1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. 経済
  4. ビジネス

サムスン半導体はシャープの技術支援のおかげ…今では想像すらできない「日本の電機メーカー」の慢心ぶり

プレジデントオンライン / 2023年3月27日 13時15分

シャープ株式会社の本社。大阪市阿倍野区(写真=Otsu4/CC-BY-SA-3.0-migrated/CC-BY-SA-2.5,2.0,1.0/Wikimedia Commons)

かつてシャープは、サムスンの半導体事業の技術支援をしていた。なぜ競合相手を利するような行為に及んでいたのか。元TDK米国子会社副社長の桂幹さんは「シャープには『技術情報を漏らさなければ韓国の一企業に負けるわけがない』という慢心があった。同様の慢心は他の国内電機メーカーにも言える」という――。

※本稿は、桂幹『日本の電機産業はなぜ凋落したのか』(集英社新書)の第2章〈慢心の罪〉を再編集したものです。

■技術開発力に定評があったシャープ

電機業界で慢心による弊害が起こっていたのは、もちろん記録メディア事業だけではなかった。記録メディア以外の事例も見てみよう。

親が勤める会社に対しては、子供心にも自然と親近感が湧くものだ。何より家の中の家電品はすべてシャープブランドだったし、父の労働の対価とはいえ、日々の食費や学費の出所でもあったのだから当然だろう。成人し、直接の関係はなくなっても、私にとって同社は特別な存在だった。

シャープは技術開発力に定評がある会社だ。創業者である早川徳次氏の、「他社が真似する製品をどんどん開発していこうじゃないか」という考え方が影響したのかもしれない。実際に、国産初のテレビの発売や、世界で初めてのオールトランジスタ電卓の開発という成果を上げている。そのDNAは受け継がれ、1990年代に入ってもビデオカメラに大きな液晶画面を付けたビューカムや、携帯情報端末の先鞭をつけたザウルスなど、ユニークな製品を発売し続けた。

■シャープはサムスンにとって「半導体の家庭教師」だった

そんなシャープは、韓国の新聞で「サムスン半導体の家庭教師」と呼ばれることがある。

世界第2位の半導体メーカーが、かつてはシャープの教えを乞うていたのだ。1983年に半導体事業への本格的な参入を宣言したサムスンは、スタートラインに立つためにマイクロンやシャープの技術指導を受けた。実際にシャープは4ビットマイコンの技術をサムスンに売っている。これは当時でも陳腐な技術で、機密性や先進性に問題はないと判断されたためだった。

■シャープは途上国への技術支援に積極的だった

この競合相手に利するような行為の裏には、創業者の時代から発展途上国企業への技術支援に熱心だったシャープの企業文化や、良好な日韓関係を背景に、韓国への経済支援を推奨した中曽根政権の方針もあった。80年代の日本は、アジアの最先進国として周辺国の発展を支援する責務を自覚していたのだ。

ただ、結果論にはなるが、このシャープの技術支援がサムスンの半導体事業の急成長を助けたのは否めない。

この頃、私の父はシャープで海外事業の責任者をしており、4ビットマイコンの売却を行う担当部門をサポートするよう命じられたそうだ。そんな父に、シャープは当時サムスンをどのように評価していたのか聞いたことがある。

「いや、サムスンがここまで強なるとは、当時は誰も想像できんかったよ」

年老いた父は、そう答えると苦笑いを浮かべた。シャープからすれば、ヨチヨチ歩きの子熊を助けたらモンスターに成長し、すべてを食い荒らされたようなものだ。今となっては自嘲ぎみに笑うしかなかったのだろう。当時のシャープに自社の半導体事業への慢心があったとは思えない。日本企業の中では後発で、慢心するほど強くはなかったはずだ。とはいえ、サムスンを見くびっていたのは否定できないだろう。

■半導体の失敗から学んだ「ブラックボックス戦略」

時代は流れ、父が引退したのちにシャープは液晶事業で一世を風靡(ふうび)する。国内勢との競争に圧勝した同社にとって、残ったのはサムスンとの覇権争いだった。その死闘のさなか、社長の町田勝彦氏が打ち出したのがブラックボックス戦略だった。最先端の生産技術やノウハウがライバルに流出するのを防ぐため、徹底した秘密保持策を講じたのだ。

機密ファイル
写真=iStock.com/DNY59
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DNY59

生産設備メーカーを通じて技術が流出するのを防ぐため、設備レイアウトの秘密保持や、設備改良のための委託業者の分散などを実行する。工場での情報管理も徹底し、工場見学さえ厳しく制限した。この徹底して最先端技術を守るシャープの姿勢を、マスコミも高く評価した。

同社が液晶において厳格な情報流出阻止に動いた背景には、先の半導体での苦い経験も影響していたのだろう。同じ轍を踏むまいと経営陣が考えるのは自然なことだ。この時には誰が見てもサムスンはモンスターにまで成長していたのだ。

■「絶対に追い付けない」という慢心

しかし、ブラックボックス戦略の根幹にあるのは、自社の情報が漏洩しなければサムスンは追い付いてこられない、あるいは、追い付くのに相応の時間を要するという前提だ。自分たちがこれだけ苦労しているのだから、サムスンには無理だろう、あるいは、もっと手間取るに違いない、とシャープの経営陣は考えたのではないか。自社の技術を高めに評価し、競合相手の力を過小評価する姿勢が透けて見えてしまう。

ブラックボックス戦略にどこまでの効果があったのかはわからない。ただ、サムスンが長年にわたって世界の液晶テレビ市場のトップに君臨している現実を見れば、その効果は限定的、あるいは一時的だったと言わざるを得ない。

桂幹『日本の電機産業はなぜ凋落したのか』(集英社新書)
桂幹『日本の電機産業はなぜ凋落したのか』(集英社新書)

ところが、ブラックボックス戦略の根幹にあったシャープの自社技術に対する強い自信は、亀山工場の成功も重なって慢心へと肥大化していく。町田社長のあとを継いだ片山幹雄氏は、社内でも慎重論があったにもかかわらず、堺工場への巨額の投資を決める。

さらに、リーマンショックによる景気悪化を軽減するため、政府が地デジ対応テレビなどに付与した家電エコポイント制度により需要が急増した際には、シャープは同業他社への液晶パネル供給を一方的に減らし、自社ブランドの生産を優先する。

約束を反故にされたソニーや東芝は、「客をなんだと思っているんだ。あの会社だけは絶対に許さない」と言って反発した。やがて状況が一変し、堺工場の稼働率が低下した時には、同業他社からの受注は大きく減っていた。

■慢心に染まった組織の末路

慢心の中で低迷した液晶事業が引き金になり、同社が経営危機に陥ったのは、それからたった数年後のことだった。

TDKの記録メディア事業と、シャープの半導体、液晶事業に共通するのは、自社技術への過度な自信と、競合相手に対する過小評価が慢心を生み出し、組織全体に広がっていったことだ。そうなると組織は知らぬ間に根拠なき楽観に依存するようになり、最終的には大きく道を誤る。

高付加価値、高品質、高性能さえ提供できれば、コストで負けていても韓国企業や台湾企業には負けない、と多くの電機メーカーが考えた理由も、根本は同じだったのだろう。慢心に染まった組織は、ちゃんとやるべきことができなくなるのだ。

慢心の罪は、思いのほか重かった。

----------

桂 幹(かつら・みき)
元外資系企業役員
1961年、大阪府生まれ。86年、同志社大学卒業後、TDK入社。98年、TDKの米国子会社に出向し、2002年、同社副社長に就任。08年、事業撤退により出向解除、TDKに帰任後退職。同年イメーション社に転職、11年、日本法人の常務取締役に就任も、16年、事業撤退により退職。

----------

(元外資系企業役員 桂 幹)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください