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「男性の平均寿命が50代まで落ちたあの時代に戻るくらいなら…」プーチンがロシア国民から支持される理由

プレジデントオンライン / 2023年3月12日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Srdjanns74

大きな反発がありながらも、プーチンが大統領に返り咲いたのはなぜなのか。朝日新聞元モスクワ支局長の副島英樹さんは『屈辱の90年代』を恐れたロシア国民が『自由』を制限されても『安定』の方を優先し、それがプーチン支持の基盤になっている」という――。

※本稿は、副島英樹『ウクライナ戦争は問いかける NATO東方拡大・核・広島』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。

■ロシアの「屈辱の90年代」

ソ連末期のペレストロイカ(改革)からソ連崩壊を経て、混乱する社会経済状況を引き継いだ新生ロシアのエリツィン大統領は、民主化の号令のもと、「ショック療法」と言われた急進的市場改革を進めた。それが「オルガルヒ」という新興財閥の台頭を招き、その影響力は政治をゆがめていく。

医療費や教育費、家賃などの負担がのしかかるようになった庶民は「弱肉強食の資本主義」を味わわされ、デノミ、給与遅配・未払い、汚職の蔓延などの苦境にさらされ、惨(みじ)めな思いを体験した。混乱を抑えきれなかったエリツィン氏は99年末の辞任演説で、「明るい未来には一挙には行けなかった」と国民にわびることになる。これが「混乱の90年代」や「屈辱の90年代」と呼ばれる時代だ。

日本では長期政権を築いた安倍晋三元首相がしばしば、かつての民主党政権時代を指して「あの時代に戻りたいのか」と言っていたが、プーチン氏もよく「あの時代に戻りたいのか」と口にした。それの意味するのが「屈辱の90年代」である。ロシア国民が「自由」を制限されても「安定」の方を優先し、それがプーチン支持の基盤になっていると言われるのは、この「屈辱の90年代」を恐れるが故なのだ。

■硬くて食べられない肉や白菜

その90年代のロシアに私もいた。会社派遣の語学留学で96年8月から97年8月まで、モスクワ大学付属の語学センターでロシア語を学んだ。大学の教室は机も椅子も雑然とし、トイレは汚れて便座はなく、建物の10階ぐらいでも旧ソ連製のエレベーターを待つよりは階段で降りる方が早かった。

モスクワ大学の寮はトイレもシャワーも共用だったが、突然の断水や、冬場にシャワーの途中で温水が出なくなることも多々あった。寮の食堂の肉があまりに硬く、アルミ製のフォークが曲がってしまったこともある。

露店で緑の野菜を見つけたら、そのとき買っておかないと後で後悔したものだ。ただ、冬場に露店で白菜を見つけ、すっかり凍っていたが鍋で煮れば大丈夫だろうと思って買って帰ると、煮ても硬くて食べられなかった思い出がある。

地下鉄の出口には、古着や花を手にしたおばさんたちが物売りのためにずらりと並んでいた。子どもから老人まで、街には物乞いがあふれていた。

化粧をしている女性は少なく、ジャージ姿の女性が目立った。売春をしないと生きていけない境遇の女性も大勢いた。旧ソ連型ホテルの従業員も警備の警官も売春システムの一部に組み込まれていた。大学の教授は職にあぶれ、“白タク”の運転手で日銭を稼ぐしかない。給与遅配の警官たちは家族を養うため、頻繁な“ネズミ捕り”に繰り出し、袖の下を受け取って糊口をしのいだ。

■暴漢に襲われたモスクワ支局員時代

99年4月から2001年8月まではモスクワ支局員として赴任したが、似たような状況は続き、治安も安定しなかった。

零下20度近い雪のモスクワで01年2月の夜中、支局での夜勤を終えて徒歩で帰宅途中、私は暴漢に襲われ大けがをした。気を失い、金を奪われた。財布からドルだけが抜かれ、ルーブルは残っていた。治療で1カ月仕事を休み、多くの人に迷惑をかけることになった。ロシアのある新聞は、支局が入った建物の駐車場に積もった雪の上に、АСАХИ(朝日)の文字と髑髏(どくろ)マークが描かれている写真を掲載し、ネオナチの犯行を匂わせる事件記事を1面で大きく報じた。

モスクワの日本人社会に動揺が走った。その後しばらくして、その絵柄はカメラマン本人が描いていたことが判明し、新聞社に抗議を申し入れる出来事もあった。

この事件で私が入院していたときのことだ。若い捜査員が犯人のモンタージュを作りにパソコンを持って病室にやって来た。かすかな記憶を頼りに、パソコンに入力されている様々な髪形やあご、耳、口、目の中から一番近いものを選び、組み合わせていく。パソコンを起動させて間もなくすると、画面に縦線が入って動かなくなった。「パソコンが古い。部署に2台しかない。資金不足で新品は買えないのです」と捜査員はぼやいた。文字盤パネルを外し、ナイフで配線をいじり、パソコンの下に本を挟んで斜めに立てたりしていると再び動き出した。

年代物のパソコンと周辺機器の数々
写真=iStock.com/vasiliki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/vasiliki

■混乱した社会を生き抜くロシアの人々

財政難→捜査不十分→検挙率低下→犯罪多発→財政不足(財政難)、の悪循環を思った。できあがったモンタージュは、まぶたに残る犯人像とは似ても似つかない。検挙など絶望と悟る。被害調書が仕上がると、捜査はそれで終わりという感じだった。

「もうロシアは嫌になっただろう?」と現地の日本人から何度か尋ねられた。その度に、ぽんこつパソコンと悪戦苦闘する捜査員や、目を真っ赤にして革ジャンの血のりをふき取ってくれたお手伝いさんや、「ロシア人として恥ずかしい」と謝ってくれた医師たちの顔が浮かんだ。この混乱した社会を生き抜かなければならないロシアの人々を、私はとても憎めなかった。ロシアの文豪トルストイやドストエフスキーの世界を見ているような感覚さえ覚えた。

■プーチン再登板の衝撃

ここまで振り返ってきたのはエリツィン政権からプーチン政権初期にかけての時代だが、それから10年以上が経ち、プーチン氏が首相としてメドベージェフ大統領と「双頭体制」を組んでいたとき、ロシアの将来にとっての大きな分岐点が訪れる。

2011年9月24日にモスクワで開かれた政権与党「統一ロシア」の党大会だ。党首を務めるプーチン首相がこの場で、12年3月の次期大統領選に立候補する考えを表明したのである。実権を握るプーチン氏に有力な対立候補は見あたらず、かつて00年5月から08年5月まで2期8年務めた大統領に返り咲くのは確実な情勢だった。

土産物屋に並ぶ、プーチン大統領がプリントされたマグカップ
写真=iStock.com/Cylonphoto
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Cylonphoto

■世界の政治地図が大きく変わる予感…

12年にはロシアだけでなく、米国やフランスでも大統領選があり、中国でも最高指導者が交代する。プーチン氏の再登板で世界の政治地図が大きく変わる予感がした。このため、11年9月24日の党大会で「プーチン大統領復帰」の方針が決まれば大きく報じる必要があると考え、モスクワ支局員の関根和弘記者と予定原稿を3本用意して備えた。党大会が開かれるのは日本時間の夜であるため、決まればすぐに原稿を出さなければならないからだ。

復帰の方針が明らかになると、1面、総合面、国際面それぞれの原稿を手直しして送り、東京の編集局にこのニュースが持つ意味合いの重要性を説明した。降版前の大刷りでは1面3番手の扱いだったが、最終的には「プーチン氏、大統領復帰へ」の見出しで1面トップを飾った。東京の編集局は的確な価値判断を共有してくれたと思っている。

この1面本記の記事は「元情報機関員で『強いロシア』を掲げたプーチン氏には、統治手法や人権問題での批判が欧米に根強い」との表現で締めた。当時、将来への漠然とした不安を感じ、胸騒ぎがしたのを覚えている。米国やNATOへの強い恨みを忘れていないプーチン氏が、再び表舞台に出てくるのだ。2022年についに火を噴くウクライナ戦争は、このときに火種が宿ったように思えてならない。まさしく長期政権の弊害である。

■「自由の代わりに安定をもたらす」プーチン体制

プーチン氏復帰への反発は、ロシア国内でも巻き起こった。下院選挙のあった12月にはソ連崩壊後20年で最大規模の数万人が集会に集った。今まで抗議行動をしたことがなかった市民たちが街頭に出たのだ。

その当時、「20歳のロシア プーチン再び」という企画でデモの様子を記事にした。

このデモは、1990年代の混乱を「自由の代わりに安定をもたらす」という図式で立て直したプーチン体制に、「我々の声を尊重しろ」と市民が立ち上がったものだった。もともとは野党勢力が呼びかけた集会だったが、主役は普通の市民たちだった。下院選では政権批判票として共産党や中道左派「公正ロシア」へ投票した層だ。中道の政権与党「統一ロシア」と民族右派、さらに左派系という現行のロシア政治の勢力図からはこぼれ落ちる、「行き場のない有権者層」だった。大規模集会を許可した当局も、民意の動きを感じ取っていた。

「プーチン出ていけ」の横断幕を手に持つ女性
写真=iStock.com/danr13
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/danr13

■民主的な政治を求める中流層

成熟社会の基盤である中流層は、安定した暮らしのもとで民主的な政治を求める。政治学者のラジホフスキー氏は「中流クラスは2000年代の原油高騰期に生まれた。そしていま、政治的に物言う時が来た」と指摘した。こうした中流層は、ロシア国営保険会社の調査では17%とされたが、都市部では3割に達しているとする専門家もいた。欧米では「中流の崩壊」で街頭デモが起き、ロシアでは中流の形成でデモが起きていたのである。

ただし、ロシアはユーラシア大陸に広がる多民族国家だ。中流が育つ都市部と、なお「安定」が優先される地方とでは、地殻変動に時間差があった。集会があった12月10日と翌11日に全ロシア世論調査センターが実施した調査では、大統領選での投票先はプーチン氏が42%。2位のゲンナジー・ジュガノフ共産党委員長の11%を大きく引き離していた。

■返り咲いたプーチン

12年3月4日の大統領選挙を前にした2月23日の「祖国防衛者の日」には、プーチン支持の集会に数万人が集まった。「90年代に戻りたくない」と書いたプラカードが掲げられ、参加した女性のひとりは「(多民族国家ロシアで)プーチンさんはどの民族も国民として平等と言っている。私が支持する理由です」などと話した。そして、大統領選の結果はプーチン氏が第1回投票で約64%を獲得し、返り咲きを果たした。

■続く反プーチンの大規模デモ

しかし、反プーチンの大規模デモは5月の大統領復帰後も続いた。12年6月12日の祝日「ロシアの日」(国家主権宣言採択の記念日)には、野党勢力がモスクワ中心部で反政権のデモ行進と集会を催し、警察発表では約1万8千人、主催者発表では5万人以上にのぼった。このとき、デモ行進を取材していた私は、参加者が掲げる1枚のプラカードを写真に収めた。

「(集会を取り締まる)集会法はファシズム国家への道だ」という表記の下に、5人の見慣れた顔写真が並んでいる。ヒトラー、ムッソリーニ、スターリン、ベリヤ、そしてプーチンだ。このデモからちょうど10年後、プーチン氏はウクライナ侵攻という市民を巻き込む暴挙に出て、キーウ近郊ブチャでの虐殺や原発占拠、ウクライナ東南部4州の併合強行など数々の非道行為で国際的非難を浴びているだけでなく、国内では欧米の制裁によって経済的苦境を強いられ、予備役動員による混乱や市民弾圧も重なり、ロシアを自壊の瀬戸際に自ら追いやっている。まさにこのプラカードは、10年後のプーチン氏を見通していたのかもしれない。

ただ、反プーチンのうねりが高まっても、支持の岩盤層が厳然としてあるように思えた。それはどういう人たちなのか。同じく「20歳のロシア プーチン再び」の企画で取材した。

■「安定への兆し」が受動的なプーチン支持へ

ソ連崩壊後の90年代、ロシア男性の平均寿命は一時、50歳代にまで落ち込んだ。2000年代のプーチン政権以降、ロシアは保健や教育、住宅、農業を優先的国家プロジェクトに掲げ、国民生活の向上をめざしてきた。11年11月、当時のタチヤナ・ゴリコワ保健社会発展相は「07〜11年で出生数は10%伸び、死亡数は8%減った」と報告。「この8月に人口の自然増を記録した。ソ連崩壊後、初めてだ」と述べている。こうした「安定への兆し」が、「90年代の屈辱を味わいたくない」という意識を刺激し、受動的なプーチン支持へと動いていた。

風にたなびくロシア国旗
写真=iStock.com/andDraw
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/andDraw

■身内を大切にするロシアの国民性

ロシア人にとってのこの「屈辱の90年代」に、まさにNATOの東方拡大が始まったのである。ソ連最後の最高指導者だったゴルバチョフ氏も、新生ロシア大統領のエリツィン氏も、NATO拡大に「ロシアが尊重されていない」という意識を持ち続けていた。敗者であることを自覚するよう強要されているとの意識が、ため込まれていったように見える。

副島英樹『ウクライナ戦争は問いかける NATO東方拡大・核・広島』(朝日新聞出版)
副島英樹『ウクライナ戦争は問いかける NATO東方拡大・核・広島』(朝日新聞出版)

通算8年にわたるロシアでの生活を通して、私にはロシアの人々の国民性のようなものを感じ取ることができた。他者(バーシ=あなたたち)には一見無愛想に見えるが、いったん身内(ナーシ=私たち)の領域に受け入れられると、精いっぱいの歓待をしてくれる。同時に、どんな苦しい境遇にあっても、人間関係は対等であるという矜持を感じた。「ウバジャーチ」される(尊敬される)ことに重い価値を置く国民性のように思えた。それを傷つけられたときに、思わぬリアクションに出るのだ。

「ロシアは頭では理解できない。信じるだけだ」とうたった詩人チュッチェフの詩を想起させるが、そうした特性を勘案した上で向き合っていく必要があると私は考えていた。「露助(ろすけ)」というヘイトの言葉が物語るように、欧米から蔑視されているのではないかという被害者意識が、ロシアの対外行動に反映されていったのだと思う。

相手を知ることの重要性は、何もロシアに限ったことではないだろう。相手を知ろうとすることは、戦争の芽を摘むことにもなる。戦争は人間の心から起こるからである。

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副島 英樹(そえじま・ひでき)
朝日新聞編集委員(核問題、国際関係)
1962年生まれ。広島支局(当時)、大阪社会部などを経て、プーチン政権誕生前後の99~2001年にモスクワ特派員として旧ソ連諸国を取材。2008年9月~13年3月にモスクワ支局長を務めた。同年4月に大阪本社に発足した「核と人類取材センター」初代事務局長に。2016年9月から広島総局長、2019年9月から編集委員。

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(朝日新聞編集委員(核問題、国際関係) 副島 英樹)

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