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ソニーの歴史で最大のミステリー…6700億円を投じて「コロンビア映画」を買収した本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年3月17日 13時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/hapabapa

ソニーは1989年に48億ドル(当時6700億円)でアメリカのコロンビア映画を買収した。「ソニーの歴史で最大のミステリー」という買収は、なぜ実施されたのか。当時、ソニーの経営戦略本部長として買収劇の事務方を務めた郡山史郎さんは「買収の本当の目的は、アメリカの政財界との交流を深めるためだった」という――。

※本稿は、郡山史郎『井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(青春新書インテリジェンス)の一部を再編集したものです。

■「アメリカの魂を買いあさっている」と非難された

ソニーがコロンビア映画を買収したのは1989年9月のことだ。日本のバブル景気が真っ盛りの頃で、あとを追うように日本企業はアメリカの映画会社を買収するようになる。松下電器、日本ビクター、パイオニア、東芝、商社などがハリウッドに大金を投じた。

三菱地所がマンハッタンのロックフェラー・センターを所有したのと並んで、「日本企業がアメリカの魂を買いあさっている」と非難され、ジャパン・バッシングにつながった。「ソニーのコロンビア買収は暴挙だ」と非難したのはアメリカ社会やマスコミだけではない。社内でも反対の声は大きかった。

48億ドル(当時6700億円)も出して買収する値打ちはない、素人のソニーが映画ビジネスで儲けられるはずがない、アメリカ国民を敵に回してほかの製品が売れなくなったらどうする……とあちこちから批判された。同じコンテンツビジネスでも、1968年に米CBS社との合弁でCBS・ソニーレコードを設立したのとは意義も金額もまるで違う。音楽のように利益につなげられる保証はまるでなかった。

なぜ、ソニーはコロンビア映画を買収したのか?

当時から疑問視する声は多く、いまだに「ソニーの歴史で最大のミステリー」と紹介されることもある。のちに出版されたソニー本を読んでも、的を射た解説はほとんどない。「ハードとソフトがビジネスの両輪になる」といった説明は建前に過ぎない。実は、あの買収劇の事務方を担当したのは私だ。経営戦略本部の本部長として実務にあたった。

■知名度はあっても仲間外れにされていた

私はコロンビア買収を指示されたとき、盛田さんのこんな話を思い出した。

「わしは五番街に長年住んできたが、政治家や財界人が集まる地元のパーティーには呼ばれたことがない。ソニーはまだ、アメリカでは一流企業と認められていないんだ」

五番街
写真=iStock.com/AlexandreFagundes
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/AlexandreFagundes

ソニー製品は、アメリカ市場ですでに30年の歴史があった。60年に現地法人を設立し、70年に日本企業ではじめてニューヨーク証券取引所に上場した。盛田さんは五番街の高級アパートに住み、アメリカの財界に広い人脈があり、「ソニーのモリタ」は有名人だった。日本のビジネスマンではトップの知名度だったはずだ。

ところが、政財界のパーティーに呼ばれたことがなかった。ニューヨークの財界人は、例えばメトロポリタン美術館を借り切って盛大なパーティーを開く。政財界のVIPが一堂に会する場に盛田さんは呼ばれたことがなかったのだ。つまり、ビジネスの付き合いはあっても、まだ仲間と認められていなかったと言える。

現地のコミュニティーには、経済力だけでは入れてもらえない。アラブの石油王であろうとパーティーに呼ばれないのだ。盛田さんがいくら努力しても、仲間入りはできなかった。

■パーティーへの参加は外交術の一環だった

「ただ、ひとつ方法はある。それはハリウッド女優を連れていくことだ」

妻がハリウッド女優なら、パーティーに呼ばれるというのだ。たとえ本人が小者でも、夫婦同伴だからハリウッド女優を連れてくる。目当ては、本人ではなく奥さんなのだ。とはいえ、妻帯者の盛田さんはハリウッド女優と結婚できない。それならば映画会社のオーナーになればいい、ということだ。

「モリタを呼べば、ハリウッド女優を連れてくるぞ」と評判になれば、あちこちのパーティーに呼ばれるという目論見だった。映画会社は、アメリカ社会では特別な存在だ。映画はアメリカ発祥の産業であり、アメリカ文化そのものという誇りがある。自動車や電気製品とは位置づけが違う。だから買収後に、「アメリカの魂を買いやがって」と攻撃されたのだ。

もちろん盛田さんは、ミーハーな気持ちでパーティーに参加したいのでも、仲間外れが嫌だったわけでもない。ソニーをアメリカのインサイダー(身内)にしたかったのだ。また、インサイダーになれば、ソニーはアメリカの人々の反日感情をやわらげることもできる。素晴らしい外交術である。

■派手な振る舞いはビジネスのため

盛田昭夫は、日本人には珍しい国際派ビジネスマンと評された。

盛田昭夫
1983年10月、盛田昭夫 ソニー会長(当時)(写真=時事通信フォト)

71年にアメリカの週刊誌『タイム』の表紙を飾り、88年にはシンディ・ローパーとハグする写真が『ニューヨーク・タイムズ』の表紙を飾った。マイケル・ジャクソンとは「先生」と慕われるほど親しかった。

盛田さんの英語は決して流暢ではなかった。それでも、押し出しがよくて内容がおもしろいからみんな耳を傾ける。スピーチやプレゼンテーションの専門家からレッスンを受けていたようだ。しかし盛田さん自身は、あまり派手な社交が好きではなかった。私が知る限り、ふだんはどちらかといえば地味な暮らしぶりだった。

盛田さんの実家は、愛知で江戸初期から続く造り酒屋で、長男の盛田さんは第15代当主でもあった。私が外国人のお客様と盛田さんのお宅にうかがったとき、食事は一人ずつお膳で運ばれてきた。奥さんの良子さんは同席しない。盛田さんは和服で床の間を背に座っている。まるで時代劇のようだった。

国際人としての派手な振る舞いは、すべて必要だからやっていたことだ。アメリカが誇る映画会社のオーナーになり、政財界のコミュニティーに仲間入りできたら、人脈、情報その他でビジネス上のメリットは計り知れない。

■優秀な人材が続々とソニーに集まってきた

コロンビア買収後は、盛田さんが期待していた通りになった。ソニーはアメリカの一流企業と認められ、盛田さんもファウンダー(創業者)の立場でずいぶん株をあげた。財界人のパーティーに招かれただけでなく、ホワイトハウスからも式典の招待状が届くようになったのだ。私が考えてもみなかった副産物もあった。

ソニーのアメリカ法人の採用で、優秀な人材が集まるようになったのだ。それまではハーバード大学やマサチューセッツ工科大学などの卒業生はいなかったのに、名門大学の出身者がぞろぞろと入社してくるようになった。やはりアメリカの魂である映画会社を傘下に持つ企業という評価が大きかったに違いない。

名門企業のブランドは、お金だけでは買えない。アメリカ社会に溶け込むためには、ハリウッドでオーナーの一員になるのが近道であると判断した盛田さんは正しかった。

コロンビア映画の買収は、映画ビジネスで儲けるのが「目的」ではなく、アメリカでソニーのプレゼンスを高めるための「手段」といってもよかった。しかし私は、社内の人から「コロンビア映画を買って何がやりたいんだ?」と質問されて、「ハードとソフトの両立」と通り一遍の返事しかできなかった。

もちろん盛田さんも、コロンビア映画の作品がヒットすることは望んでいただろう。しかし、それは「目的」ではなかった。

■「わしも保険をやって、お金を集めたいな」

ソニーが生命保険、銀行などの金融ビジネスに参入したのも、盛田さんにとって必要な「手段」だった。

ソニーは1979年、米プルデンシャル生命保険との合弁会社を設立して金融ビジネスをスタートした。現在のソニー生命保険である。2001年には、ネット専業のソニー銀行を設立している。盛田さんは、早くから金融ビジネスに目を向けていた。

「本当は最初から銀行をやりたかった」という話もあるが、私は60年代に盛田さんが保険ビジネスに興味を持っていたことを知っている。アメリカで盛田さんと一緒に動き回っていた頃、二人でコーヒーを飲みながら休憩していた。すると盛田さんが、ビル街を見回しながらつぶやいた。

「どこへ行っても、一番でかくてきれいなビルは保険会社だね。わしも保険をやって、お金を集めたいな」

私たちは業務用ビデオ機器を販売するため、あちこちの会社にセールスで回っている最中だった。テープレコーダーやビデオのメーカーが保険をはじめるなんて「突拍子もないことを言うもんだ」と思って聞いていた。ソニーが生命保険のビジネスをはじめると知ったのは、シンガーにいるときだった。「盛田さんはあのとき話していたことを本当に実行するのか」と驚いた。

■経営状況が厳しくても画期的な本社ビルを建てた

ソニーの設立時から、井深さんの思いを実現するために盛田さんが一番苦労したのは、資金繰りと知名度だった。

ソニーらしい製品を開発して販売するにはキャッシュが必要であり、ソニーのブランド力がなければ製品を買ってもらえない。とくにお金の面では、倒産が心配されるほどの危機が何度かあり、かなり苦労したようだ。

郡山史郎『井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(青春新書インテリジェンス)
郡山史郎『井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(青春新書インテリジェンス)

盛田さんは経理、財務が得意だったわけではない。ソニーには、実家の酒造会社からきた優秀な経理マンたちがいた。設立時にお父さんが「資金繰りに苦労するだろうから」と信頼できる番頭さんたちを送ってくれたのだ。父である14代当主の久左衛門さんは、知多半島の小鈴谷から名古屋に進出し、資金繰りや販路開拓に苦労したらしい。お金の苦労を知っているから、設立したばかりのソニーに優秀な番頭さんを派遣してくれたのだろう。

ソニーがお金で苦労した時代に、資金面でも援助を受け、盛田さんの実家がソニーの筆頭株主だった時期もある。銀座五丁目に「ソニービル」を建てたときも、一時的に経営状況が厳しくなった。1966年のオープン当初、ソニービルは話題を集め、ソニーのブランドを高めるうえで大きく貢献した。

モダニズム建築、日本一速いエレベーター、外壁に2300個のブラウン管をはめた電光掲示などで銀座の新しい観光名所となったのだ。知名度の高さは販売力につながり、知名度を高めるにはお金が必要となる。目的のために、あらゆる手段を講じるのが盛田さんだった。

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郡山 史郎(こおりやま・しろう)
CEAFOM社長
1935年生まれ。一橋大学経済学部卒業後、伊藤忠商事を経て、1959年ソニー入社。1973年米国のシンガー社に転職後、1981年ソニーに再入社、1985年取締役、1990年常務取締役、1995年ソニーPCL社長、2000年同社会長、2002年ソニー顧問を歴任。2004年、プロ経営幹部の派遣・紹介をおこなう株式会社CEAFOMを設立し、代表取締役に就任。人材紹介のプロとして、これまでに3000人以上の転職・再就職をサポート。著書に『定年前後の「やってはいけない」』『定年前後「これだけ」やればいい』『井深大と盛田昭夫 仕事と人生を切り拓く力』(いずれも青春新書)などがある。

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(CEAFOM社長 郡山 史郎)

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