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日本史上最強の健康オタクだった…徳川家康が75歳という異例の長寿で死ぬまで情熱を傾けていたこと

プレジデントオンライン / 2023年4月2日 17時15分

徳川家康公之像(鷹狩り姿、駿府城本丸跡)(写真=CC-BY-3.0/Wikimedia Commons)

徳川家康は戦国大名の中で突出して長寿だった。歴史評論家の香原斗志さんは「独自に薬学を研究するなど、人一倍健康に気を付けていたといわれている。身体に良いと思う薬は、かなり熱心に収集した。晩年には、心身の健康のために東南アジアから香木を集めていた」という――。

■晩年の家康が死ぬまで行っていた“ある運動”

3年余りにおよんだコロナ禍においては、外出を控えたりした人は、高齢であればあるほど、足腰および頭や心が衰えてしまったケースが多い。

だが、徳川家康なら、たとえ今回のコロナ禍に居合わせても自分の健康を守りとおし、そのうえ他者に対しても、健康に関してよい影響をあたえ続けたに違いない。

というのも、家康は全方位にわたる健康オタクで、自分自身が学者並みの知識を蓄え、考えて行動していたからである。

もっともわかりやすい例が鷹狩りだ。

家康が晩年を過ごした駿府城(静岡県静岡市)の本丸跡には、家康の銅像が立ち、その左腕には鷹が止まっている。私は中学生のころにそこを訪れ、なぜ鷹と一緒なのかと怪訝(けげん)に思った記憶があるが、この像の表現は正しい。事実、家康は若いころから最晩年まで少しも衰えることなく、鷹狩りに情熱を注ぎ続けた。

たとえば元和元年(1615)。5月に大坂夏の陣を終え、駿府城に帰ってきたのが8月23日で、その後、翌元和2年4月17日に病没するまで、実質的には同年1月までの5カ月間に、16回も鷹狩りに興じているのだ。

■なぜ鷹狩りに興じていたのか

いま「興じている」と書いたが、額面どおりの意味ではない。もちろん、家康は鷹狩りが大好きで、大いに楽しんでいたはずだが、楽しむこと以外にもさまざまな意味を見いだしていた。

無二の権力者とはいえ、各地に鷹場がもうけられ、鷹場奉行がその維持および管理をするという大げさな体制を敷いている以上、たんに娯楽のためというだけでは済まない。

娯楽以外の目的だが、領内の状況や領民の暮らしぶりを把握して統治に役立てる、というのがひとつ。野山を駆けまわることで身体が頑健になり、健康を維持、増進できる、というのがひとつである。

合戦に備えた軍事訓練を兼ねる、という目的もあったが、これは家臣の健康のためだと言い換えることもできるだろう。実際、家康の逸話をまとめた『東照宮御実紀附録』には「さまざまに労動して進退を堅固にするなれ。……家人もまた奔走駈駆するによりて歩行達者になり物の用に立なり」と書かれている。

おのずと大規模になる鹿狩りなどにくらべると、おもに鳥類を捕獲する鷹狩りには、手軽に健康増進を図れるという利点もあったようだ。

■医者たちと熱心に話していたこと

慶長8年(1603)、家康が征夷大将軍に叙任されてまずやったこと。そのひとつが、名医として名高かった曲直瀬玄朔(まなせげんさく)や片山宗哲(かたやまそうてつ)らを将軍家の侍医に迎え、江戸勤番を命じることだった。

また、同13年(1608)に家康が駿府城に移住すると、さらに人数が増した侍医たちに江戸と駿府に交互に務めるように命じている。

そもそも家康自身が薬とその調剤に通じていたようで、たとえば、京の公卿の日野輝資(てるすけ)の慶長11年(1606)の書状には、ある人が回虫による腹部の痛みを抱えていると相談したところ、家康から膏薬(こうやく)をあたえられ、使用法まで細かく指南された話が記されている。

日野にしても、おそらくは家康が薬に詳しいと聞き知っていたからこそ、あえて相談したのだろう。

とくに家康の近くに仕えた儒学者の林羅山が、中国の医薬に関する学問史上もっとも充実した著作だとされた『本草綱目』を家康に献上してからは、本草学(薬用とする植物などの効能を研究する学問)への熱はさらに高じたようだ。

本草綱目(写真=Li Shizhen/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『本草綱目』(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

だれかから薬用品を提供されるとすぐに『本草綱目』で調べ、また、侍医たちと本草談義を繰り返していた様子が、『東照宮御実紀附録』などの史料から伝わる。

■松前藩の大名に所望したオットセイ

そして、年齢を重ねるほどその知識を、自身への滋養強壮にいかそうとしていた。江戸幕府の政治等に関する記録を記した『当代記』の慶長15年(1610)4月の条には、蝦夷地(北海道)の松前を所領とする松前慶広(よしひろ)が駿府に来た折を見計らって、家康はオットセイを進上するように求めたと書かれている。

『本草綱目』には、オットセイのとくに陰茎や睾丸などをもちいた合薬が、強精効果を引き出すという趣旨の記述があるようだ。

國學院大學講師の宮本義己氏は「このことが結果的に『長命』につながるとの判断が家康にあったのであろう」と記す(笠谷和比古編『徳川家康 その政治と文化・芸能』所収宮本義己著『徳川家康と本草学』)。

松前慶広は早速、翌年にはオットセイを献上。家康はこれを煎じて、腎臓やぼうこう疾患、前立腺肥大などに効果がある「八の字」の薬(家康の薬箱の8段目に入っていたのでそう呼ばれた)に加えてもちいたという。

■薬の知識はオタクレベルだった

その後も、家康は諸大名の薬剤師の役割を果たし続けた。

たとえば細川忠興の慶長16年(1611)の書状には、家康から側近の本多正純を通じて、万病に効くという万病円(まんびょうえん)を拝領した話が書かれている。あるいは、同18年(1613)には本多正信が駿府から江戸に戻る際、家康から万病円を賜った話が『駿府記』(徳川家康の動静を中心とした日記)に書かれている。

同じ『駿府記』によれば慶長17年(1612)、家康は側近の大久保長安が中風だと聞き、侍医と相談のうえ、いまも使用されている有名な漢方薬、烏犀円(うさいえん)を提供したという。

このように相手の症状に応じてふさわしい薬を提供した、という逸話は枚挙にいとまがなく、静岡大学名誉教授の本多隆成氏は「家康の薬の知識や製剤・調合の技術は、もはや素人の域をはるかに超えるものであった」と述べる(『徳川家康の決断』)。

■なぜ朱印船貿易に力を入れたのか

ところで、家康がみずから製剤した薬種のなかに、香木の一種の「沈香(じんこう)」という記述があり、これに強いこだわりを示していたフシがある。沈香は東南アジア原産の常緑高木で、日本には生えていない。

アガーウッド、アロエスウッドとも呼ばれ、香チップ
写真=iStock.com/fotomem
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/fotomem

家康が東南アジア各地との貿易に力を入れ、貿易を許可する朱印状を発行し、それを携えた貿易船が各地に派遣されたことは、よく知られている。が、そもそも家康は、なぜ朱印船貿易に力を入れたのだろうか。

家康が各国の国王などに送った書簡をみると、執着がなにに向けられていたかハッキリわかる。京都大学名誉教授の藤井譲治氏による『人物叢書 徳川家康』の記述をもとにたどってみたい。

慶長11年(1606)8月15日には「占城(せんじょう)(現ベトナム南部)国王」に書簡を送り、「貴国に懇求するところは域内の上品の奇楠香(きゃら)である、国中を探して我が国にもたらしてほしい」と求めている。「奇楠香」とは上質な沈香のことだ。

同年9月19日には、「柬埔寨(カンボジア)国王」に書簡を送り、「貴国に懇求するのは上々品の奇楠香である」として、金屏風5双を贈った。また、21日には「暹羅(シャム)(現タイ)国王」に、上々の奇楠香を送るように依頼し、鎧や長刀などを贈っている。

12月7日には、インドシナ半島にあったという「田弾(たたん)国主」に書簡を送り、「田弾の香財が最も上品であることを聞いたので、国中を尋ね探し、極品の奇楠香を送ってくれるように」と懇請。慶長12年(1607)10月には、あらためて占城に奇楠香を要求した。

■「私が欲しいのはこれである」

また、同13年に柬埔寨から書簡が届くと、「占城の奇楠香の希求を述べ、『占城国王』に頼んで極上品の奇楠香を探してほしいと依頼し、『予の求むる所は只この一件なり』と奇楠香を節に求めた」(『人物叢書 徳川家康』)という。

この経緯をみると、朱印船貿易の目的が、少なくとも家康にとっては「沈香」、なかでも上質な「奇楠香」の獲得にあったと言い切っても過言ではない。

まさに「香木『奇楠香』獲得が東南アジア諸国との外交の主要課題」(藤井氏、前掲書)で、家康は「特に極上とされた奇楠香すなわち伽羅の買い付け一本に絞った貿易を試みていた」というありさまだったのだ。

■香木の使い道

家康はなんのために、これほど香木に執着したのだろうか。各種史料によると、枕元で焚いたり、袋に入れて懐中に忍ばせたりし、使用する場に応じて調合の仕方を変えていたようだ。香木を焚かずに常温で使用する場合は、より香りの強いものが求められるので、各国に対する猛烈な要求につながったと考えられる。

前出の藤井氏は、家康のこだわりの背景には「気鬱を散じ、心を慰めること」という狙いがあったとみる。要するに、いまで言うアロマテラピーであり、香りに包まれてリラックスすることが精神および肉体の健康につながると、家康が認識していたということだ。

家康の香木への執着は、ある意味、常軌を逸している。圧倒的な権力者で、日本中の富が集中した空前の金持ちの道楽、だったとしても、本草学をふくめて強い執着を貫いた先に、当時としては異例の75歳までの長寿が得られたのではないだろうか。

また、各方面に対する同様の執着心が、天下人への道につながっていた――。そう考えると、この香木への執着は、家康の人物像を把握するうえで、ひとつのキーになるのではないだろうか。

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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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