「ますます"人間の劣化"が深まっている…」そう断言する宗教学者が解説する悪世を生き抜くための教え
プレジデントオンライン / 2023年3月24日 9時15分
※本稿は、阿満利麿『「歎異抄」入門』(河出新書)の一部を再編集したものです。
■解決できない苦しみや不安をもったまま生きるのが人生
私たちの直面する苦しみや不安も、その原因が明らかにできれば、苦でなくなり、不安も解消される。だが、その原因を尋ねてゆくと、苦しみをもたらしている原因は、決して一つではなく、多くの原因と結果が複雑に絡み合っているのだ。そうなると、私たちの力では、苦しみをもたらす因果の関係のすべてを見通せる智慧を身につけることなど、思いも及ばないことになる。こうして、解決できない苦しみや、不安をもったまま生きるのが、人生ということになる。
ここで、「阿弥陀仏の物語」が登場する。
歴史的にいえば、紀元前後のころといわれる。仏教そのものは、紀元前5世紀ころ、ゴータマ・シッダールタによってインドで生まれた。彼は35歳のときに、「生老病死」の「苦」を脱するための智慧を身につけて、「ブッダ」(「悟った人」・「仏」・「釈尊」)になったとされる。その後、「ブッダ」の教えは、智慧を獲得するための精緻な修行の体系とともに、各地に広がってゆくが、こうした修行は、限られた人々のものになり、多くの人々が取り残されてゆく。
■万人の救済のための新しい仏教
そこで、紀元前後くらいから紀元3世紀ころにかけて、万人の救済を目的とする、新しい仏教がインドで生まれてくる。そこでは、多くの「大きな物語」(「経典」)が生まれるが、その一つが「阿弥陀仏の物語」なのである。経典名は、漢訳されて『無量寿経』という。「阿弥陀仏の物語」は、釈尊の弟子、阿難が、阿弥陀仏という仏が生まれた経緯を釈尊から聞いた、という形式をとっている。いうまでもないが、ここに登場する釈尊も、阿難も、歴史上に実在した人物ではなく、物語のなかの登場人物である。
はじめに、私が興味をもつのは、物語の聞き手が阿難だという点にある。阿難は、歴史的には、釈尊の従弟といわれている。阿難は、釈尊の55歳ころに侍者になり、釈尊が亡くなるまで、身の回りの世話をしてきた。そのため、釈尊の教えの数多くを聞くことができたので、のちには、「多聞第一」とよばれるようになる。
だが、阿難は、釈尊の存命中には、悟ることができなかった。伝えられるところによれば、阿難は美男であり、世話好きであり、恩愛の情が大変深く、相手に同情しすぎて、状況を客観的に見ることができない人物であったという。そういうことも、彼が早々に悟ることができなかった理由であるかもしれない。彼が悟ったのは、釈尊亡きあと、兄弟弟子たちの導きのおかげであった。
思うに、恩愛の情に深く、ときに人情に流されることが多かった阿難こそは、私たち凡夫の代表なのではないか。その阿難がこの物語の聞き手として起用されているということは、この「阿弥陀仏の物語」が、私たち「凡夫」のための教えであることを示して余りあるように思われる。ちなみに、「凡夫」とは、なにごとにつけても、いつも関心の中心が自分にあり、他者への関心も自分のため、というような人間のことである。
■悪世を生き抜くための物語
さらに興味があるのは、「阿弥陀仏の物語」によれば、阿弥陀仏は、「五濁悪世」の真っただ中に登場してくる「仏」だという点である。「五濁」とは、人間とその世界の悲惨のことで、5とおりに分けて説明されている。
一つは、時代のひどさをいう。戦争・飢饉(ききん)・疫病が絶えないこと。「劫濁」という。二つは、思想の貧弱化、思考力の劣化。「見濁」という。三つは、人の考え方が自己中心を免れず、自己の価値観にこだわり、世界と人間をより深く考察する意欲が欠けていること。しかも、その自覚もない状況。「煩悩濁」という。四つは、人間自身の身体の資質が低下して、多病となり、精神もまた病む。「衆生濁」という。五つは、人間の寿命が短くなる。もとは、2万歳であった。「命濁」という。
こうした「五濁」の説明を聞くと、現代もまた「五濁」を免れてはいない、いや、ますます「五濁」が深まっている、という感慨をもたざるをえない。たとえば、アフリカで餓死した子供の遺体を解剖したら、胃から小石がたくさん出てきた! というニュース。日本でも、子供の7人に1人が貧困状態にあり、学校給食だけが唯一の食事という小学生たちが多数いる。パートの月収が5万円に満たない母子家庭。貧富の格差のひどさは、言語を絶する。世界の富の半分は、数十人に握られているという。こうした矛盾の解消に努力してきた人々も決して少なくないが、状況が変わらないということは、「五濁」が示す、人間の劣化そのものが原因と考えざるをえないのではないか。
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■釈尊が味わった劇苦
こうした「五濁悪世」のただ中で、釈尊は、悟りに達して仏となり、人々に教えを説く。「阿弥陀仏の物語」によれば、「釈尊は、悪世に生きる人々に説法することが劇苦であった」、と記している。なぜなら、人間どもは互いに髑髏を握り、手を相手の血で染め、戦いに明け暮れている。そんな人間たちに向かって、教えを説くのである。文字どおり、「劇苦」のなかでの説法であった。そして、釈尊は、「自分が生きている間は、教えがかろうじて広まった地域は、安穏で平和であるが、自分が死ねば、ふたたび、もとの五濁悪世に戻るから、この経典を後世に残しておくのだ」、と遺言する。
歴史上のゴータマ・シッダールタ、つまり釈尊のイメージは、静謐な聖者であるが、「阿弥陀仏の物語」に登場する釈尊は、悪世のただ中で真理を説くために、途方もない苦労を重ねている。まさしく、「阿弥陀仏の物語」は、「五濁悪世」を生き抜く「よりどころ」を教える物語なのである。
■阿弥陀仏の前身「法蔵」
「阿弥陀仏の物語」は、阿難が釈尊の様子に異変を感じたところからはじまる。釈尊は、いつものように瞑想(めいそう)に入っていたが、その日は、特別に顔つきが光り輝いているように見えた。そこで阿難が問う。「いつもと違って、おすがたが特別に輝いているように見えますが、どうされたのですか」、と。そこで釈尊は、答える。「よきかな、阿難よ。あなたは衆生を憐れむがゆえに、私の顔つきの変化を問うたのであろう。阿難よ、汝がために新しい教えを説こう」、と。こうして、釈尊が自らの深い瞑想のなかで感得した「阿弥陀仏の物語」を、阿難に向かって開陳することになる。
その要点の一つは、阿弥陀仏の前身が「法蔵」という名の人間であった、ということにある。釈尊によると、「世自在王仏」という名の仏が活動していた時代のこと、一人の国王がいた。彼は世自在王仏の説法を聞いて、深い喜びの心を起こし、最高の悟りを目指すことになる。そのために、王位を捨て、国を捨て、出家した。そして、「法蔵」と名乗る。
![水蓮の花](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/8/1200wm/img_f81bf83b7652b3ad24b0ed981fa52ed1410274.jpg)
■今までになかった仏の国を
法蔵は、世自在王仏の弟子となり、自分もまた仏になり、今までになかった「仏の国」をつくりたい、そして、その国に生まれた者は、すべて仏になるようにしたい、と誓う。そして、師の世自在王仏に懇願する。「どうか私のために教えを説いてください。その教えにしたがって修行を重ねて、すでにある数多くの仏の国から選択して、もっとも優れた国を建立したいのです」、と。すると、世自在王仏は、法蔵の切なる願いにもかかわらず、「自分で考えよ」と応じる。そこで法蔵は、「せめて、すでにある仏の国々について、それらがどのような修行によって生まれたのかを聞かせてほしい、それを参考に修行するから」、とさらに願った。
すると世自在王仏は、その願いを誉め讃えて、「二百一十億」の仏たちの国を取り上げて、その国土に住む人々の善し悪し、国土の出来具合を、すべて目の前に現出させて見せた。世自在王仏は、法蔵が求める理想的な「仏土」を得るための方法を説くのではなく、仏土そのものをすべて提示することによって、法蔵が自ら考えて、新しい国づくりができる手がかりを与えようとした、といえる。
■7キロ四方の城に芥子粒を満たし100年ごとに1粒取り出す
こうして法蔵は、理想の仏土をつくるために、あらためて特別の願いを発する。それは、これからつくろうとする、仏土のいわばデザインを完成するための「行」を明らかにする作業なのだが、そのために「五劫」という時間を必要とすることになった。「劫」とはインド神話の時間の単位だが、私たちにとっては、ほぼ「無限」に近い。伝説では、四方が一由旬の鉄の城に芥子粒を満たし、百年ごとに一粒ずつ取り出して芥子粒全部がなくなってもまだ「一劫」は終わらないという。「一由旬」とは、約7キロメートルという説がある。そこで、阿難は、世自在王仏の寿命がいくらかを釈尊に問う。というのも、法蔵が「五劫」もかけて必要な「行」を獲得するのに、師の世自在王仏が亡くなっていては、話が進まないと思ったからだろう。釈尊曰く、「四十二劫なり」、と。
■途方もない時間をかけて「四十八願」を実現
法蔵が「五劫」という、とてつもない時間をかけて手にした、新しい仏土の設計図と、そこにいたる方法とはどんなものなのか。それは、四十八にのぼる「願」として示されている。
今回は、そのすべてを紹介することはしない。関心のある方は、直接、『無量寿経』にあたってもらいたい。たとえば、第一願はつぎのようにのべられている。現代語訳でいえば、「もし私が仏になったとき、私の仏土に地獄・餓鬼・畜生という三悪道がないようにしたい。そうでなければ私は仏にはなりません」、となる。実際は、この願いは実現したのであるから、法蔵のつくった仏土には、「地獄・餓鬼・畜生」はない、ということになる。以下、どの願の文章も、冒頭は「もし私が仏になったら」ではじまり、つぎに、願の内容が示されて、おわりは、「そうでなければ、私は仏になりません」と締めくくられている。
■四十八願の3つのグループ
ちなみに、私は四十八願を3つのグループに分けると理解しやすい、と考えている。第1のグループは、第一願から第十六願までで、これらは阿弥陀仏が私たちを迎えるために、事前にどのような準備をしているのか、いわば私たちを迎えるための環境整備にあたる内容である。とくに、法蔵が考えている仏土では、人間の苦しみや悪業が一切存在しないこと、また、この世にある差別が一切ないこと、あるいは、自己が悟るだけではなく、他者を救うための身体的能力の保証、そして、阿弥陀仏自身が一切の生きとし生けるものを救うために、「無量の光明」と「無限の寿命」をもっていること。ここでいう「光明」は、智慧のこと。
第2のグループは、第十七願から第三十二願まで。これらの願は、私たちが「阿弥陀仏の国」に生まれるための条件、方法を提示する。そして、仏になったならば、どのような活動ができるのかを説く。このなかにこそ、本書のテーマである、阿弥陀仏による救済原理が明らかにされている。その中心にあるのは、第十八願である。
第3のグループは、第三十三願から第四十八願まで。今まで説いてきた諸願が実現しやすいように工夫された願がふくまれる。
■どの願も実現している
注意を要するのは、こうした四十八にのぼる願は、いずれも、法蔵が「五劫」という途方もない時間をかけて選択した結果だ、ということである。つまり、それぞれの願の背後には、願として選択されなかった無数の願いがある、ということである。四十八願は、また、「誓願」ともよばれる。
なお、「阿弥陀仏の物語」によれば、こうした願はいずれも実現しているのであり、だからこそ、法蔵は阿弥陀仏になっているのである。しかし、疑問が生まれるのではないか。すべての人がまだ阿弥陀仏の国に生まれていないではないか。生まれていないどころか、およそ仏教に関心のない人や、他者を抑圧し続けている人、戦争に明け暮れている人が夥しくいるではないか。この世のどこに慈悲が貫徹しているといえるのか、等々、疑問は深まるばかり。法蔵は、自分の願いが実現しない間は、仏にならないと誓っていたではないか。法蔵が阿弥陀仏になったという以上は、その願いは、すべて実現しているはずではないか。
■いつか、すべての人が仏土に生まれる
![阿満利麿『「歎異抄」入門』(河出書房新書)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/9/8/1200wm/img_98a99b6384a615dc372a0cf0688be7fe291421.jpg)
こうした疑問に、優れた比喩をもって答えている人物がいる。それが、曇鸞である。曇鸞は、6世紀に活躍した中国仏教の高僧で、とくに中国浄土仏教の祖といわれている。
曇鸞は、いう。「すべての衆生がまだ仏にならないうちに、法蔵だけが阿弥陀仏になってしまうのは、たとえば、草木の山を焼くのに、木の箸を使うとして、草木をつまんでは焼いてゆくと、すべての草木を焼き尽くす前に、箸の方がさきに燃え尽きてしまう、というようなものだ」と(『浄土論註』)。曇鸞がいわんとするのは、ひとたび火がついた草木の山は、草木を集める木の箸が燃えてしまっても、いずれ全体が燃え尽きる、ということだろう。つまり、いずれの日にか、一切衆生は阿弥陀仏の国に生まれるのである。早いか、遅いかの違いでしかない。すべてが救われるためには、数万年かかるのか、数百万年かかるのか……。
■「阿弥陀仏の物語」は法然によって甦った
ところで、「南無阿弥陀仏」と称えると、いかなる人間でも、死後、必ず阿弥陀仏の国に生まれて、早晩(遅かれ早かれ)仏になる、という教えがある。これは、阿弥陀仏の本願に基づく念仏だから、「本願念仏」という。「本願」の「本」は、阿弥陀仏がもと法蔵という名前であったことを意味している。この「本願念仏」の教えこそが『歎異抄』を貫いているが、この教えを発見した人が法然(平安後期から鎌倉時代の僧)にほかならない。法然は、「阿弥陀仏の物語」を、いわば革命的に読み直して、私たちの救済と直結した人なのである。「阿弥陀仏の物語」は、法然によって甦った、といってもよい。
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宗教学者
1939年生まれ。京都大学教育学部卒業後、NHK入局。社会教養部チーフ・ディレクターを経て、明治学院大学教授。現在、同大学名誉教授。著書多数。近著に『『歎異抄』講義』(ちくま学芸文庫)などがある。
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(宗教学者 阿満 利麿)
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