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現在の皇居はかつての江戸城のほんの一部…徳川家康の江戸改造が「史上最大の土木工事」と呼ばれる理由

プレジデントオンライン / 2023年3月20日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/golaizola

徳川家康が築き、江戸幕府の本拠となった江戸城はどんな姿だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「天守の高さは木造建築としては日本最大で、城郭面積は他の城とは比較にならない大きさだった。現在の皇居は、かつての江戸城のほんの一部に過ぎない」という――。

■江戸城の中心部は名古屋城の約20倍の大きさ

東京がかつて江戸だったことも、江戸の町の礎を築いたのが徳川家康だということも、知らない人はあまりいない。しかし、その中心に構えられていた江戸城がどんな城で、どのくらいの規模であったか、ということになると、案外知らない人が多い。

江戸城は現在の皇居の敷地内にあったと思っている人がいる。たしかに、明治天皇がかつての江戸城に入城し、以後、皇居とされたわけだから、あながち外れともいえないが、しかし、皇居になっているのは江戸城の全体ではない。

宮内庁が管理する皇居の敷地面積は、115万平方メートルとかなり広いが、かつての江戸城の内郭は420万平方メートル以上の広さがあった。

ちなみに、ほかの城の内郭は、相当に広大な城でも、姫路城が23万平方メートル、熊本城が20万平方メートル、徳川御三家筆頭の尾張藩の居城だった名古屋城でも35万平方メートルなど。江戸城がいかに桁外れの広さだったかがわかるだろう。

■日本史上最大の城

しかし、それで驚いてはいけない。外郭をふくめると、その広さは2000万平方メートルを超えるのだ。そういってもピンと来ないかもしれないが、外郭の周囲がおよそ15.7キロにもなるといえば、大雑把には広さが実感できるのではないだろうか。

外郭とは外堀の内側で、外堀にはかつて「三十六見附」と呼ばれる門が設けられていた。見附とは交通の要所に置かれた番兵による見張り所のことで、江戸城では門それ自体を見附と呼んでいた。

その見附はどこにあったのか。いくつか地名を挙げると、浅草橋、万世橋、水道橋、飯田橋、市ヶ谷、四谷、赤坂見附、溜池、虎ノ門、御成門……。

東京を知っている人ならわかると思うが、同じ城の門があったとはとても思えないほど、広範囲におよんでいる。江戸城の広大さが実感できるだろう。そして、その内側はどこも、かつては城内だったのである。

では、外堀とはどのくらいの規模だったのか。JR中央線で四ツ谷方面から御茶ノ水方面に向かうと、市ヶ谷と飯田橋のあいだは左手に広大な池があり、右手は斜面になっている。これがどういうシチュエーションかというと、左手の水辺は外堀、右手の斜面は外堀の土塁で、要するに中央線は外堀のなかを、その一部を埋めて走っているのだ。

中央・総武線各駅停車、飯田橋~市ヶ谷間で撮影。外堀の桜が開花。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)
桜の名所のひとつでもある外堀。右側は外堀の土塁だ。(写真=CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

また、御茶ノ水駅は、深い渓谷の途中に設置され、はるか下を神田川が流れているが、この川は江戸城の北側の守りを固め、かつ神田方面の洪水を防ぐために、台地を人力で切り裂いて通した人口の外堀なのだ。

■決して僻地への左遷ではない

徳川家康が駿府(静岡)から江戸に移ったのは天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めで、関東に君臨していた北条氏が滅んだのちのことだ。

それまで駿河(静岡県東部)、遠江(静岡県西部)、三河(愛知県東部)、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)の5カ国を治めていた家康は、論功行賞として、伊豆を追加してもらえると思っていたフシがあるが、現実には、北条氏の旧領である関東への移封だった。

石高こそ増えたものの、事実上の左遷だった。しかし、当時の江戸は、かつていわれていたような辺鄙な漁村ではなかった。関東はもちろん東北南部からも人とモノが集まり、伊勢湾など西方とのあいだの海運も盛んで、水運、海運、陸運の要衝だったのだ。

だから、秀吉は畿内から遠い関東に家康を封じ込めると同時に、交通の要衝を固めさせ、不安定な北関東や東北の情勢に対応させようとした、と考えられている。そして家康もまた、置かれた状況を逆手にとって、着々と江戸城、および江戸の町の整備を進めていった。

■かつて日比谷は入り江だった

とはいえ、家康が入城した当時の江戸城は、織田信長や秀吉の手になる豪華絢爛な城を見慣れた目には、かなりお粗末に映ったに違いない。また、その中枢部は武蔵野台地の東端の高台にあり、そのすぐ東側には、日比谷入江という大きな入江が深く入り込んでいた。

なにしろ、新橋あたりから大手町方面までが大きな入江で、城域を拡大するためにも、城下町を整備するためにも、この入江が邪魔になる。そこで、家康がまず手がけたのは、この入江を埋め立てることだった。入江に流れ込んでいた平川の流路を変えて、東京湾に直接流れ出るようにしたうえで、神田山を削るなどした土で埋め立てたのだ。

現在の日比谷公園はかつての入江のど真ん中で、パレスホテル東京の前まで続く日比谷堀は、かつての入江の埋め残しだと考えられている。

とはいえ、江戸に入府してしばらくのあいだ、家康は豊臣政権下の一大名にすぎなかったので、謀反などのあらぬ嫌疑をかけられないように、江戸城の整備は最小限にとどめていた。

余計な心配をせずに、思う存分整備できるようになったのは、慶長5年(1600)に関ヶ原の戦いに勝ち、同8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられてからで、早速、翌年には大規模な工事がはじまった。

■家康のグランドデザイン

工事はいわゆる天下普請(御手伝い普請)で行われた。早い話が、諸大名を動員し、彼らの負担で工事を行わせたのだ。武士には主君に領土を守ってもらう代わりに軍事面で主君を支える、軍役と呼ばれる義務があった。天下普請も軍役の一種で、武家の棟梁となった家康から命ぜられれば、大名は受けるしかなかったのだ。

慶長9年(1604)の第一次天下普請は西国の29の大名に命ぜられ、本丸、二の丸、三の丸、いま日本武道館がある北の丸のほか、溜池から雉子橋までの外郭が築かれた。

慶長19年(1614)年の第二次天下普請では、本丸から三の丸にかけての石垣が大規模に整備されて、ほぼいま見られる姿になった。また、皇居の中心である西の丸を囲む堀が拡張され、現在、皇居外苑となっている西の丸下の石垣も整備された。半蔵門から外桜田門に続き、現在も美しい幅100メートルを超える堀も、このときに整えられた。

家康が存命中の工事はここまでだが、家康のグランドデザインをもとに、大規模な天下普請は3代将軍・家光時代の寛永13年(1636)の第五次まで続けられ、江戸城全体はひとまずの完成を見た。

その間、動員された大名は延べ471家を数え、もっとも大規模だった第五次天下普請には西国大名61家、東国大名54家が携わった。主に石積みの経験が豊富な西国の大名が石垣を築き、東国の大名が堀を掘った。

こうして幕府は、諸大名がもつ築城技術をフルにいかして堅固な城を築くと同時に、大名たちを経済的に疲弊させて謀反を起こす力をそぎ、徳川家の力を相対的に高めていくことに成功したのである。

■150人余りが圧死

工事の際の、信じられない逸話も残されている。

石垣の石材は主に伊豆半島周辺から切り出されて運ばれた。慶長11年(1606)には石材を運ぶために3000艘の石船が伊豆に集まり、切り出された膨大な石を載せたが、折からの暴風雨のために、鍋島勝茂の120艘、加藤嘉明の46艘、黒田長政の30艘、ほかにも53艘が海に沈んでしまったという。

また、慶長19年(1614)には、紀州が領国だった浅野長晟(ながあきら)が築いた石垣が崩壊し、150人余りが圧死したと記録されている。寛永5年(1628)には、加藤清正の嫡男の忠広のもとで大勢が音頭をとりながら石垣を運んだ際、人夫に死者やけが人が続出したばかりか、綱で引かれた石が街角を曲がり切れず、多くの町屋を破壊しながら進んだという。

石垣は伊豆周辺のほか、瀬戸内からも運ばれてきた。いまも江戸城の石垣を見ると、伊豆から運ばれた黒っぽい安山岩が中心ではあるけれど、要所にベージュの石が組み込まれているのに気づく。これが瀬戸内方面から運ばれた花崗岩だ。

江戸城の旧本丸、二の丸、三の丸は現在、皇居東御苑として一般公開されている。そのなかで、たとえば本丸入口の中の門の石垣には、たったひとつで幅1.3~1.4メートル、長さ3.5メートル、重量は35トン前後にもなる花崗岩が用いられている。こうした巨石を大名たちが、瀬戸内からわざわざ運んできたのである。

■姫路城よりも巨大だった天守

もちろん、江戸城にも天守はあった。しかも、短い期間に3回建てられている。

慶長11年(1606)、家康が最初の天守を建てたが、2代将軍秀忠が元和8年(1622)に解体してしまった。本丸を北に拡張するのに邪魔になったと思われ、翌年、2代目の天守が広がった本丸の北方に完成した。ところが、その天守も3代家光の時代の寛永13年(1636)に解体され、翌年までに3代目が完成した。

これは、皇居の東庭にある、城の石造りの塔で、この城の最北側に位置しています。
写真=iStock.com/PhotoNetwork
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/PhotoNetwork

3代目天守は、約14メートルの石垣(天守台)にそびえる約45メートルの高層建築で、高さの総計は約59メートル。20階建てのビルに相当する、史上もっとも高い木造建築だった。ちなみに、現存天守最大の姫路城は、木造部分の高さが31.5メートルだ。

家光時代の天守は地上5階、石垣内の地階をふくめて6階。壁には耐火および耐久性能が高い黒色加工された銅板が張られ、屋根に高価な銅瓦が葺(ふ)かれた。瓦の軒先には金箔が張られ、屋根を装飾する破風は金の金具で飾られ、てっぺんには金の鯱(しゃちほこ)が据えられていたようだ。

■なぜ現在江戸城には天守がないのか

しかし、完成からわずか20年足らずで、江戸の6割を焼き尽くした明暦3年(1657)の大火に見舞われ、焼失。その後、石垣だけは再建されたが、町の復興に人力を割くべきだという意見のもと、再建は中止に。江戸城に天守が建つことは二度となかった。

ちなみに、それぞれの天守の規模自体は、3回ともほとんど変わらなかったようで、すでに家康の時代に、とてつもない高層建築が建っていたことになる。

それもこれも家康が築き上げた絶大な権力の賜物。いまもそんな権力を行使できれば、震災で甚大な被害を受け、復興に30年かかるとされている熊本城なども、数カ月で元どおりの姿に戻せるのではないだろうか。

皇居周辺、あるいは外郭の端々に残されている江戸城の遺構も、こうした目で見ると、とてつもない権力の遺産に見えてくるからおもしろい。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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