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日本は天皇を頂点とする家族国家である…戦時中の東京大学総長が「入学式の式辞」でそう語った本当の理由

プレジデントオンライン / 2023年3月24日 18時15分

新築当時の東京帝大大講堂(安田講堂)(写真=ノーベル書房編集部『写真集 旧制大学の青春』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

太平洋戦争中、東京大学の総長は入学式でどのような式辞を述べたのか。石井洋二郎『東京大学の式辞』(新潮新書)より、第13代総長、平賀譲(在任1938~43)の式辞とそれを聞いた学生の反応を紹介しよう――。

■太平洋戦争開戦直後の卒業式での式辞

ヨーロッパでは1939年9月、ナチス・ドイツによるポーランド侵攻を契機として第2次世界大戦が勃発しました。日本は翌年(1940年)9月、日独伊三国同盟に調印し、枢軸国のひとつとして大戦への関与を深めていきます。同年10月には近衛文麿首相を総裁として「大政翼賛会」が組織され、もはや戦争への傾斜は押しとどめることのできない情勢となりました。

そして1941年(昭和16年)12月8日、日本は真珠湾攻撃によってついに太平洋戦争の火蓋を切ります。その直後の12月27日、非常事態に鑑みて時期を3カ月早めて挙行された卒業式で読まれた平賀総長の式辞は、次のように始まっています。

本日八日畏くも大詔(たいしょう)を渙発(かんぱつ)し給ひ、米、英両国に対して戦を宣せられ、今や干戈(かんか)相見(あいまみ)え、国家の総力を挙げて征戦に従ひ、一億臣民心を一にして、我々日本人が祖先より承けた大使命の達成に邁進してゐるのであります。戦が長期戦となることは覚悟の上であります。我等は必勝の信念を堅持し、飽までこの乾坤一擲(けんこんいってき)の大戦争に勝ち抜いて、大東亜新秩序を建設し、以て世界の平和に寄与せねばなりません。

「干戈」の「干」は盾、「戈」は矛の意で、「干戈を交える」で「交戦する」の意。いよいよ米英との戦いが始まったのだから、国民が一丸となってなんとしても勝利をかちとらなければならない、そしてそれは大東亜新秩序の建設によって世界平和を実現するためなのである、というわけで、ほとんど檄文(げきぶん)に近い内容です。

■「軍艦の神様」と呼ばれる筋金入りの軍人だった

年が明けて、1942年(昭和17年)4月1日の入学式でも、新入生に向けて日本軍の武勲と戦果を賛美する言葉が述べられていますが、これと同時に、日本が天皇を頂点とするひとつの家族国家であり、教育の本義は皇室への忠孝心を教え込むことにあるという強固な信念も披瀝(ひれき)されています。

謹んで惟(おもん)みまするに、我が国は、畏くも万世一系の皇室を宗家と仰ぎ奉る、一大家族国家でありまして、君に対する忠はまた父祖に対する孝となり、家庭生活に於ける父祖への孝は祖先の大宗(たいそう)たる皇室に対し奉るの忠に達し、君臣の本義は永遠に明かなると共に、その間親子の如き情誼を湛へ、忠孝一如(いちにょ)の美風を齎(もたら)し来(きた)つたのであります。これ洵(まこと)に万古不易(ばんこふえき)の我が国体の精華であります。而(しか)して我が国の教育は先づ何よりも、この家族国家の核心をなす忠孝一如の道を如実に体得せしむるを、その第一義とすることいふ迄もありません。

天皇に忠義を尽くすことは、すなわち父祖に孝行することであり、逆もまたしかりであって、主君に仕えることと家長に従うことは同じである(忠孝一如)、そしてこの変わることのないわが国ならではの道義を教え込むことこそが教育の第一の役目である、というわけで、家父長制礼賛の典型のような内容です。

平賀譲は大学卒業後、海軍の造船技師として勤務していた経験をもち、その後は「長門」や「陸奥」を始めとして、日本海軍のおもだった戦艦の設計を次々に手がけ、「軍艦の神様」と呼ばれるまでになった筋金入りの軍人でしたから、その思想がこうした純粋な皇国史観に染めあげられたのも、無理はありません。

■軍国主義と大学自治の「板挟み」も垣間見える

もちろん彼の式辞にはこれから学問に臨む学生たちに向けての心得を説く言葉も見られますが、そこにも「諸君の今日あるは、諸君がよき素質を享けたる上に、多年蛍雪の功を累(かさ)ねたるが故でありますが、これ畢竟(ひっきょう)聖代の恵沢(けいたく)に外ならぬのであります」という一節があり、学生たちが学問にうちこめるのも、あくまで「聖代の恵沢」、すなわち天皇による治世のおかげなのである、ということが強調されています。

石井洋二郎『東京大学の式辞』(新潮新書)
石井洋二郎『東京大学の式辞』(新潮新書)

こうしてみると、平賀総長はごちごちの国家主義者のように思われるかもしれませんが、一方では太平洋戦争開戦直前の1941年10月、勅令によって学徒動員のための修業年限短縮が定められたさいにはこれに反対の立場を表明するなど、大学に軍国主義が介入することを防ごうとしたことも知られており、戦後リベラリズムに繋がる思想の持主であったという評価もあることは、記しておかなければなりません。

戦争に向かって突き進む国策には基本的に従いながらも、大学の自治はあくまで守ろうとした彼のスタンスは、押しとどめることのできない時流によって不本意ながらも強いられた、文字通りの「板挟み」であったように思われます。

■総長の式辞を学生はどう聞いたか

ところで件の入学式に出席していたと思われる学生の中には、その後戦地に赴いて「名誉の戦死」を遂げ、平賀総長が繰り返し言及している「護国の英霊」となった者も少なくありませんでした。東大戦没学生の手記を集めて戦後の1947年12月に出版された『はるかなる山河に』には、1942年4月に入学しながらほどなく戦死することになる何人かの手記が収められています。

「戦争」と書かれたニュース見出し
写真=iStock.com/y-studio
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/y-studio

そのひとりである佐々木八郎は、1922年(大正11年)3月7日生まれ、第一高等学校を経て経済学部に入学しています。彼の手記は「“愛”と“戦”と“死”─宮沢賢治作『烏(からす)の北斗七星』に関連して─」と題されていて、「僕の最も敬愛し、思慕する詩人の一人」の短編について述べたものですが、烏の大尉が敵の山烏との戦いに勝利しながらも、その遺体を手厚く葬りながら、「マヂエルの星」(大熊座、北斗七星)に向かって「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいいように早くこの世界がなりますように、そのためならば、わたくしのからだなどは何べん引裂かれてもかまいません」と祈る場面に深い感銘を受けたことが、率直な筆致で書かれています。

我々がただ日本人であり、日本人としての主張にのみ徹するならば、我々は敵米英を憎みつくさねばならないだろう。しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの、宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持なのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動のための空念仏(からねんぶつ)としか響かないのだ。そして正しいものには常に味方をしたい。そして不正なもの、心驕れるものに対しては、敵味方の差別なく憎みたい。好悪愛憎、すべて僕にとっては純粋に人間的なものであって、国籍の異るというだけで人を愛し、憎む事は出来ない。もちろん国籍の差、民族の差から、理解しあえない所が出て、対立するならまた話は別である。しかし単に国籍が異るというだけで、人間として本当は崇高であり美しいものを尊敬する事を怠り、醜い卑劣なことを見逃す事をしたくないのだ。

■「国籍が異なるというだけでなぜ殺さなければならないのか」

もしかすると友愛の情で結ばれるかもしれない相手を、国籍が異なるからというだけでなぜ憎まなければならないのか、憎むことのできない敵をなぜ殺さなければならないのか──こうした思いを抱きながら戦地に赴いた学生たちも、少なくなかったにちがいありません。「私を滅し公に奉じ、大義のためには身命を賭する」ことを説く平賀総長の入学式式辞を、彼らはどのような思いで聞いていたのでしょうか。また逆に、平賀総長はそうした学生たちの思いをどこまで想像できていたのでしょうか。

佐々木八郎がこの手記を記したのは1943年(昭和18年)11月10日、後で触れる学徒出陣に際してのことでした。軍の指導者たちの言葉を「単なる民衆煽動のための空念仏としか響かない」と喝破していた彼は、やがて同年12月に出征し、1945年(昭和20年)4月14日、終戦まであと4カ月というところで、特攻隊員として出撃した沖縄海上で戦死しています。

■反天皇制・反軍国主義が赤裸々に記された日記

1942年(昭和17年)9月25日には半年繰り上げての卒業式が催され、このときは内閣総理大臣の東條英機が軍服姿で出席して演説をおこなっています。また、文部大臣の橋田邦彦も一緒に臨席していましたが、彼はもと東京大学教授で、実験生理学の開拓者として知られる生理学者・医学者です。大学の修業年限を短縮して学徒動員を進めようとする軍部と、これに抵抗する諸大学の間に立って、困難な調整役を務めましたが、彼自身は軍部の意向に反対の立場で、東條英機とはそりが合わなかったとも言われています。

しかし戦後はGHQによってA級戦犯容疑者とされ、警察が自宅に迎えにきたときに服毒自殺しました。彼もまた、戦死者とは別の意味で戦争の犠牲者だったと言えるでしょう。

卒業式から1週間後の10月1日には、例外的にこの年2度目となる入学式が挙行されています。そこに出席して平賀総長の式辞を聞いていたと思われるもうひとりの学生が、終戦間近な1945年5月6日に記した日記から──

灰燼(かいじん)の中から新たな日本を創り出すのだ。国体を云々する輩のため日本は小さな跼蹐(きょくせき)たる世界に齷齪(あくせく)していた。新緑の萌え出るような希望と明るさ、生命の躍動した日本を。日本の今までの国がわれわれの希望であったことは否定出来ぬ。また万世一系の皇統を云々する心微塵もない。だがその皇統、国体のゆえに、神勅あるがゆえに現実を無視し、人間性を蹂躙し、社会の趨くべき開展を阻止せんとした軍部、固陋(ころう)なる愛国主義者。彼らが大御稜威(おおみいつ)をさまたげ日本を左右して来たのが最近のありさま。宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい。本当に感謝し、隣人を愛し、肉親とむつび、皆が助け合いたい。

■終戦3カ月前というところで戦災死を遂げた

「宮様と平民、自分はもうかかる封建的な、人間性を無視したことを抹殺したい」などは、当局に見つかれば逮捕間違いなしの言葉に満ちた、歯に衣着せぬ反天皇制・反軍国主義の内容ですが、人間性と隣人愛への純粋な志向は佐々木八郎と共通しています。

書き手は住吉胡之吉(このきち)、1921年(大正10年)2月15日生まれで、1942年10月、平賀総長が主導して戦争に役立つ人材の育成を目的に千葉市の弥生町に新設されたばかりの第二工学部電気工学科に入学した学生です。彼は理系学生だったので、翌年の学徒出陣の対象にはなりませんでしたが、1944年末から航空研究所に動員され、この日記を記してまもない1945年5月24日、自宅に戻っていたところで家族6人とともに戦災死を遂げました。

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石井 洋二郎(いしい・ようじろう)
東京大学名誉教授
1951年生まれ。専門はフランス文学・思想。東京大学教養学部長、理事・副学長などを務め、現在中部大学特任教授、東京大学名誉教授。『ロートレアモン 越境と創造』(筑摩書房)など著書多数。

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(東京大学名誉教授 石井 洋二郎)

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