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猛獣の餌食にされ、松明代わりに燃やされる…激しい弾圧ののちキリスト教が世界宗教になった理由

プレジデントオンライン / 2023年3月18日 18時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/imagedepotpro

キリスト教はなぜ世界宗教になったのか。歴史を遡ると、ローマ帝国で信者が増大した後に迫害に遭ったが、感染症をきっかけに広まったという。ジャーナリストの池上彰さんが書いた『聖書がわかれば世界が見える』(SB新書)より紹介しよう――。

※本稿は、池上彰『聖書がわかれば世界が見える』(SB新書)の一部を再編集したものです。

■世界各地に離散した「イエスを殺害した者の子孫」

キリスト教が始まった当初は、ユダヤ教の一分派に見られていましたが、それが世界に広がるきっかけとなったのは、ローマ帝国の国教となったからです。その歴史を見ておきましょう。

イエスが十字架にかけられた当時、ユダヤはローマ帝国の属州でした。この地域を統治する皇帝の名代が派遣されていました。それが総督ピラトです。

イエス亡き後、イエスの弟子たちは、ローマ帝国内での布教を開始します。とりわけローマ帝国の本拠地ローマを目指しました。

一方、ユダヤでは紀元66年からローマ帝国の支配に反発する人々が反乱を起こし、ローマ帝国と戦争になります。これが「ユダヤ戦争」です。2回にわたった戦争で、ユダヤ教の神殿は破壊され、ユダヤ人たちはエルサレムに立ち入ることを禁止されます。

その結果、ユダヤ人たちはヨーロッパをはじめ世界各地に離散していくことになります。これを「ディアスポラ」(大離散)といいます。各地に散ったユダヤ人たちは「イエスを殺害した者の子孫」として差別・弾圧されることになります。

イエスが誕生する前の古代ローマは、共和制をとっていました。奴隷制が支えとなっていましたが、ローマ市民は自由な活動ができ、民主政治を実現していました。

もともとはイタリア半島の都市国家から始まりましたが、紀元前1世紀末には地中海全域を支配するまでになりました。

■ローマ帝国で信者が増大

しかし、紀元前27年に共和制から帝政に移行します。つまり皇帝が統治する帝国になるのです。イエスが十字架にかけられた頃には、すでに帝国になっていました。

帝国も、誰が皇帝になって統治するかによって、発展もすれば衰退もします。2世紀には「五賢帝」と呼ばれる賢い皇帝が5代続き安定した時代が続きました。

当時、「すべての道はローマに通じる」と言われました。繁栄したローマは道路を整備し、ヨーロッパ各地に広がりました。当時のローマ帝国は、まさに“世界”。ローマを制すれば世界を制する状態だったのです。

その後、ローマ帝国は軍団を率いた軍人皇帝の時代を迎えると、内戦や政治的対立で混乱が続きます。

こんな状態の中で、人々の心を掴んだのがキリスト教でした。ユダヤ教から生まれたキリスト教は、パウロがイエスから指示されたとされるように、ユダヤ人だけを対象とするのではなく、「異邦人」にも布教をします。異邦人つまりローマ帝国内に暮らす人々です。

こうして各地にキリスト教徒の共同体が形成されていきます。教会の成立です。

2世紀半ばまでにはキリスト教独自の信仰の形が整います。キリストが復活したとされる日曜日には、毎週信者たちが教会に集まり、聖歌を歌い、神父の説教を聞きます。信者になりたいという希望者には洗礼の儀式が定められました。

一方、混乱が続く帝国内では格差が広がります。社会の底辺に位置することになった人々はキリスト教に救いを求めます。信者たちは互いに助け合って暮らしますが、キリスト教徒以外から見れば、まるで秘密結社のように見られてしまいます。

■なぜキリスト教徒が迫害されたのか

その結果、キリスト教徒に対する迫害が始まります。もともとローマ帝国は宗教に寛容で、ローマの神々や神格化された皇帝の像を礼拝さえすれば、他の宗教は容認されていました。

ところがキリスト教徒は偶像崇拝を拒否し、神の前での平等を重んじて皇帝を崇拝することも拒否したため、激しい弾圧を受けるようになります。

有名な迫害は第5代皇帝ネロによる迫害です。ネロは紀元54年に第4代皇帝の伯父の死去に伴い、わずか16歳で即位します。

当初は哲学者セネカの指導を受けて政治をしていましたが、やがて何かと口を出す母を殺害。さらにはセネカも死に追いやったとされています。

紀元64年にはローマが大火に見舞われます。

この火事は、新しい都市計画を実現するためにネロ自身が放火したという噂が立つと、ネロはキリスト教徒を放火犯に仕立てて、大弾圧を始めます。キリスト教徒を猛獣の餌食にしたり、十字架にかけたり、松明代わりに燃やしたりしたと伝えられています。

このとき、キリスト教の最高指導者として捕らえられたペトロも、逆さまに十字架にかけられて殉教しました。パウロもこのときローマで殉教したとされています。

夕暮れのローマの遺跡
写真=iStock.com/Max Zolotukhin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Max Zolotukhin

このような歴代皇帝による迫害を逃れるため、キリスト教徒たちが建設したのが「カタコンベ」(地下墓所)でした。

キリスト教では(イスラム教も同じですが)、世界の終わりが来たとき、神の前に引き出されて最後の審判を受けるため、肉体が必要とされます。このためヒンズー教や仏教のような火葬は一般的ではなく、遺体はそのまま埋葬されます。

キリスト教徒たちは、目立たないように地下に墓所を作り、ここに集まって祈りを捧げていました。

こうして信者が集まって定期的に礼拝をするようになると、よからぬことを企む「秘密結社」ではないかという疑惑を招き、特に3世紀半ばには厳しく弾圧され、多くの殉教者を出しました。

■感染症がキリスト教を広めた

キリスト教がローマ帝国内で広く普及するきっかけとなったのは、感染症でした。

五賢帝の時代にも感染症で300万人を超える死者を出しています。その後、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの治世(165〜180年)に発生した流行で、1000万人近い人が死亡したとされます。

当時、この感染症はペストと呼ばれ、「アントニヌスのペスト」と呼ばれました。アントニヌス帝自身も、この感染症で死亡したとされます。

当時はペストと呼ばれましたが、症状から見て、実際は天然痘ではなかったかというのが最近の定説です。

原因不明の感染症で、多くの人がバタバタと倒れて死んでいく。当時の人たちが、どれほど恐れたことか。このとき多くの人はキリスト教に救いを求めたのです。

「キリスト教徒が同時代の異教徒に対して持っていたひとつの大きな強みは、悪疫の荒れ狂っている最中であろうとも、病人の看護という仕事が彼らにとって自明の宗教的義務だったことである。通常の奉仕活動がすべて絶たれてしまった場合には、ごく基本的な看護行為でも致死率を大きく引き下げるのに寄与するものである。

例えば食べ物と飲み水を与えてやるだけでも、体が衰弱していて自力ではそれを手に入れることができず、空しく死を待つほかなかった病人を、快方に向かわせることが大いにありうるのだ。

そして、こうした看護によって一命を取り留めた者は、以後、自分の命を救ってくれた人びとに対する感謝の思いと温かい連帯感を抱き続けるであろう。

だから、災厄的な疫病は、ほとんどすべての既存の諸制度が信用を失墜したまさにその時代にあって、キリスト教の教会を強化する結果をもたらした。(中略)

さらに、戦争や疫病あるいはその両方の災厄に痛めつけられながらも不思議に一命を取り留めたわずかばかりの生存者は、亡くなった近親者や友人を思うとき、みんな善きキリスト教徒として死んだのだから必ずや天国に生を享けるに違いないと、その至福の姿を幻に描くことができさえすれば、直接自分の悲しみを癒してくれるほのぼのとした慰めを得たのであった。神の全能性は、災厄の時も繁栄の時とひとしく人生を意義あるものたらしめた。」
(ウィリアム・H・マクニール著、佐々木昭夫訳『疫病と世界史』)

■世界宗教へと広がる

ローマ帝国で最初にキリスト教を信仰した皇帝はコンスタンティヌス大帝です。313年、「ミラノ勅令」によってキリスト教が容認されました。

ちなみに「ミラノ勅令」と呼ばれますが、厳密には、このときミラノで勅令(皇帝の命令)が出されたわけではありません。

この年、ミラノでコンスタンティヌス大帝とリキニウス帝が結んだ協定にもとづいて、リキニウス帝が発布した内容を、後世の歴史家が、こう呼んだのです。

この勅令の内容は、キリスト教の迫害を止めてキリスト教を容認する、キリスト教団の存在を認める、キリスト教徒を迫害していた時代に没収した不動産を返還することなどでした。

これは、当時あまりにキリスト教徒が増え、弾圧するよりは容認することで、帝国の統治に役立てようとする意図があったと言われています。

これ以降、キリスト教の信者になる皇帝も出るようになり、キリスト教はすっかり市民権を得ます。日曜日は国家としても休日になりました。

やがて392年、テオドシウス帝は、遂にキリスト教を国教と定めます。さらに異なる宗教を禁止するに至ります。それまでの伝統的なローマの神々への信仰や太陽神への信仰は禁止されたのです。

ローマ帝国の領域内にあったギリシャでは、ゼウスを主神とする多神教が信じられ、定期的にオリンピック競技が開かれていましたが、これを機に禁止されました。

こうしてキリスト教迫害の時代は終わり、これ以降は、国の手厚い保護を受けるようになります。広大な地を支配したローマ帝国の国教となったことで、キリスト教はヨーロッパ各地に広がり、「世界宗教」へと発展していくことになるのです。

■キリスト教の大原則「三位一体」成立

ローマ帝国内でキリスト教が広がる過程で、信者たちの間で議論が起こります。イエスは人間なのか、「神の子」なのか、という問題です。この点で、アリウス派とアタナシウス派の対立がありました。いずれも提唱者の名前です。

アリウス派は、イエスは神によってつくられた人間であり、神ではないと主張しました。神聖ではあるが、神性はないというわけです。

一方、アタナシウス派は、イエスは「神の子」であり、神性を有すると主張します。

キリスト教徒がイエスの解釈をめぐって対立したことを憂慮したコンスタンティヌス帝は、キリスト教徒の間での意思統一を図るため、ニケーア公会議を開催します。

公会議とは、各地の教会の指導的立場の人たちが結集する会議です。教会によって解釈の異なることが起きると、ここで意思統一を図るのです。議論が分かれた場合は多数決を取り、多数派の解釈が正しいとされます。

325年、現在のトルコに当たるニケーアにキリスト教の指導者たちを集めて教義の統一を図ったのです。これが「ニケーア公会議」です。

その結果、アタナシウス派が勝利し、アリウス派は異端とされます。

しかし、その後も教義論争は続きます。イエスが「神の子」であれば、神の子も神となり、神様が2人いることになってしまうのではないかという問題提起です。

池上彰『聖書がわかれば世界が見える』(SB新書)
池上彰『聖書がわかれば世界が見える』(SB新書)

この教義の統一は、381年、テオドシウス帝によってコンスタンティノープル公会議で図られます。

それが「三位一体」(トリニティ)という考え方です。

ここでは「父と子と聖霊」という概念が用いられます。神も子も聖霊も、それぞれ別のペルソナ(位格)を持つが、神であることにおいてはひとつであるという考え方です。3つの位格は本質においてひとつであるというもので、この考え方を「三位一体」といいます。

これは『旧約聖書』にも『新約聖書』にも記載のない教義ですが、信者たちによる会議で確立したのです。これ以降、三位一体はキリスト教の真髄となる教義として定着しました。

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池上 彰(いけがみ・あきら)
ジャーナリスト
1950年長野県生まれ。慶應義塾大学卒業後、NHK入局。報道記者として事件、災害、教育問題を担当し、94年から「週刊こどもニュース」で活躍。2005年からフリーになり、テレビ出演や書籍執筆など幅広く活躍。現在、名城大学教授・東京工業大学特命教授など。計9大学で教える。『池上彰のやさしい経済学』『池上彰の18歳からの教養講座』『これが日本の正体! 池上彰への42の質問』など著書多数。

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(ジャーナリスト 池上 彰)

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