1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

秀吉、家康は信長のマネをするだけだった…天才・織田信長が建てた岐阜城とそれまでの城の決定的な違い

プレジデントオンライン / 2023年4月2日 20時15分

織田信長像の複製(画像=KKPCW/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

織田信長はどんな人物だったのか。歴史評論家の香原斗志さんは「独創的な思考を具現化する天才だった。例えば築城に際して、それまでの城は地味で簡素だったが、彼は華美に装飾された『見せる城』を造った。以後、信長が造った城の形状が標準になった」という――。

■信長以前の城と、以後の城の大きな違い

NHK大河ドラマ「どうする家康」はCGを多用している。賛否両論があるようだが、初回に登場した大高城(愛知県名古屋市)にしても、家康の本拠の岡崎城(同岡崎市)にしても、永禄年間(1558~70)の城の様子がCGで再現されることには意味がある。

城というと広大な水堀に囲まれ、高い石垣がめぐらされ、白亜の天守がそびえる、という光景をイメージする人が多いが、戦国時代の城の様相は、このような近世の城とはだいぶ違う。一部に石垣が導入されてはいても、基本的には土塁と空堀でかためられた土の城で、建物は簡素。基本的に瓦も葺(ふ)かれておらず、もちろん天守などなかった。

CGで構成された岡崎城を見て「砦みたい」という感想を抱く人が多いようだが、実際、当時の岡崎城は、現代人の感覚からすると「砦みたい」だったのである。

そこに、いわば「革命」を持ちこんだのが織田信長だった。

■初期の信長の城にあった意外なもの

徳川家康が三河一向一揆と格闘していた永禄6年(1563)9月、信長は居城を清洲城(愛知県清須市)から小牧山城(同小牧市)に移転した。

当時、尾張国(愛知県西部)の領主だった信長は、斎藤氏が治める美濃国(岐阜県南部)の攻略が悲願だった。三河国(愛知県東部)を治める家康と同盟を結び、領土の東側への心配がなくなったのを機に、斎藤氏の稲葉山城(のちの岐阜城)を遠望でき、美濃を攻めるのに好適な城を居城にしたのだ。

ただし、近年まで、小牧山城は美濃攻略のために急造した臨時の城だと思われていた。事実、信長はそれから4年後の永禄10年(1567)8月、稲葉山城を落城させ、美濃を自分の領土に併合することに成功する。そのあいだのかりそめの城――。そんなイメージだったのだが、それは発掘調査によって見事に覆された。

標高86メートルの小牧山山頂、すなわち城の主郭(本丸)の周囲から、信長が築いたと考えられる石垣が出土し、平成26年(2014)までに、その石垣が3段で構成されているのがわかったのだ。

■原形をとどめないほど山を改造

まだ石垣を高く築く技術が足りないので、3段に分け、セットバックをもうけながら積まれていたが、そこには長さが2メートル、1個の重量が2トン程度はある巨石が数多く積み上げられていた。また、主郭に入るための虎口(出入口)も、まっすぐ突き進めないように複雑に構成され、石垣でかためられていた。

当時の城は工期を短縮するためにも、技術的な未熟さからも、既存の地形を極力いかして築かれるのがふつうだった。ところが、小牧山城の山頂部は、原形をほとんどとどめないほど成形され、城に使われた前例がないほど巨大な石が並べられていた。しかも、背面には排水性を確保するための裏込め石がしっかりと組み込まれた、かなり本格的な石垣だった。

山頂の主郭は信長が住む場所だったはずだ。その周囲に巨石をもちいて積まれた石垣は、訪れた人を畏怖させるための「見せる」石垣だったと考えられる。石垣を「見せる」ために築いたのは、もちろん、信長が最初である。

小牧山山頂に建つ小牧市歴史館
小牧山山頂に立つ小牧市歴史館。(画像=Bariston/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■時代を先取りしたまちづくり

小牧山城の先進性は石垣にとどまらない。たとえば、山麓から中腹まで150メートルほどまっすぐ続く大手道。その両側には重臣たちの屋敷が建ち並んでいたと思われる。一般に登城路は、敵がまっすぐ侵入できないように複雑に折れ曲がっているイメージがあるが、信長の発想は違う。

もちろん、信長も中腹から主郭は通路を複雑に屈曲させているが、中腹まではあえて道を真っすぐにした。おそらく、自然を切り開いた直線道路を「見せる」ことで、自身の威厳を示すと同時に、道の両側に屋敷を構える重臣たちを見通しのいい道路によって丸裸にし、信長に抵抗するすべをあたえない、という一挙両得をねらったのだろう。

また、城下町も直線道路で区切られ、街路ごとに武家屋敷、鍛冶屋町、紺屋町など、同職集住がはかられ、下水設備も整っていた。江戸時代の城下町を思わせる先進的なまちづくりがなされていたのだ。

ところが、これだけ手をかけた先進的な城を、信長はたった4年で躊躇なく捨ててしまった。美濃を平定すると、斎藤氏の居城だった稲葉山城を自身の本拠地にして小牧山から移転。井之口とよばれていた城下町を岐阜と改名し、その名もあらたな岐阜城に大改修をほどこした。

じつは、領土を拡張するたびに居城を移転するのは、けっして戦国大名の常識ではなかった。たとえば、武田信玄は甲府(山梨県甲府市)の武田氏館にとどまったし、上杉謙信は春日山城(新潟県上越市)を出ることはなかった。毛利輝元も秀吉に臣従するまでは吉田郡山城(広島県安芸高田市)から動くことはなかった。

徳川家康が領土を広げるたびに、岡崎城から浜松城(静岡県浜松市)、さらに駿府(静岡県静岡市)へと居城を移したので、それがふつうのように思いがちだが、家康は同盟相手の信長に倣ったにすぎない。居城の移転も、常識にとらわれない信長らしさの表れなのだ。

■宣教師が見た岐阜城の豪華さ

岐阜城は標高329メートルの金華山上に築かれている。このため、山上の城郭と山麓の城主の居館に分かれるという二元構造にならざるをえず、その点では旧時代を踏襲していた。しかし、そうだとしても信長はやることが違う。従来の「砦みたい」な城とは似ても似つかない、驚くべき構造と絢爛(けんらん)豪華な建築を導入したのだ。

イエズス会のポルトガル人宣教師、ルイス・フロイスが著書『日本史』に、岐阜城を案内されたときに目にしたものを書き残しているので、一部を引用したい。(松田毅一・川崎桃太訳『完訳フロイス日本史2』中公文庫より)

「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます」
「内の部屋、廊下、前廊、厠の数が多いばかりでなく、はなはだ巧妙に造られ、もはや何もなく終わりであると思われるところに、素晴らしく美しい部屋があり、その後に第二の、また多数の他の注目すべき部屋が見出されます」
「私たちは、広間の第一の廊下から、すべて絵画と塗金した屏風で飾られた約二十の部屋に入るのであり、(中略)これらの部屋の周囲には、きわめて上等な材木でできた珍しい前廊が走り、(中略)この前廊の外に、庭と称するきわめて新鮮な四つ五つの庭園があり、その完全さは日本においてははなはだ稀有なものであります」
「二階には婦人部屋があり、その完全さと技巧では、下階のものよりはるかに優れています。部屋には、その周囲を取り囲む前廊があり、市の側も山の側もすべてシナ製の金襴の幕で覆われていて、そこでは小鳥のあらゆる音楽が聞こえ、きわめて新鮮な水が満ちた他の池の中では鳥類のあらゆる美を見ることができます」
「三階は山と同じ高さで、一種の茶室が付いた廊下があります。それは特に精選されたはなはだ静かな場所で、なんら人々の騒音や雑踏を見ることなく、静寂で非常に優雅であります。三、四階の前郎からは全市を展望することができます」
現在の岐阜城。1956年に建てられた模擬天守
現在の岐阜城。1956年に建てられた模擬天守。[画像=HOSTで巡査部長(硫黄島観賞)/CC-BY-3.0/Wikimedia Commons]

■前代未聞の高層建築

フロイスが描写した山麓居館の跡地からは、発掘調査の結果、長さ3メートル近い巨石を並べ、まっすぐ進めないように喰い違いにした虎口が見つかった。その先の雛壇に造成された区画からは、庭に玉石を張った池も出土した。また、中央には信長が石で護岸した谷川がいまも流れ込み、その北側からは大きな庭園が発見され、背後の岩盤から滝が流れ落ちていたことがわかった。

そしてなにより、4階建ての建物があったという記述が注目される。それまで日本には4階を超える高層建築はほとんどなかった(床がない五重塔は5階建てではない)。周囲からは金箔(きんぱく)瓦も発見され、この4階建ての建築が、安土城の絢爛豪華な五重の天主に発展したことは疑う余地がない。

■日本初の天守の可能性

さらに信長は、あちこちに岩盤が飛び出る山上も手を抜かずに整えていた。フロイスはこう書いている。

「この前廊に面した内部に向かって、きわめて豪華な部屋があり、すべて塗金した屏風で飾られ、内に千本、あるいはそれ以上の矢が置かれていました」

これが天守についての記述かどうかはわからない。だが3年ほど前、現在、鉄筋コンクリート造の天守が建っている天守台の周囲から、信長時代の天守台の石垣が発見された。高層建築かどうかはわからないが、天守相当の建物が山上にもあったのはまちがいない。

■大坂城も江戸城も信長なしでは考えられない

長く続いた戦国の群雄割拠から抜け出し、久しぶりに権力をひとりのもとに集中させていった信長。だから、それまでにない規模の途方もない工事をほどこして、「砦みたい」だった城を、われわれが「城」と言われて思い描くものに、いや、ある意味、多くの人の想像を超えるほど豪華なものに変えていった。

もちろん、権力が集中しただけでは、時代を画するほどの構造物を出現させることはできない。そこには信長ならではの独創性が、押しつけがましいほどに表れている。

豊臣秀吉の大坂城も、徳川家康の江戸城や駿府城、名古屋城も、結局は信長の独創的な築城があってこそ、その延長に出現し、発展することができた。

信長が本能寺で横死せずに生きながらえていたら、日本の歴史的景観は、現況とはかなり違ったものになっていたのではないだろうか。私はついついそんな夢想をしてしまう。

----------

香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。小学校高学年から歴史に魅せられ、中学時代は中世から近世までの日本の城郭に傾倒。その後も日本各地を、歴史の痕跡を確認しながら歩いている。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。著書に『イタリアを旅する会話』(三修社)、『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)がある。

----------

(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください