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開成でも麻布でもない…戦前の「旧制一高」合格校ランキングで絶対王者・日比谷高校を破った私立校の名前

プレジデントオンライン / 2023年3月8日 9時15分

有形文化財(建造物)に指定されている「東京大学教養学部旧第一高等学校本館(時計台)」(東京都目黒区)(写真=CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

戦前の日本で最高峰の学校は「第一高等学校(旧制一高)」だった。東京帝国大学進学の予備教育を行う学校で、現在の東京大学教養学部の前身である。そんな旧制一高の合格者は、どんな学校の出身者だったのか。教育ジャーナリストの小林哲夫さんが当時の状況を紹介する――。(第1回)

※本稿は、『改訂版 東大合格高校盛衰史』(光文社新書)の6章「東大合格高校の歴史VI 前史、旧制一校受験編」を再編集したものです

■政財官学各界でエリートを輩出した「旧制一高」

神聖なる儀式だった。

1950年3月25日、「第一高等学校」の看板が、厳かに外されようとしていた。場所は、現在の東大駒場キャンパス正門である。

小林哲夫『改訂版 東大合格高校盛衰史』(光文社新書)
小林哲夫『改訂版 東大合格高校盛衰史』(光文社新書)

これをもって、旧制第一高等学校(一高)が東京大学に生まれ変わった、と単純に位置づけることはできない。

『東京大学百年史』によれば、旧制の東京高等学校、東京帝国大学などが「包摂」されて、東大が作られたとされている。現実には、一高が、東大教養学部の基礎を築く中心となっていた。たとえば、教養学部のカリキュラムは、一高時代の名残をとどめており、教員も4割近くは一高で教鞭をとっていた。

戦後の学制改革直前まで、教育課程のルートは多様化していたが、代表的なものが6533制である。小学校6年、中学校5年、高校3年、大学3年。現在の6334制に学年をあてはめると、旧制中学4年と5年(15、16歳)が新制高校1年と2年に、旧制高校1年(17歳)が新制高校3年にあたる。

そこで、現在の高校から大学への受験を、旧制中学から旧制高校への受験にスライドさせてランキングを作ってみた。

わかりやすくいえば、日比谷高校からの東大受験を、旧制の府立第一中学から第一高等学校の受験に置き換えたわけである。もちろん、旧制中学と新制高校、旧制高校と新制大学を同一視することはできない。それぞれ性格が異なるまったく別物の教育機関であることを留意してほしい。

■正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉の名が並ぶ

一高の旧制中学別ランキングはどうなっているか。

学制改革以前、大正から昭和にかけて、『サンデー毎日』も『週刊朝日』も創刊されていたが、「全調査、一高合格中学ランキング」という記事は見あたらない。当時の教育誌『教育時報』『受験と学生』(研究社)にほんの少しだけ掲載されている程度だ。

そこで、『第一高等學校一覧』(『一高一覧』)を調べてみることにした。ここには、在校生の氏名、出身地、出身校が掲載されている。

1885年の『一高一覧』には正岡子規、夏目漱石、尾崎紅葉が同級で並ぶが、3人とも「應募」とある(入学時は東京大学予備門)。

子規は松山中学(松山東高)を中退して東京大学予備門を受験するため、共立学校という予備校に通った。漱石、紅葉も東京府第一中学(日比谷高)を中退して予備校通いをはじめる。

漱石は成立学舎、紅葉は三田英学塾で学んだ。漱石はこう回想する。「正則の方では英語をやらなかったから卒業して後更に英語を勉強しなければ予備門へは入れなかつたのである。面白くもないし、二、三年で僕は此中学を止めて了(しま)つて……」(『中学文芸』臨時増刊「名士の中学時代」、1906年)。

■正岡子規が通った予備校の正体

ここで、東京府第一中学の歴史を簡単に振り返ろう。1878(明治11)年に創立した。やがて、81年東京府中学、87年東京府尋常中学校、99年東京府中学校、1900(明治33)年東京府立第一中学校、43年都立第一中学校、学制改革を経て48年都立第一高等学校、50年都立日比谷高等学校と名称が変わる。

さて、漱石が在学していたころの一中は、教育内容で「正則」「変則」の2コースに分かれており、漱石が所属していた「正則」では3年次まで英語の授業がなかった。退学して予備校に通い一高を受けるほうが、受験勉強する上でも経済的にも効率が良かった。

このように、1880年代までは一高受験生を予備校が引き受けていた。88年一高入試において、合格者出身予備校ランキングの記録が残っている。

共立学校53人、東京英語学校53人、成立学舎30人(『日本人』1888年)。

共立学校の年別合格者数の推移を見てみよう。79年120人、82年75人、84年72人、85年85人、86年76人、87年46人、88年53人、89年56人、90年64人。

なお、90年には一高合格者のうち21%を占めていた。これらのデータの出典は『開成学園七十年史』による。そう、一高に多くの合格者を出した予備校は、開成高校の前身なのである。

共立学校のライバルは東京英語学校である(一高の前身、官立英語学校とは別機関)。同校の一高合格者の推移は、86年36人、87年67人、88年53人、89年67人、90年94人となっている。これらのデータは『日本学園百年史』による。現在の日本学園高校である。

■1890~90年代の上位は名門私立がずらり

共立学校、東京英語学校からの一高合格者の多くは、東京府尋常中学退学組に支えられていたといっていい。89年、東京府尋常中学の卒業生は27人しかいない。中退者は204人にのぼる(『東京府史』)。その多くが予備校に通ったのである。

もっとも、予備校といっても未修の科目を初めて学ぶという点などで、現在の大学受験予備校とは性格が異なる。

86年中学校令の公布によって、中学卒業と高校入学のレベルの差が解消され、両者の接続がスムーズに行くようになった。予備校に通わなくても中学でしっかり学べば高校受験に対応できるようになった。

これで商売上がったりと、困った予備校はどうしたか。先述したように、自ら中学校へ生まれ変わったのである(以下、カッコ年は創立)。

共立学校は開成中学(91年)、東京英語学校は日本中学(92年)、尾崎紅葉が通った三田英学校は錦城中学(92年)となった。予備校時代に培われた一高受験のノウハウはいかんなく発揮され、既存の中学にとっては脅威となった。1890年代の一高合格者ランキングは私学が上位を占めている。

「旧制一高」の旧制中学合格者ランキング(1900年~1911年)
 府立第四は現在の戸山高校(出典=『改訂版 東大合格高校盛衰史』より)

■「獨協」が1位になった事情

私立中学のなかで特に抜きんでていたのが、獨逸学協会中学校だった。現在の獨協高校である。03年の一高合格者は44人でトップ。このうち35人が第三部のなかにあった医科だった。

当時、一高は第一部(法科、文科)、第二部(工科、理科、農科)、第三部(医科、薬科)に分かれていた。医科の授業ではドイツ語が必須なため、受験でドイツ語必須枠が40人設けられていた(ドイツ語以外でも受験できたが、ごく少数だった)。

これはドイツ語教育に力を入れている獨逸学協会中学にとって、大きなアドバンテージになる。このころ、旧制中学でドイツ語を学べるのは、府立一中、愛知一中(旭丘)など限られており、受講生も少ない。こうした背景もあって、獨逸学協会中学からドイツ語受験組が大挙して一高医科に進んだのである。

一高第三部の入試は難関だった。しかし、この時代、医師になることに今ほどステイタスはなかった。そして事実上、ドイツ語必須だったので入学希望者が限られていた――等々を考えれば、東大理三のような最難関というわけではないだろう。

■麻布・開成は公立の「滑り止め」の時代に

1910年をすぎるころ、経済状況の悪化によって、私立中学の経営が逼迫(ひっぱく)する。倒産した学校もある。生き残るためには、財源を学費に求めるしかない。多くの私立中学は学費値上げに踏み切らざるを得なかった。

18年、第二次高等学校令の公布によって、旧制高校は文科、理科に分けられるなど、その性格を変えていく。一高の第三部(医科、薬科)は理科となり、ドイツ語受験枠がなくなったことで、獨逸学協会中学校からの合格者が減少した。

1917年→1925年の変化
「第二次高等学校令の公布」(1918年)によってランキングから外れた独協(出典=『改訂版 東大合格高校盛衰史』より)

この時代、高学歴を望む層が拡がり中学校への進学熱が高まったことに対応するため、各地で公立中学が次々と誕生している。

東京府では、19年府立第五中学校(小石川中等教育)、22年六中(新宿)、七中(墨田川)、23年八中(小山台)、28年九中(北園)、36年十中(西)と続き、43年までに二十三中(大森)まで作られた。

元号が大正から昭和に変わろうとしていたころ、受験生は学費が高くなった私立を敬遠して府立を選ぶという傾向が強まった。東京は私高公低から公高私低に逆転してしまう。

学費が安い公立が増えたことで、私立は優秀な生徒を奪われてしまう。当時の中学入試は3つの時期に分かれていた。たとえば受験生は第1期で公立、第2期が麻布、開成などの私立、第3期でその他私立を受けた。麻布、開成は一中、四中受験に失敗した生徒が入った。

■第一神戸中(神戸高校)から130人も入学

1934~42年の一高入学者累計をみると、第一神戸中学(神戸高)130人、大阪府立北野中学(北野)20人、京都府立第一中学(洛北)20人、京都一中、北野中は地元の第三高等学校(現、京都大学)に多く進学したのに対し、第一神戸中学は三高よりも一高という意識が強かったようだ。なぜだろうか。

神戸には芦屋や六甲在住の裕福な家庭が多く、子供を東京へ送り出せるだけの経済的余裕があった。一高に通う第一神戸中学出身者が後輩を次々に呼び寄せた、などの背景が考えられる。

「旧制一高」の旧制中学合格者ランキング(1934年~1942年累計)
出典=『改訂版 東大合格高校盛衰史』より

■高知県だけ私立が強いワケ

都道府県内の一高入学者トップ校をみると、その地域でもっとも古い「一中」格の公立旧制中学の名前が並ぶ。たった1つだけ、私立が強い地域があった。高知県である。土佐中学(土佐)が高知城東中学(高知追手前)を上回っている。今に続く高知県の私立優位の根っこは、旧制中学時代から地中に深く張られていたのである。

戦争中、一高の入試は中断されることはなかった。43~45年、敗戦色が濃厚になっても、国にとっては優秀な指導者を育成したいという思いが強かったのだろう。入試だけは強行したのである。受験生は時代に敏感である。

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小林 哲夫(こばやし・てつお)
教育ジャーナリスト
1960年生まれ。神奈川県出身。95年から『大学ランキング』編集を担当。著書に『東大合格高校盛衰史』(光文社新書)、『高校紛争 1969―1970』(中公新書)、『中学・高校・大学 最新学校マップ』(河出書房新社)、『学校制服とは何か』(朝日新書)、『神童は大人になってどうなったのか』(太田出版)、『女子学生はどう闘ってきたのか』(サイゾー)、『「旧制第一中学」の面目 全国47高校を秘蔵データで読む』(NHK出版新書)などがある。

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(教育ジャーナリスト 小林 哲夫)

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