1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

この時、芸に開眼した…失言で重職を追われた立川談志が、直後の高座で大笑いをさらった「伝説のあいさつ」

プレジデントオンライン / 2023年3月31日 14時15分

落語家・立川談志(1983年撮影) - 写真=時事通信フォト

なぜ落語家・立川談志は名人と呼ばれるのか。作家で落語立川流元顧問の吉川潮さんの著書『いまも談志の夢をみる』(光文社)より、国会議員時代の立川談志が「芸に開眼した」というエピソードを紹介する――。

■笑点に対し談志が思っていたこと

68年になると、〈談志ひとり会〉開催は年4回に激減した。マスコミの仕事が忙しくなったからだ。テレビのレギュラー番組は『笑点』の他に2本、ラジオが1本、映画出演が4本と多忙を極めた。69年は6回開いた。

そして、11月に『笑点』を降板する。『金曜夜席』の頃のように、大人に受けるブラックジョークをやりたい談志に対し、放送時間が日曜夕方になったのだからそれは困る、と反対する他のメンバーやスタッフ、スポンサーと対立したのが原因と言われる。

降板以後、談志はスポンサーだったサントリーの商品を絶対飲まなかった。よほど腹に据えかね、根に持っていたのだろう。

自分が企画し、人気番組にした『笑点』が、その後50年以上も続くとは、思ってもみなかったはず。番組の40周年の年、私にこう漏らしたものだ。

「俺はとんでもない化け物を作っちまったのかも知れないな」

自分が思い描いた大喜利とは、まるで違った方向に至ったにもかかわらず、高視聴率を誇る『笑点』が、創設者の目にはモンスターに映ったのだろう。

■立川談志はなぜ選挙に出馬したのか

1969年12月に衆議院選挙があり、談志はいきなり立候補を表明した。当時は中選挙区制で、出馬したのは中央区、台東区、文京区を含む東京8区。その理由を、私が聞き役を務めた『人生、成り行き』(新潮文庫)の中でこう語っている。

「立候補はまったくの興味本位でした。(中略)折角なんだから、酒が美味くて、女がキレイで、土地が高い所から出ようじゃねえか。だから銀座から出よう。この発想はどこから来たかと聞かれたら、直感からだ、そして感じたものをそのまま実行するのを英知という、と」

組織に頼らない選挙にもかかわらず2万票近く集めたが、惜しくも落選。私が大学を卒業した1971年の6月に行われた参議院選挙に全国区で立候補して当選、雪辱を果たした。

■思わず涙したある演目

談志は国会議員になっても、落語をおろそかにするような人ではない。紀伊國屋ホールでの〈ひとり会〉は毎月開催し、目黒の権之助坂に「目黒名人会」という寄席を作り、自ら出演するのはもちろんのこと、師匠連に出演を依頼して番組を組んだ。

72年から73年の2年間、私は一度も談志の落語を聴いていない。金銭的に余裕がなかったのと、夜のアルバイトで忙しかったからだ。久しぶりに紀伊國屋ホールへ出向いたのは74年1月の〈談志ひとり会〉だった。そこで「火事息子」を聴いて目が覚めた。親子の情愛を描いた人情噺で、親不孝な息子を案じる母親が自分の母親と重なり、気が付いたら泣いていた。

これほど心を打ち、魂を揺さぶるような感動がある落語の素晴らしさを改めて認識した。終演後、「落語の魅力を人に伝える物書きになれたら」と、思いながら帰途についた。談志が進むべき道を示してくれたと言っていい。

落語界には、談春が「芝浜」を聴いて弟子入りを決意したみたいに、あの師匠のあの噺を聴いて道を決めたということがよくある。私の場合は談志の「火事息子」を聴き、落語について書く決心をしたのである。

■38歳の談志がインタビューで語ったこと

放送作家として一本立ちして、構成台本を書く仕事を始めた矢先、大学の同窓、M君が、「ライターになりたいなら、新聞記者を紹介しようか」と、彼と同郷で高校の先輩である報知新聞の野球記者、瀬古正春さんを紹介してくれた。

元ジャイアンツの番記者で、長嶋茂雄の信頼が厚いという。傍ら、新宮正春のペンネームで小説を書いていて、小説現代新人賞を受賞している。

瀬古さんは私を文化部長のところに連れて行き、「演芸に強いそうですから戦力になると思います」と推薦してくれた。当時、報知には演芸担当記者がおらず、演劇担当の安達英一さんが兼務していた。

私は安達さんの下に付く形で記事を書くことになった。安達さんのお父上は東宝映画のプロデューサーで、談志が出演した『落語野郎シリーズ』のプロデュースをした方。不思議な縁である。

1974年9月から、「寄席通」というコラムを書かせてもらえることになった。演芸に関する内容なら何でもいいという。無署名で掲載は不定期、原稿は安達さんのチェックを受けるのが条件だが、26歳の駆け出しライターには願ってもない仕事である。1回目は古今亭志ん生の一周忌法要のリポートで、2回目が念願の談志のインタビューだった。

取材場所は参議院の議員宿舎で、部屋を訪ねると秘書が待っていて、間もなく談志が弟子を引き連れ入ってきた。国会議員になって3年目の38歳。細身のスーツに細いネクタイをして、売れっ子芸人特有のオーラを放っていた。中学生の頃からファンだった落語家と対面して、ひどく緊張したのを覚えている。

■すべては落語のため

挨拶がすむと、談志は「なんでも聞いてくれ」と言った。以下は質疑応答の記事の抜粋である。

【私】まず、これからの落語界について伺いたいですが。

【談志】僕がいる限り、落語は衰退させませんよ。

【私】若手の売れっ子は、落語以外の仕事が多過ぎて、落語をおろそかにしている傾向があるようですが。

【談志】マスコミに対して落語の部分を切り売りして、落語を宣伝するのはいいんだ。でも、落語以外のところに栄光があっちゃいけない。最終的には落語で栄光をつかまにゃ。(中略)だって、今トリで客を呼べるって言ったら、圓生、小さん、談志、志ん朝、円楽くらいのもんでしょ。もっと実力と人気を兼ね備えた若手を育てなきゃ。

【私】政治については?

【談志】こんなことやらなきゃもっと落語に専念できるんじゃねえかって言う人もいますけど、僕の持つ業ってのか、しようがねえんだな。落語家の現実体験としちゃ面白えし、まあ、権力をいい意味で利用してね。なんとか落語界のプラスになるようにできりゃいいよ。(中略)

【私】最後に一言。

【談志】寄席に客が来ないのは、芸人がてめえの芸に自信をもたないからなんです。芸人あっての客なんです。僕は絶対客に媚びない。

自分を「僕」と言っていることに注目だ。私の知る限り、家元の一人称は、「あたし」か「俺」である。国会議員なのを意識して、「僕」だったのかも知れない。

■駆け出しのライターにかけた優しい言葉

「ありがとうございました」と挨拶してテープレコーダーをしまう私に、談志が訊いた。

「あなたは報知の演芸担当なの?」
「いいえ、フリーのライターで演芸評論家志望です」

すると談志は、「ふーん」と、意外そうな顔をして、「それは奇特なこった。金にならないだろうに」と言った。

「でも、好きな道ですから」
「うん。落語家になる奴らもそうなんだ。好きな道で栄光がつかめるといいがね」

若造のライターに、談志は優しい言葉をかけてくれた。感激したのは言うまでもない。

この日以来、私は談志の周辺に起こる様々な出来事を、まるで「番記者」のように取材することになる。

■「あなたは公務と酒とどっちを取るんですか」

1975年12月、談志は三木武夫内閣の沖縄開発庁政務次官に就任、翌年1月に海洋博視察を兼ねて沖縄を訪問した。沖縄には趣味のスキューバダイビング仲間が大勢いた。彼らは歓迎会を開いてくれ、談志は酩酊(めいてい)したあげく、翌日の記者会見に二日酔いで出席する。

怒った記者たちは意地悪な質問に終始し、談志をイラつかせた。「あなたは公務と酒とどっちを取るんですか」という愚問に対し、「酒に決まってるだろ」と答えると、会場内が騒然としたらしい。

それで会見は打ち切り、翌日には全国紙が一斉に朝刊で糾弾する論調の記事を書いたことで、閣内が揉めた結果、辞任に追い込まれる。その裁断に不満な談志は自民党を離党し、元の無所属に戻った。

本当なら取材したいところだが、政治ネタなので演芸担当の出る幕ではない。しかたなく、出演している浅草演芸ホールに出かけた。

浅草演芸ホール
写真=iStock.com/TkKurikawa
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/TkKurikawa

談志が高座に上がると、満員の客席から割れんばかりの拍手が起こった。

「やっと最下位で当選して、政務次官になったと思ったら、やられた!」

頭を抱えたらドカーンと受けた。続いて、かばいもせずに辞任させた植木光教沖縄開発庁長官を批判した。

■芸に開眼したある瞬間

「あのバカ、ただじゃぁおかねえ。今度あいつの選挙区で、共産党から出て落としてやる」

さらに大きな爆笑だ。

吉川潮『いまも談志の夢をみる』(光文社)
吉川潮『いまも談志の夢をみる』(光文社)

「俺はイデオロギーより恨みを優先させる人間だからな」

客席をひっくり返すような笑いの渦であった。私も大笑いした。聞き書き『人生、成り行き』の中で、談志は「この時、芸に開眼した」と語っている。

ここで〈芸〉は、うまいまずい、面白い面白くない、などではなく、その演者の人間性、パーソナリティ、存在をいかに出すかなんだと気が付いた。少なくとも、それが現代における芸だと思ったんです。いや、現代と言わずとも、パーソナリティに作品は負けるんです。

77年は参議院議員の任期が終わる年だった。談志は政界に嫌気がさしたようで、選挙の2カ月前に不出馬を宣言した。芸に開眼したのだから、落語に専念するのは必然であったろう。

----------

吉川 潮(ヨシカワ・ウシオ)
作家、演芸評論家
1948年茨城県生まれ。立教大学卒業後、放送作家として活躍するかたわら、演芸評論家、小説家として表現の場を広げる。立川談志の依頼を受け、2002年に一年間の見習い期間を経たのち、2003年から立川流の顧問に就任。談志没後3年の2014年まで顧問を務めた。著書に新田次郎文学賞を受賞した『江戸前の男 春風亭柳朝一代記』(新潮文庫)、尾崎秀樹記念・大衆文学研究賞を受賞した『流行歌 西條八十物語』(ちくま文庫)など多数。

----------

(作家、演芸評論家 吉川 潮)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください