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現場にある「日本の心」にほれ込んだ…キューバの英雄・ゲバラが「無名時代のトヨタ工場」を見に来たワケ

プレジデントオンライン / 2023年3月31日 9時15分

故チェ・ゲバラ氏(左)とラウル・カストロ氏(キューバ・ハバナ) - 写真=AFP PHOTO/BOHEMIA/時事通信フォト

キューバ革命を主導したチェ・ゲバラ氏は1959年に日本を訪れ、トヨタ自動車をはじめとするメーカーの生産工場を積極的に視察した。ゲバラ氏はなぜ、当時無名だったトヨタを視察先に選んだのか。『図解 トヨタがやらない仕事、やる仕事』(プレジデント社)を上梓した野地秩嘉さんが解説する――。

■大切な情報はオフィスではなく、「現場」で話す

トヨタには現地現物という言葉がある。言葉の起源は創業者の豊田喜一郎だ。

同社社史にはこうある。

「幼時より機械に常に接近していたので訳なく(機械の操作が)出来てしまった。エンジニアーは機械を身内と考へ何時も機械にタッチしていることが最も肝要である。」

喜一郎はつねに工場の現場で機械のそばにいた。もしくは自分で操作していた。このことを踏まえ同社では、「実際に現物で事実を理解する『現地現物主義』は創業者から始まった」としている。

孫にあたる社長、豊田章男(4月から会長)もまた現地現物の人だ。時間があればいつもの作業服姿で本社に隣接する工場へ出かけ、現場の作業者と立ち話をして帰ってくる。

さらにいえば、大切な情報を伝えるのもまずは現場からだ。

富士山のふもとに建設中のウーブンシティについて、トヨタが最初に発表したのは2020年1月、ラスベガスで開かれたCES(コンシューマー・エレクトロニクス・ショー)とされている。しかし、事実ではない。それより1年半も前、豊田は富士の裾野にあるトヨタ東日本の工場にいた。ウーブンシティ建設のために東北へ移転する現場の作業者に説明を行うためだった。

集会のなかで、ある作業者が質問した。

■「一個人としては何もできないんだ、オレは」

「豊田社長、ここには、いろんな人間がいます。これから、東北に行って、また車を作っていこうという人、本当は行きたいけれど、家族のことを考えると、一緒には行けないからやめざるを得ない人。

そういう人たちのことを考えると、喜んで向こうに行くのはどうかなと考えてしまうんです。正直、いろいろあるんで、今後、トヨタがどうなっていくのか。未来のビジョンというか、そういうのがあったら、わかっている範囲でいいので、考えていることを教えていただければありがたいんですが」

豊田は、うん、とつぶやいた後、話し始めた。

「横須賀(の工場)からこちらに来たという人、いますね。当時、まだ関東自動車でした。その人たちは今度、東北へ移ると、2度目の移転ですね。それは私もよくわかっています。ご苦労をかけます。

【連載】「トヨタがやる仕事、やらない仕事」はこちら
【連載】「トヨタがやる仕事、やらない仕事」はこちら

さて、最初の移転の後、東日本大震災が起きました。日本の約半分が壊されて……。トヨタは何をするの、豊田章男、おまえには何ができるんだと問いかけられました。ただ、その時に私が思ったのは無力感ですね。一個人としては何もできないんだ、オレはと思った。

でも、何かやらなくちゃいけない。まずはトヨタ自動車東日本を作ることにしました。会社を統合して、東北の復興をやり、雇用をつくる。車をつくる、部品メーカーを誘致し、会社が儲(もう)かり、税金を払い続けていく。

一個人は無力だけれど、トヨタのみんなでやればできるんじゃないか。それで、東北への工場移転を決めました。

■自動車の形が「どうなるかさえわかっていない」

その時、東富士は残しました。ですが、正直言いまして、日本市場の落ち込みは続いてます。どんどん売れる車をつくっていこうとはしているものの、なかなか、そうはいかない。売れる車がだーっとできればいいんですけど、それを待っていてもしようがない。

今、自動車業界は100年に一度の大変革です。となると、今までみたいに、よい車をつくった、売れた。よし、どんどん工場を稼働させていくぞ。そんな単純なことではやっていけない時代になってます。

自動車自体が大きく変わろうとしていて、自動運転、シェアリング、MaaS……。自動車というものの形がどうなるかさえわかっていない。

変革の時代、東富士工場の跡地は、私は自動運転とかMaaSとかを実証するコネクティッドシティにしようと決めました。ここにある匠(たくみ)の技術を未来の車に載せることにしました。未来の車にみんなの気持ちを乗せたい。自動運転、水素社会、再生エネルギー事業……。実際には住宅を作ります。車を走らせ、コンビニを置き、一大物流拠点にするかもしれない。自動運転車を走らせます。トヨタグループだけでなく、ベンチャー企業も誘致したいと考えています。(略)」

■つらいことほど、トップが引き受ける

「東北に行くみなさん、事情があって、行けないみなさんにも、ここに東富士工場があったことは忘れないでもらいたい。ここは未来の自動車づくりに貢献できる聖地に変わります。それをみなさんに約束します」

通常、工場を閉鎖して移転するといった発表のためだけに経営トップが現場まで出ていくことはない。だが、豊田は担当幹部にまかせず、自ら赴いた。

もうひとつある。

2021年、同社の男性社員が自殺したケースが労災認定された。豊田は報道された直後と和解が成立した時の2度、遺族の元を訪れて、直接謝罪している。彼にとっては部下が起こしたパワハラ事件であり、被害者もまた部下だ。やるせない気持ち、くやしさがあっただろう。遺族の元へ行くのはつらかっただろう。しかし、彼は幹部にまかせないで、自ら行動した。

これがトヨタの現地現物だ。現場でラインを見つめてカイゼンすることだけが現地現物ではない。つらいことはトップが引き受ける。率先垂範はトヨタの魂だ。

■現地現物を実践したキューバの英雄

エルネスト・ゲバラ(1928年~67年)は、アルゼンチン生まれの政治家、革命家である。愛称でチェ・ゲバラと呼ばれ、フィデル・カストロとともにキューバ革命を達成した。キューバ革命が達成されたのは1959年の1月1日。このへんの雰囲気を知るには『ゴッドファーザー パート2』(1974年)を見ればいい。キューバ革命のシーンがある。

往時、日本の若者の間でゲバラはヒーローだった。ゲバラの顔を描いたTシャツとベルボトムのジーンズをはいた若者が学生運動にのめりこんでいた。ただし、当時の若者は今や70代になっているだろうから、ベルボトムではなく、ユニクロのヒートテックを着ている。

キューバ革命の英雄はカストロだったけれど、若くして死んだゲバラのほうが人気が高かったのである。

革命は現場にいなくてはできない。ゲバラはキューバ革命後、新政府の要職についたが、いつまでも革命家でいたかった。彼は職を捨ててボリビアへ赴き、ふたたび革命に身を投じた。しかし、捕らえられ射殺される。その時、ゲバラはまだ39歳だった。

■“無名”のトヨタをなぜ選んだのか

さて、キューバ革命からわずか7カ月後、1959年7月、国立銀行の総裁になっていたゲバラは来日した。政府の通商代表団を率いて日本にやってきたのだが、日本共産党との友好関係を樹立するためにやってきたわけではない。ゲバラの役目は日本との交易、通商関係を進めることだった。世界同時革命の達成が目的ではなかった。

日程は東京、名古屋、大阪における工場見学が主だ。東京ではソニー、名古屋では新三菱重工業(現三菱重工業)とトヨタ。大阪では久保田鉄工(現クボタ)の工場を見学している。社長や会長との懇談ではなく、メーカーの現場を回って、現地現物を実践したのだった。

トヨタで見学したのはトラックとジープの生産ラインである。残念なことにトヨタにおけるゲバラの言動は残っていない。当時の日本人にとってキューバは共産主義国家であり、ゲバラはその幹部だ。日本の企業としては礼儀は守ったけれど、歓待したわけではなかった。

ギアボックス
写真=iStock.com/coffeekai
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/coffeekai

何より当時のトヨタはまだグローバル企業ではない。乗用車もクラウンとコロナしか出していなかった。販売台数は約30万台。日産は約20万台だったが、どちらも商用車が主だった。アメリカのビッグ3に比べれば赤ん坊みたいな自動車会社だった。

■「すべての人が働く意欲にみちている」

それでもゲバラが注目してやってきたのだから、トヨタは何かを持っていたのだろう。そして、今となっては「ゲバラが来た自動車会社」というのはトヨタにとっては悪いことではない。南米でトヨタの車を販売する時、親しみを持ってもらうことができる。なんといってもゲバラは南米ではいまだに根強い人気を保っているからだ。

ゲバラは日本の生産現場を熱心に見学している。

そして、彼は日本の工業力と日本人の勤勉さに感銘を受けた。作家、三好徹の『チェ・ゲバラ伝』(文春文庫)には次のようなことが載っている。

「かれ(ゲバラ)のその後の文章や演説中に、しばしば日本の工業力をほめる言葉が見られる」(同書)

そして、ゲバラに同行したキューバのフェルナンデス大尉も次のように述べている。

「チェは日本に行く前、日本人の精神力というか、日本の心を高く評価していた。日本人がきわめて勤勉だということも理解しており、日本を訪問国に選んだ動機のひとつにもなっていた。その面について、じっさいに日本へ行き、大阪で工場見学をしたり、東京でソニーの工場を見たりして、その考えが間違っていなかったということを認識した。(中略)

日本の若い世代が非常に進歩的だという感じもうけた。日本の前にインドに行ったときは、国自体がなにかダランとしてゆるんでいるように見えた。少しも働こうとしていなかった。日本では、すべての人が働く意欲にみちていると思った」(同書)

■生涯、現場に身を置くことを望んだ

名古屋から大阪へ行った後、ゲバラは自らの意思で当初の訪問予定にはなかった広島へ向かった。「原爆慰霊碑に献花したい」という強い願いからだった。

広島でのことは県の案内役、見口健蔵氏の談話が残っている。

「『眼がじつに澄んでいる人だったことが印象的です。そのこと(原爆について)をいわれたときも、ぎくっとしたことを覚えています。のちに新聞でかれが工業相になったのを知ったとき、あの人物はなるべき人だったな、と思い、その後カストロと別れてボリビアで死んだと聞いたときも、なるほどと思ったことがあります。わたしの気持としては、ゆっくり話せば、たとえば短歌などを話題にして話せる男ではないか、といったふうな感じでした』」(同書)

ゲバラが死んだのは来日してから8年後、ボリビアの山のなかだった。彼は生涯、革命家で、キューバ政府で要職を務めることよりも、現場へ行くことを望んだ。だから、本望だったろう。革命家として現場を愛し、虐げられた人民とともに立ち上がった政治家だった。本来、政治家とはそういうものではないか。

野地秩嘉『図解 トヨタがやらない仕事、やる仕事』(プレジデント社)
野地秩嘉『図解 トヨタがやらない仕事、やる仕事』(プレジデント社)

ゲバラはトヨタでも現場を見た。現場にトヨタの本質があると感じたのだろう。

そんなトヨタの本質は今もなお現場にある。現地現物は新体制になっても変わることはない。佐藤(恒治)新社長は会見でこう言っている。

「私はエンジニアで長くクルマ造りに携わってきた。クルマを造ることが大好き。だからこそクルマを造り続ける社長でありたいと思っている」

豊田章男新会長、佐藤恒治新社長はこれまで通り、作業服を着続けるだろう。工場やサーキットにも足を運ぶ。トヨタのトップは現場に行って現場で考える。そして、現場で喜ぶ。革命家、ゲバラのように。

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野地 秩嘉(のじ・つねよし)
ノンフィクション作家
1957年東京都生まれ。早稲田大学商学部卒業後、出版社勤務を経てノンフィクション作家に。人物ルポルタージュをはじめ、食や美術、海外文化などの分野で活躍中。著書は『トヨタの危機管理 どんな時代でも「黒字化」できる底力』(プレジデント社)、『高倉健インタヴューズ』『日本一のまかないレシピ』『キャンティ物語』『サービスの達人たち』『一流たちの修業時代』『ヨーロッパ美食旅行』『京味物語』『ビートルズを呼んだ男』『トヨタ物語』(千住博解説、新潮文庫)、『名門再生 太平洋クラブ物語』(プレジデント社)、『伊藤忠 財閥系を超えた最強商人』(ダイヤモンド社)など著書多数。『TOKYOオリンピック物語』でミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。旅の雑誌『ノジュール』(JTBパブリッシング)にて「ゴッホを巡る旅」を連載中。

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(ノンフィクション作家 野地 秩嘉)

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