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なぜタモリはいつも楽しそうなのか…「オールナイトニッポン」から「タモリ倶楽部」まで続いた遊びの精神

プレジデントオンライン / 2023年3月16日 15時15分

タレントのタモリさんが2014年8月28日、東京都内で行われた缶コーヒーの新CM発表会に登場。 - 写真=時事通信フォト

司会者・タモリはどこがすごいのか。社会学者の太田省一さんは「その根底にはパロディ精神がある。モノマネでも、著名人の声色を真似るだけでなく、その人の言いそうなことまで模写してしまう。だからマニアックな趣味やきわどい社会風刺でも、誰もが笑える内容になる」という――。

■深夜放送の概念を根底から変えた「オールナイトニッポン」

先日、ニッポン放送の深夜放送「オールナイトニッポン」55周年を記念して、ゆかりのパーソナリティ出演による55時間の特番が放送された。その豪華な顔ぶれのひとりとして登場したのが、タモリである。担当したのは1976年から1983年にかけての7年ほど。そこでこの機会に、現在のタモリの原点とも言えるこの番組を振り返ってみたい。

「オールナイトニッポン」公式ウェブサイトキャプチャ
「オールナイトニッポン」公式ウェブサイトより

オープニング曲「ビタースウィート・サンバ」もお馴染みの「オールナイトニッポン」は、1967年10月にスタート。それまで深夜ラジオと言えば、長距離トラックの運転手や看護師など夜通し働いているような、限られた人たち向けのものと思われていた。その常識を覆し、若者向けの音楽番組として生まれたのが「オールナイトニッポン」だった。ビートルズの日本公演が前年にあり、その影響でグループサウンズブームが巻き起こっていた頃である。

まず人気パーソナリティになったのは、糸居五郎、斉藤安弘、亀渕昭信などニッポン放送のアナウンサーたちだった。彼らは、音楽番組のDJであると同時に、リスナーの若者たちにとっての兄貴分的存在になっていく。ラジオというメディアの親密さ、加えて深夜という特別な時間帯が、パーソナリティをいっそう身近な存在にした。こうして「オールナイトニッポン」は、「若者の解放区」となった。

■ラジオスターの登場

1970年代に入ると、2部制が敷かれるようになる。それとともに、パーソナリティもアナウンサーからタレント中心に変わる。

そこには、パーソナリティのジャンルに大きく2つの流れがあった。ひとつは、吉田拓郎や泉谷しげるのようなミュージシャン。ラジオの深夜放送は、あまりテレビに出ないミュージシャンの素の魅力を知る貴重な機会になった。歌のイメージと素のしゃべりのギャップに誰もが驚いた中島みゆきなどは、「オールナイトニッポン」出演によってファン層を広げたひとりだろう。

もうひとつの流れは、あのねのね(彼らはミュージシャンでもあったが)や笑福亭鶴光のようなお笑い系のパーソナリティである。コミックソング「赤とんぼの唄」「魚屋のおっさんの唄」などをヒットさせたあのねのね、明るい下ネタで人気を博した鶴光は、ともに「オールナイトニッポン」が生んだスターだった。

タモリがパーソナリティになったのもその流れのなかでのことである。ただそれ以前に、タモリはすでに「オールナイトニッポン」出演を果たしていた。

■アグネス・チャンと話す謎の男の正体

漫画家・高信太郎の「オールナイトニッポン」でのこと。当時人気アイドル歌手だったアグネス・チャンがゲスト出演した。アグネス・チャンは香港出身。番組中にファンだという男性と電話をつないだ。しかし、その男性が話す中国語はでたらめもいいところ。

マイク
写真=iStock.com/Miljan Živković
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Miljan Živković

実はこの男性こそが、まだ大きく世に出る前のタモリであった。この仕掛けを考えた番組ディレクターが早稲田大学モダンジャズ研究会でタモリの1年先輩だったこともあり、これをきっかけにタモリは1976年10月から水曜1部のパーソナリティを務めることになる。31歳のときである。

この「でたらめ中国語」の一件が物語るように、始まった「タモリのオールナイトニッポン」でもタモリワールドが展開された。

人気紀行番組「すばらしい世界旅行」(日本テレビ系、1966年放送開始)のナレーションを担当していた久米明のモノマネもそのひとつ。しかもタモリの場合、単なる声帯模写ではなく、「この場面なら久米明はどうナレーションするか」という独創性のある芸だった。これは「思想模写」と呼ばれ、詩人・劇作家の寺山修司など同じようにネタにされた有名人は多かった。

■「思想のない音楽会」とは

過激なパロディという部分では、「つぎはぎニュース」というのがあった。これは、実際のNHKのニュースを編集して意味不明の内容に改変したものがリスナーから投稿され、それを番組で流すというもの。

たとえば、交通事故のニュースのはずが、車を運転していたのがなぜか大根で、助手席に乗っていたのがネギ1束という奇妙な話にいつの間にかなっている。

編集技術も見事なものが多く、ちょっと現代アートにも通じる音のパッチワークだ。大いに盛り上がったが、数カ月やったところでコーナーの存在を知ったNHKからクレームが来て終了した。

また、ナンセンスなものへの偏愛も、タモリワールドの欠かせない部分だ。「つぎはぎニュース」にもその要素はあったが、代表的なのは「思想のない音楽会」だろう。

このコーナーは、まったく思想の感じられない曲を番組で流すというもの。当時タモリは、フォークやニューミュージックにある「暗い曲」を変に深刻ぶったものとして鋭く批判していた。それに対抗して、ナンセンスの域にまで達した極め付きの明るい曲を発掘しようというのが、この「思想のない音楽会」だった。

往年の歌う映画スター、高田浩吉の「白鷺三味線」(1954年発売)はそのひとつ。高田の存在は若者に知名度があるとは言えなかったが、タモリが突き抜けて明るく意味のない歌詞を激賞し、リバイバルヒットするに至った。一方無名のタレント・さいたまんぞうが出した自主制作盤「なぜか埼玉」(1981年発売)も同じくこのコーナーで評判となってメジャーデビューとなり、有線などをメインにヒットした。

■2時間「ソバヤ」を歌い続ける

「タモリのオールナイトニッポン」と言えば、タモリが自ら作詞した「ソバヤ」も懐かしい。元々は、タモリのアルバム『TAMORI』(1977年発売)に収められたものである。

アフリカの民族音楽のパロディで、タモリによる動物の鳴き真似から始まり、意味不明の歌詞をタモリが歌い出す。

そこに「ソバヤ ソバ~ヤ」という合唱の合いの手が入る。ただ、時々「フロヤノニカイデ」(風呂屋の2階で)のような日本語として聞き取れるフレーズもさりげなく挟まれたりして笑ってしまう。

要するに、タモリ得意のでたらめ外国語と「空耳」を合体させたものである。

この「ソバヤ」は、「タモリのオールナイトニッポン」のエンディングに使われていた。また4時間生中継の特番があったときなどは、ジャズの山下洋輔トリオに渡辺貞夫、さらに平尾昌晃も加わるなか、後半の2時間「ソバヤ」をその場の全員で歌い続けるという、狂乱とでも言うしかない出来事もあった(片田直久『タモリ伝』、85ページ)。

ラジオ番組において音楽セッションで盛り上がるケースはほかにもないわけではない。むしろラジオの定番でもあるだろう。だがこの場合は、パロディであるにもかかわらず、みんなで盛り上がれるちゃんとした楽曲になっているところに、音楽通でもありパロディの達人でもあるタモリの真骨頂がある。

■「なんでも遊びにしてしまおう」という精神

そのようになんでも盛り上がってしまうところは、大学のサークル的なノリだったと言ってもいい。先ほど「タモリのオールナイトニッポン」の初代ディレクターが早稲田のモダンジャズ研究会の先輩だったことにふれたが、番組全体の醸し出す雰囲気も大学のサークルのそれに似ていた。

同じことは、番組のイベントとして企画された「中洲産業大学夏期講座」などにも感じられる。赤塚不二夫や山下洋輔などを講師に招いて催された講座で、300人の定員に対して約2万5000人もの応募があったという(同書、85ページ)。「中洲産業大学」は架空の大学で、当時タモリがその大学の教授という設定でよくネタを披露していた。

つまり、こちらは大学そのものをパロディにしてしまおうというわけである。そして世の若者は、やはりパロディであると知りつつそれに乗っかり、タモリとともに盛り上がろうとするようになっていた。

このように「なんでも遊びにしてしまおう」という精神こそが、「タモリのオールナイトニッポン」をずっと貫いていたものだった。

■ずっと遊んでいる司会者

そして1980年代には、テレビにも同じ精神が一気に浸透するようになる。1980年代初頭の爆発的な漫才ブームが端緒となった。そこからテレビの中心は笑いになり、バラエティ番組がテレビを牽引(けんいん)するようになっていく。

そして1982年、タモリもお昼の帯バラエティ「森田一義アワー 笑っていいとも!」(フジテレビ系)のMCに抜擢され、ビートたけし、明石家さんまとともにテレビの中心を担うひとりとなっていく。

テレビで遊ぶという点では、もちろん「いいとも!」もそうである。てきぱきと仕切ることなどにまったく興味のなさそうなタモリの司会は、いわばずっと遊んでいる司会だった。それが、32年間番組が続いた秘訣(ひけつ)でもあっただろう。

■いまのバラエティ番組に受け継がれたもの

ただ、タモリらしいパロディや趣味的なノリという点では、1981年に始まったタモリがメインのバラエティショー「今夜は最高!」(日本テレビ系)や「いいとも!」とほぼ同時に始まった「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系)のほうが顕著だった。

テレビ朝日「タモリ倶楽部」公式ウェブサイトキャプチャ
テレビ朝日「タモリ倶楽部」公式ウェブサイトより

特に「タモリ倶楽部」では深夜ならではの自由さもあって、タモリも演じた「ドラマシリーズ 男と女のメロドラマ 愛のさざなみ」というメロドラマのパロディ、さらにはタモリの趣味を生かした鉄道企画、あるいは昭和歌謡の発掘企画など、マニアックかつ知的な「タモリのオールナイトニッポン」のテイストがより色濃く引き継がれた。

現在のバラエティ番組を見ても、こうしたテイストが深夜か否かを問わず定番化していることは言うまでもないだろう。

とりわけ、世のオタク化の波もあって、マニアックな趣味ネタはバラエティに欠かせないものになっている。たとえば、トークバラエティ番組「アメトーーク!」(テレビ朝日系、2003年放送開始)でも「鉄道芸人」のような企画が成立するのは「タモリ倶楽部」が切り拓いた道があるからだと思えるし、タモリ自身もまた街ブラ教養番組「ブラタモリ」(NHK、2008年放送開始)でまだまだその方面での主役だ。

ナンセンスやパロディという点では、テレビ番組ではなくネットになるが、ロバート・秋山竜次がさまざまなジャンルの架空のクリエイターになりきる「ロバート秋山のクリエイターズ・ファイル」などに、タモリの「思想模写」にも通じるものが感じられる。もちろん「空耳アワー」をはじめ、「タモリ倶楽部」の企画のほうもまったく古びてはいない。

こうして振り返ってみても、3月末での終了が決まっている「タモリ倶楽部」、そしてその原点とも言える「タモリのオールナイトニッポン」のことは、ともに放送史に残る番組としていつまでも記憶にとどめておくべきに違いない。

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太田 省一(おおた・しょういち)
社会学者
1960年生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程単位取得満期退学。テレビと戦後日本、お笑い、アイドルなど、メディアと社会・文化の関係をテーマに執筆活動を展開。著書に『社会は笑う』『ニッポン男性アイドル史』(以上、青弓社ライブラリー)、『紅白歌合戦と日本人』(筑摩選書)、『SMAPと平成ニッポン』(光文社新書)、『芸人最強社会ニッポン』(朝日新書)、『攻めてるテレ東、愛されるテレ東』(東京大学出版会)、『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(ちくま新書)、『21世紀 テレ東番組 ベスト100』(星海社新書)などがある。

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(社会学者 太田 省一)

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