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「人をイラつかせるバカには微笑みかけろ」哲学者が教える周囲に振り回されずに生きる"たった1つの方法"

プレジデントオンライン / 2023年3月30日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/maruco

他者を攻撃する相手にはどう対応すればいいか。フランスの哲学者のマクシム・ロヴェールさんは「敵意のぶつけ合いになると、そこから抜け出せなくなる。人をイラつかせたり、苦痛を与えてくる相手には『道徳を実践するいい機会』と捉えて、微笑みかけるべきだ」という――。

※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。

■バカの言動にぼう然としても気をとりなおすには

(海水浴場にて。大きな音で音楽をかけている人と、そのそばに来た人の会話)

「すみません、こんにちは……。ここの砂浜、すごくいいですよね」
「はあ」
「信じられないなあ、この広さ、開放感……」
「……」
「やっぱりスピーカー持参ですよね、好きな音楽を聴くのは楽しいからなあ」
「はあ」
「うん、ぼくも大好きで、イヤホンを持ってきたんですけどね……。うーん。うちのパラソルの影、ご迷惑になったりしませんか?」
「いや。どうせ影は動いていくしね」
「ちょっとお願いが……つまり、そのほうが、みんながもっと楽しめるかもしれないなって……。音のことなんですが……」
「音が何か?」

本稿の内容
・バカは「苦痛」だが「悪」ではない。人は無意識の推論により、「苦痛」と「悪」を混同してしまう。

・バカと出会うのは、他の人と出会うのと同じ「出来事」であり、こちらの対応次第で、良い結果にも悪い結果にもなる。

■バカはすぐうつる

先の記事では、バカに接するとバカになるという悪循環についてお話しし、その環のことを、「蟻地獄」と呼びました。

そんなことになるのは、バカが「バカ証明書」を首からぶらさげていないからです(「バカ証明書」が、よく見えるようになっていれば、早めに距離を取ることもできるでしょうに)。

それに、バカには極めてうつりやすいという特徴があり、バカがひとりいると他の人もあっという間にバカになります。

人をバカだと思ったときには、自分もバカになりはじめています。なぜなら、人をバカだと思うということは、冷静さと分析能力をなくしているということだからです。

したがって、バカな人たちから逃れようともがけばもがくほど、新たなバカが「自分の中に」生まれる手助けをすることになります。SF映画よりおぞましい、悪夢のような状況ですね。そうなると、みなさんがパニックになるのもよくわかります。

■悪循環を断ち切る

この悪循環の環を断ち切ろうという努力の結果、哲学、宗教、神話、文学、芸術など、さまざまな分野で、たくさんの考察が生まれました。

それをざっくりとまとめると、「人は誰でも、感じのいい人に好感をもち、微笑みかけてくれる人に微笑みかえす傾向がある」ということになります。これもまた環になっていますが、こちらは好循環の環です。

わたしたちが「愛情」(あるいは「好意」)と呼んでいる現象は、いろいろな要素が集まって生まれますが、この好循環の環では、そうした要素が人と人との間で働きあい、一方の愛情や好意を糧に、もう一方の愛情や好意が生まれます。

でも、バカはそれとは正反対の現象を引きおこし、わたしたちは敵意のぶつけあいに巻きこまれます。すると、当然ながら、解決方法は、反発しあっている状態を変えることになります。

したがって、この問題の解決策は、すでにいろいろな本などに書かれていることではありますが、シンプルにこちらの方針を変える、ということになるでしょう。

憎しみをぶつけられたら愛情で応え、無礼なふるまいを許し、常にバカとは逆の態度を取って、右の頬を打たれたら左の頬を出す――つまり、人をいらつかせる粗野なバカに微笑みかけるのです。

わたしたちは、バカになりそうになったら、元のちゃんとした人間に戻らなければなりません。そうすれば、相手もまともになるでしょう。そのためには、まず自分が寛大になるしかないのです。

■道徳心に火をつける

バカにイライラして、つい忘れそうになった道徳心を取りもどすこと。これを「道徳心に火をつける」と呼んで、みなさんに実践するよう提案したいと思います。

ただ、残念ながら、道徳心に火をつけるのには難しいところがあって、その難しさは、きっと誰もが経験したことがあるでしょう。実際、道徳心に火をつける際には、次のことが必要になります。

① 衝突に向かう全ての力を妨げること(たとえば、バカとこちらの双方が不快な態度を取れば衝突必至です)。
② そのために、原因と結果の筋道を断ち切ること(バカが不快な態度を取るから、こちらも不快な態度を取る、というようなことはやめましょう)。
③ つまり、ことの成り行きが、悪い方向に行かないように流れを止め、良い方向に向けること(バカの不快な態度に対し、こちらは好ましい態度で応じます)。

ところが、こうしたことをするのはとても難しそうですし、そればかりか、不条理にも思えます。

こちらを見下してくるバカに、わたしは味方だよ、とウインクで合図する。こちらが今まで進めてきたことを全部わざとぶち壊すバカに微笑む。それだけでもエネルギーを使うものです。

みなさんにお聞きします。そんな力がどこにありますか? バカを目の前にして、いったいどこからそんな力が湧いてくるのでしょうか? だって、ついさっき、こう定義づけたばかりなのです。

極めてうつりやすいという特徴があるのがバカ、すなわち、こちらが道徳的にふるまう力を減らすのがバカだと。

■道徳心に火をつけることにより生まれる力

わたしは、道徳心に火をつけることをみなさんに求めていますが、実は、そうすれば力が生まれることを前提にしています。

つまり、バカを目の前にしたとき「実際には」その力がないことは承知していますが、道徳心に火をつければ、「理論上は」、やるべきことをやる力が必ず出せるはずなのです。

したがって、道徳心に火をつけることは、キリスト教の伝承における、聖性(人が聖人になること)や神の恩寵と同じ理屈によるものです(ただし、宗教や文化は問いません)。

道徳心に火がつけば、自分のものとは思えないくらいの、自分を超えた力、時には超人的な力が出ることもあるでしょう。そうした力が、わたしたちの足りない部分を補ってくれそうです。

だとしたら、道徳心に火をつけるには、自分を超えた力や、ともすれば超人的な力の媒体に、自分がなれるようにしなければなりません。

大きな矢印に乗った女性がポケットに手を突っ込んだ男性を見下ろしている
写真=iStock.com/DNY59
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/DNY59

その力を何と呼ぼうと自由です。神でも、神々でも、精霊でもいいですし、歴史の潮流でも、何らかの霊験でも、芸術家のインスピレーションでも、理性の力でもいいです。

そのどれであっても、とにかく普段以上の力がどこかから湧いてくることが、道徳心に火をつけるためには必要でしょう。

そして、その「どこか」とは、「よそのどこか」に他なりません(つまり、あなたやわたしや、ましてやバカからは、そんな力は出てこないということです)。

力の出どころはどこか、という問題については、大勢の先人たちが熱心に書いてくれているので、このくらいにしておきます。みなさんには、わたしが重要だと思う側面にだけ、ご注目いただければと思います。

そこを見ていけば、この道徳心に火をつけるという発想には、天才的とは言わないまでも、興味深い提案が含まれていることがおわかりいただけると思います。

この発想は、「バカと向きあうという困難を乗りこえる力を与えたまえ」という敬虔(けいけん)な祈りのようなものですが、それだけではありません。

こちらに向けられるバカの力を、わたしたちは押しとどめる必要さえなく、自然に引っこむようにもっていけるという展望を示して、バカの仕組みを説明してもいます。では、どうしたらバカの力は引っこむのでしょうか。

■バカは「苦痛」だが「悪」ではない

すでにお話ししたように、バカと接すると心が傷つき、弱くなります。最初に受ける印象では、こちらの力が「完全に」奪われるような感じがするかもしれませんが、もちろんそんなことはありません。

確かに、バカはわたしたちに苦痛を与えますし、たいていは自分のことも傷つけています。でもそれは、バカが「絶対的に」「悪」だということではありません。わたしたちがそう思ったり言ったりするのは、興奮してつい大げさになっているからです。

事実、「悪いことをすること」と、「(存在自体が)悪であること」は別ものですが、これまではパニックになって混同してしまっていたのです。

① バカは事態を悪化させる(=悪いことをしている)。
② バカはわたしたちに苦痛を与える(=悪いことをしている)。

①と②は同時に起こります。①は知性を用いた判断です。②は感じた内容で、バカとわたしたちの関係を物語っています。

①と②は明白な事実ですが、このふたつから、「バカとは、普遍的で絶対的な『悪』だとされているものを具現化したものである」という結論は導きだせません。でも、みなさんはそう思っていましたよね(正直に言ってください)。

しかしながら、絶対的な「悪」の概念とは、人間関係を考慮に入れずに定められるものであり、いつどんな場面で使われても、有効でなければなりません。

■思考の飛躍

さて、そうした「悪」の概念が、疑いなく確かなものであるかどうかは、ここでは議論しませんが、みなさんは、苦痛のあまり、相対的な事柄から絶対的な言明へと思考が飛躍してしまったことを認めなければなりません。

相対的な事柄とは、この場合、バカの個人的な行動と、それに対するあなたの個人的な反応(苦痛)です。

絶対的な言明とは、前に出てきた「バカ滅ぶべし(この世の全てのバカなことは徹底的になくさなければならないし、できれば目の前にいるバカも消し去りたい)」のようなものを言います。

もう少し説明すると、バカの存在によってあなたが苦痛を覚える場合、その苦痛は、あなたに限定された、あなただけが感じる苦痛です。

たとえば、別れた夫や妻などが、「掃除機を返して」としつこく言ってくるときに感じる苦痛がそうです(一緒に暮らしていたときに使っていた古い掃除機です)。

あるいは、仕事仲間が、こちらは何度も同じことを言っているのに、指示を守ってくれないときに感じる苦痛もそうです。

そうした限定的な苦痛から、全てのバカは「悪」だという考えに至るのは飛躍です。

■無意識の推論

こうした思考の飛躍は、個から全体に移っているので、思考のプロセスとしては、帰納法と呼ばれるものになります。でも、この帰納は誤りです。

こうして無意識に間違った推論をしたことで、あなたの中にバカの菌かウイルスが入ってしまったようです。事実、あなたは相対的でしかない真実を絶対的だと言い切り、全世界を裁く裁判官のようになっています(もちろん、無意識にではありますが)。

ところが、自分の意見は絶対だと思うことは、バカのすることです。バカはいろいろとうぬぼれているもので、自分を神さまのようにも思っています。

さあ、これでみなさんは、今からわたしが言うことを認める心の準備ができましたね。いいですか? バカに苦痛を与えられても、そのことから、バカの存在は「悪」だという結論は出せません。

バカが露呈しているバカなところでさえ、「悪」だという結論は出せません(バカが犯罪行為をしている場合はまた別です)。

実は、このように考えることには、とても大きなメリットがあります。例の「蟻地獄」の砂を止めることができるのです。

■蟻地獄ができるのは、こちらが傷ついてぼう然としてしまうから

では、なぜ砂を止めることができるのでしょうか。まず、これまで見てきた、蟻地獄ができる原因を整理しましょう。

① お互いのふるまいや言葉のやり取りのせい
② 相手のふるまいに傷ついて(ショックを受けて)、ぼう然としてしまうから

このうち、②のほうが、より大きな原因です。したがって、この状態から立ち直ればよいのです。

ここからはたとえ話です。バカのふるまいに傷ついてぼう然としたあなたは、傷ばかり見てしまい、めまいがしてきました。

公園のベンチに座り込み、手で顔を覆っている男性
写真=iStock.com/itakayuki
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/itakayuki

めまいは、世界がぐるぐる回る感じがします。あなたの力と思いやりは、めまいでバラバラになって、やはりぐるぐると、お互いを追いまわすように回っていました。苦痛を覚えたあなたは、バカの存在は「悪」、あるいは「災い」だと考えてしまいました。

これを簡単に表すと、次のようになります。

① バカのせいで傷つく→ぼう然とする→力も思いやりも出せない。
② バカのせいで傷つく(苦痛)→バカの存在は「悪」あるいは「災い」だと考える。

これは、あなたの中にできてしまった、やはり悪循環の環ですね(バカのせいでバカになる)。この環は、バカとあなたの間にできた悪循環の環(バカがうつってバカになる)を、途切れさせずに維持してしまいます。

バカのせいで傷ついてぼう然としているうちに、間違った考えに至ってしまう。それを防ぎたくて、本書では本稿の章には「バカの言動にぼう然としても気をとりなおすには」という章題をつけました。

蟻地獄は、パニックになると生まれる錯覚です。パニックが続くと蟻地獄は大きくなります。あなたは抜けだし方を知らなかったので、バカ本人か、バカの愚かさを消すしか方法はないと思ってしまったのです。

思考がこのように連鎖するのは、自然で仕方のないことですが、おかげであなたの考察は行きづまってしまいました。それは、こうした思考の連鎖が単純に間違っているからです。

バカであることのマイナス面は、簡単にはなくならず、何らかの出来事の形で表に現れることが多いものです。その場合、その出来事は苦痛ではあっても、「それ自体」は「悪」ではありません。その点は、他のあらゆる出来事と同じです。

■現実の出来事ならどんな展開もありえる

さて、みなさんもご存じのように、ひとつの出来事には必ず、いろいろな展開をする可能性があります。うまくいったり、いかなかったり。まあまあうまくいったり、ギリギリなんとかなったり。どうなるかは、前もって決まっているわけではありません(ただし、因果関係は存在します)。

生まれたばかりの赤ちゃんは、何も身につけず、柔軟で、どんなふうにでも変わっていけます。現実の出来事も同じです。つまり、錯覚ではなく現実の出来事なら、必ず、その先どんな展開もありえるのです。

■自分の思う道徳を実践するいい機会になる

でも、一日中、セクハラめいたことを言ってきてあなたに苦痛を与えるバカの場合は、もちろん、どんなふうにでも変われるという次元を超えていて、まさに一種の「導き」だと言えるでしょう。そう、バカはあなたを何かへと仕向けているのです。

マクシム・ロヴェール(著)、 稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社
マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社

でもその何かは、暴力ではありません(あなたは暴力を振るったら蟻地獄に落ちてしまいます)。聖人になることでもありません(聖人は簡単になれるものではありませんが、もしなれるなら、遠慮せず、なってください)。

バカはあなたを試練へといざなっています。そんなときあなたは、このバカは、道徳を実践するいい機会だととらえるべきです。

あなたが誰かのことをバカだと言うとき、自分の道徳観を基準にするのはもっともなことです。あなた自身、日頃からその道徳観に沿って、立派な人間になるための努力をしているわけですから、ぜひ実践してみましょう。

本稿のポイント
バカがバカなことをしてきたら、自分の思う道徳を実践しよう。

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マクシム・ロヴェール 作家 哲学者
1977年生まれ。フランスの作家、哲学者、翻訳家。高等師範学校でベルナール・ポートラに師事。2015年から教皇庁立リオデジャネイロカトリック大学(ブラジル)で哲学を教える。本書は本国フランスはじめ、世界10カ国以上で注目を集める話題作となる。ジョルジョ・アガンベン、チャールズ・ダーウィン、ヴァージニア・ウルフ、ルイス・キャロル、ジョゼフ・コンラッド、ジェームス・マシュー・バリーなど哲学書、文学書の翻訳も手がける。

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(作家 哲学者 マクシム・ロヴェール)

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