信フォト

徳川家康の古参の家臣である石川数正はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「長年、内政だけでなく軍事面でも家康を支えた忠臣だ。最後には家康を裏切り、豊臣秀吉のもとに出奔するが、それも徳川家の将来を案じるあまりの行動だった」という――。

■徳川家康と石川数正の特別な関係

大河ドラマ『どうする家康』でいちばん存在感を放っているのは、松重豊演じる石川数正だろう。

初回からずっと近くを離れずに仕える忠実な数正に、まだ若く優柔不断な徳川家康が頼りきっているのがよく伝わる。キャスティングテロップで名前が最後に紹介されることからも、本篇後の紀行コーナーでは松重みずからナレーションを務めていることからも、石川数正がこのドラマの準主役であることは明らかだ。

とりわけ家康の正妻で、有村架純が演じる瀬名こと築山殿を駿府(静岡)の今川氏真のもとから奪還する際、今川陣営に命がけで乗り込んで交渉し、殺されそうになりながらも、彼女と子供たちを無事に連れ戻した姿は感動的だった。

なにしろ、家康が今川義元のもとで人質になっていたころから、随行者の筆頭として近侍していた数正である。生年は不詳だが、家康よりも少し年上だったと考えられ、その後も家康は数正を懐刀として頼りにし続けた。

■なぜ忠臣は家康を裏切ったのか

たとえば、第8話は「三河一向一揆でどうする!」(2月26日放送)だったが、まさに「どうする」という立場に置かれていたのが数正だった。

年貢を支払わない一向宗(浄土真宗)の本證寺(ほんしょうじ)から、家康が年貢を取り立てようとしたところ、一向宗門徒たちは三河各地で蜂起し、一向一揆が頻発してしまう。じつは、その際に家康の家臣団からも、一向宗門徒の武士を中心に一揆側につく者が多数出たから大変なことになった。

とりわけ石川氏一族は本證寺の門徒団の中心で、数正の祖父の清兼は、三河の一向宗門徒の総代のような立場だった。だから、一族の多くが一揆方に組することになったが、数正はわざわざ浄土宗に改宗してまで、家康への忠誠を尽くしたのだ。

それだけに、数正がその後、家康を裏切って出奔したという史実が、重く感じられるのである。

■無二の忠臣といえる働きぶり

永禄7年(1564)2月に三河一向一揆を鎮圧すると、その年の夏以降、家康は東三河(愛知県東部のさらに東部)の平定事業を再開し、翌年3月に吉田城と田原城を落城させ、この地域を制圧。吉田城に、やはりドラマで家康の近くにいつも侍っている大森南朋演じる酒井忠次を入れ、東三河の旗頭とした。

一方、西三河はすでに、数正の叔父で三河一向一揆でも家康を裏切らなかった石川家成を旗頭としていた。だが、永禄12年(1569)、今川義元の嫡男で、溝端淳平の悩める悪役ぶりが話題の今川氏真が、こもっていた遠江東部(静岡県東部のさらに東部)の掛川城を明け渡したあと、家成は掛川に転出。その後は、数正が西三河の旗頭となった。

以後は、西三河では石川数正、東三河では酒井忠次が、それぞれ旗頭を務め、その下に松平一族や、土着の家臣である国衆らが配置されるという体制が整えられた。

酒井忠次の肖像画(先求院所蔵)
酒井忠次の肖像画(先求院所蔵)(写真=M-sho-gun/PD-Japan/Wikimedia Commons)

戦国大名にとっては、戦いを勝ち抜いていくための強力な軍事態勢の構築がなによりも大切だった。そして、家康はその体制の要となる2人の統括役の一方を、数正に託したのである。

その後も、三方ヶ原の戦い、姉川の戦い、長篠の合戦など、重要な戦いの数々に参戦して武功を上げた。そして、家康の嫡男の信康が切腹を余儀なくされたのちには、岡崎城代を務めて軍事ばかりか内政面でも力を尽くし、家康と数正の信頼関係は深まるばかりのように見えたのだが――。

■ライバル秀吉との戦いの結果

それから時は下って、すでに天正10年(1582)6月に織田信長が本能寺に斃(たお)れ、信長の後継者として羽柴秀吉が勢力を急伸長させていたときの話。天正12年(1584)に、家康は信長の次男の信雄と連携して、急速に力を拡大する秀吉に対抗し、小牧・長久手の合戦を起こしていた。

その際、家康は長久手において鮮やかに勝利したものの、その後は大きな戦いがないまま一進一退を繰り返した。だが、そうしているかぎり、やはり圧倒的な兵力を有する秀吉のほうが優位になってくる。

自身の居城に圧力をかけられた信雄が秀吉に屈して和睦すると、家康も秀吉の求めに応じ、人質を出して和睦せざるをえなくなった。そして同年12月、家康は次男でのちの結城秀康を、石川数正は息子でのちの康勝を、同じく重臣の本多重次も息子でのちの成重を秀吉のもとに送った。

翌天正13年(1585)7月には、秀吉は関白に叙任。それでも、家康は秀吉に臣従まではしなかった。そんななか同年11月13日に、家康家臣団の要で徳川軍の最高司令官となっていた石川数正が、自身の妻子らを連れて、秀吉のもとに出奔してしまったのである。

■最新の研究でわかった「寝返った理由」

いったいなぜ、よりによって「敵」だった秀吉のもとに寝返ったのか。その理由を明記した史料はないが、研究者の見解はほぼ一致している。秀吉に対する強硬派が多かった家康の家臣団のなかで、融和派の数正が孤立してしまったのだ。

外交交渉で実績がある数正は、天正11年(1583)年、柴田勝家が滅んだ賤ケ岳合戦の戦勝祝いに、はじめて秀吉のもとに遣わされて以来、たびたび秀吉への使いを務めていた。

小牧・長久手合戦後の講和交渉を担当したのも数正で、その間、秀吉は大坂城を築き、朝廷から次々と高い位階を叙任され、急速に力を拡大していた。

しかも、小牧・長久手合戦後は、それまで織田・家康連合軍と通じていた勢力が、四国の長宗我部氏をはじめ、次々と秀吉に屈服。そんな情勢を目の当たりにしていた数正は、秀吉との講和を進めないかぎり徳川の未来はないと判断し、そう主張した。

ところが、酒井忠次にせよ、本多忠勝にせよ、家臣の多くは秀吉に屈するなどとんでもないという意見だった。

そして決定的だったのが、家康の家臣・松平家忠による『家忠日記』に記述がある、天正13年(1585)10月28日の「浜松城会議」だったようだ。

浜松城(遠景)
浜松城(写真=Saigen Jiro/CC-Zero/Wikimedia Commons)

■「浜松城会議」で起こったこと

それまで家康は、小牧・長久手合戦後に和睦する際、秀吉に人質こそ送ったものの、上洛することも、秀吉に臣従することも拒んでいた。そんな家康に対し、秀吉はまさに数正を通して、あらたに重臣の子弟らを人質に出すことを求めてきた。

そこで家康は、10月28日に家臣たちを浜松城に集め、人質を送るかどうかについて話し合ったが、強硬論が圧倒的で、人質は出さないことに決まった。京都大学名誉教授の藤井譲治氏は「おそらく石川数正は人質を秀吉に出すべきとの意見を持っていたのであろう」(『人物叢書 徳川家康』)と記すが、そうであれば、数正が立場を失ったことは想像にかたくない。

さらに、静岡大学名誉教授の小和田哲男氏は「一本気で頑固な他の家康家臣たちが、数正を“秀吉のまわし者”と見はじめたのである。徳川家のためによかれと思って動きながら、同僚からそのように見られることほどつらいことはないであろう」(『徳川家康 知られざる実像』)と記す。

一方、「秀吉は、一つには数正の力量を評価し、同時にもう一つの側面としては、鉄壁とみえる徳川家臣団に亀裂を生じさせるために、数正の懐柔に乗り出したと考えられる」と小和田氏。静岡大学名誉教授の本多隆成氏も「おそらくは秀吉からの事前の誘いもあって」(『徳川家康の決断』)と見る。

■人生最大の危機に家康がしたこと

とにもかくにも家康には一大事だった。同盟先で娘婿でもあった北条氏直に知らせたほか、各地に急いで伝達し、緊急の対応策を話し合った末、岡崎城をはじめ領国内の城をみな整備することにした。

それだけでは足りない。徳川家の軍法や軍事機密にいちばん通じている人間が、敵方の秀吉のもとに駆け込んだのである。すべては秀吉の知るところになったと考えるほかない。

そこで、旧武田軍の軍書を集めて、軍法をあらため軍制もすべて旧武田式に刷新することになった。

人質の要求を拒まれた秀吉は激怒して、家康を成敗することに決めた。

秀吉はその意志を複数の相手に書き送っており、本気だったのはまちがいない。

そして実行に移されていれば、家康は滅亡させられるか、所領を大幅に削減させられるか、どちらかになった可能性が高いだろう。

■大河の家康からは考えられない果断

ところが、である。天正14年(1586)正月の出馬を宣言していた秀吉だったが、急遽取りやめている。

数正が出奔し、秀吉が「家康成敗」を決めた直後の天正13年(1585)11月29日、天正大地震が発生して、とりわけ近畿から尾張にかけては被害が甚大で、出馬どころではなくなってしまったものと考えられている。

一方、家康の領国だった三河以東は被害が少なく、家康は予定どおりに城を整備した。さらに、軍制を旧武田式にすることで、武田の残党を徳川軍に取り込んだばかりか、それまで三河の武士の連合体のようだった軍制をいわば中央集権の強力な体制に強化した。

危機を飛躍のチャンスにできるしたたかさが家康にはあった。だから、地震などの運を味方にできた。こうして、家康はみずからの軍事力をさらに高めることに成功し、結果的に秀吉に臣従はしたものの、秀吉政権下で高いプレゼンスを保つことになった。

結果論ではあるが、運にも恵まれなければ、天下など取れるものではないだろう。

ちなみに数正は、小田原攻めの功で信州松本城主に封じられ、いまにつながる松本城を築きはじめた。そして、秀吉の朝鮮出兵に際し、肥前名護屋に出陣するが、その地で没したとされている。

家康のもとを離れて以降、秀吉に忠義を尽くしたが、自身の出奔によって家康の立場を高めたのだから、石川数正は裏切ってなお、無二の忠臣としての役割を果たしたともいえる。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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