信長でも秀吉でもない…徳川家康がひそかに自らの手本として尊敬していた戦国最強武将の名前
プレジデントオンライン / 2023年4月1日 13時15分
※本稿は、加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
■家康が生涯唯一の大敗戦から学んだこと
1572(元亀3)年の三方ヶ原の戦いは、家康が生涯に一度の完敗を喫した合戦として、後世に伝えられています。三方ヶ原の戦いは、徳川方の戦死者1180名、対する武田軍は200余に過ぎず、と伝えられています。
無謀にも名将信玄に真正面から挑んだ家康の「男気(おとこぎ)」は、後世、家康の武勇談となって伝えられますが、この敗戦から学んだことのほうが、家康にとっては一瞬の「男気」より何倍も大きなものでした。
家康が初陣を果たしてまもなく参陣した桶狭間の戦いで、2万を超える今川軍に対し、信長が2000の兵で敵の大将・今川義元を討ち果たし、勝利をつかんだ、との報に接したときの驚きと昂奮は、生涯忘れられないものだったに違いありません。
ですが、この時の家康はいただけません。感情的に高ぶっている人間には、そもそも冷静な状況判断はできませんでした。桶狭間の義元と三方ヶ原の信玄とでは、武将のタイプが違うのだ、という当たり前のことさえも、判断がつかなくなっていたのでしょう。
この敗戦後、家康は人生観が変わるほどの猛省をしています。天才信長のやり方を真似しても、そもそも卓越した才能のない自分には無理であった、ということを骨身に染みて思い知ったのです。
では、どうするか。
家康の選択は、「勉強法」の基礎である「真似(まね)ぶ」姿勢を存分に発揮したこと。これこそが、家康の「勉強法」の基本でした。
■武田信玄の強さの源は何か
学ぶべきモデルを、家康は懸命に諸国の大名、武将の中に探し、その結果、大敗した敵の大将・武田信玄にいきついたのです。
中国の兵法の古典『孫子』は、こう説きます。
「勝兵は先(ま)ず勝ちて而(しか)る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む」
勝つ軍隊は、まず勝利の条件を整えてから戦うが、敗れる軍隊は、まず戦ってからあわてて勝利の条件を整えようとする、という意味です。
信玄の強さの源(みなもと)は、まさにこれ=“真似ぶ”であった。ひらめきや奇策に頼るのではなく、常に堅実で道理にかなった戦い方によらねばならない。
家康はそのことに、九死に一生の中で気づいたのでした。
単に兵法書による机上の学問としてではなく、実際の合戦から、とりわけ大敗戦から学んだことは、家康にとって貴重な財産となりました。
■関ヶ原の戦いに生かされた“ある戦法”
家康が、三方ヶ原の戦いで信玄から学んだことは、主に以下の3点です。
一つ目は、この合戦で信玄が採用した戦法です。
たとえば、合戦の際、最も疎かにしてはいけないのは、時間との勝負であるということ。圧倒的な兵力差がある場合、敵が籠城していたなら、それをじっくり力で攻めるのが一般的な戦(いくさ)のセオリーです。
![高野山 持明院所蔵の武田信玄像](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/8/4/1200wm/img_84cac6036dfab44f1c1cc32d14236def124522.jpg)
しかし、三方ヶ原の戦いで信玄は、家康方に浜松城に籠城されては、城を落とすのに時間がかかり過ぎる、と考えました。その間に家康の同盟者・信長のさらなる援軍が到着して、城内の籠城軍と後詰(ごづ)めの織田軍とで挟み撃ちにされることも警戒したのです。
そこで浜松城内の徳川軍を、三方ヶ原におびき出してから叩く、という作戦を採りました。この時の信玄の作戦は、のちに、家康によって、関ヶ原の戦いに活かされることになります。
1600(慶長5)年9月15日の関ヶ原の戦いの時、石田三成をはじめとする西軍の主力は、美濃大垣城に本拠を構え、東軍との決戦に備えていました。
そこで家康は、大垣城の西軍主力をおびき出す作戦に出ます。
「大垣城を無視して、まず三成の居城である佐和山(さわやま)城を落とし、その勢いで大坂城を攻める」という東軍の偽情報を、西軍陣営に流したのです。
驚いた三成は、大垣城を迂回(うかい)してくる東軍を、関ケ原で待ちかまえて迎え撃つという作戦に変更してしまいました。確かに関ヶ原の野戦での、地の利は三成にありましたが、長期戦を覚悟しなければならない大垣城攻めに比べ、関ヶ原での野戦は家康にとって、まだ戦いようがあったのです。
■武田式に軍隊を作りかえたきっかけ
二つ目は、武田軍の編成方式や軍法を、具体的に家康は学んだということです。
のちに、信玄の後継者・勝頼(かつより)の代で武田家が滅亡したおり、家康は武田家の旧臣、将兵たちを大量に採用しています。自軍を強化すると共に、かつて最強といわれた武田軍の軍団編成や軍法を、自軍に取り入れたいとの狙いがあったからです。
1585(天正13)年の11月、酒井忠次に続く有力な宿老だった石川数正が、秀吉方に出奔した際、これによって徳川軍の編成は、秀吉方に筒抜けになると判断した家康は、躊躇(ちゅうちょ)することなく、それまでの軍団編成や軍法を廃棄して、滅亡した武田軍のそれを採用しています。
■家康の最大の「学び」
三つ目は、信玄の戦に対する基本的な考え方を学んだ、という点です。
信玄は常日頃から、「戦に勝つということは、五分を上とし、七分を中とし、十分を下とする」と言っていました。その理由は、五分の勝ちは今後に対する励みの気持ちが生じ、七分の勝ちは怠(おこた)る心が生じ、十分の勝ち、つまり完全勝利は相手を侮り、驕(おご)りの気持ちが生ずるのでよくない、というのです。
こちらが勝ちすぎて相手を追い詰めすぎると、相手に強い恨みを残すこととなり、双方にとって想定外の不都合が起こることにも用心しなければならない、とも信玄は語っていました。
いずれも理にかなったもので、家康は信玄のこの堅実さこそ目指すべきであり、自分のような凡人でも真似ることができる要因を、多く発見したに違いありません。
三方ヶ原の戦いでの家康の最大の「学び」は、ここにありました。大敗した合戦までも、自身の「学び」に大いに活用したのが、この人の真骨頂でした。
実際に家康は、立ち居振る舞いから言葉遣いまで、信玄を見習い、前述したように、徳川軍の軍団編成、軍略・軍法を武田流(甲州流)に変えていくことになります。
■作家が驚く前代未聞の行動
名古屋市の徳川美術館に、家康の有名な肖像画「顰像(しかみぞう)」が残されています。
三方ヶ原の敗戦の後、自ら命じて描かせたといわれるもので、大弱りの顰顔(しかめがお)のまま、床几に腰かけた家康が描かれています。曲げた左足をかかえ込み、左手を顎に当てながらの、英雄らしからぬ情けない姿です。
![徳川家康三方ヶ原戦役画像。別名「顰像」。](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/f/2/1200wm/img_f2307f9b82304c7ac2c62998b1cf61d6137983.jpg)
近年、この像は、三方ヶ原の敗戦とは関係なかった、との説も生まれました。しかし、三方ヶ原の大敗を家康が反省し、将来の戒めとしたこと。この時期に、人変わりしたのではないか、と思うほどの猛省をしたのは疑いようがありません。
通常、戦いの証拠として絵画を残すのは、勝った側が自らの輝かしい成果を後世に伝えるため、あるいは負けた側をはずかしめるのが目的です。ところが家康は、自分の一番哀れな姿を、子々孫々までの戒めとして残したというのです。もし家康の手によるものなら、前代未聞のことといってよいでしょう。
痛恨の大失敗を見据え、自分を完膚なきまでに打ち破った敵の知恵を余すところなく取り入れたい、その真摯(しんし)さとトップとしての責任感が、自らの戒めへの証拠を残したというのは、家康の場合、あり得ると筆者は考えてきました。
■信長にはなれないが信玄にはなれる
「同じ石に2度つまずくな」と、古代ローマの哲学者キケロは言いました。
誰でもつまずきはあるもの。問題は最初のつまずきから、いかにしてその後の教訓を得られるかが、人生の分かれ目です。
元来が小心者で、なにごとにつけても疑い深く、慎重で、軽快な動きが苦手。それでいて、本来は短気で激越家(げきえつか)の家康です。彼に天下を取らせた秘訣(ひけつ)があったとすれば、失敗にも、敵にも、歴史にも学ぼうとした、その貪欲な姿勢ではないでしょうか。
過去に学ばない者に、未来は設計できない、ということを、家康ほど心得ていた人間はいなかったと思います。
密かに信玄を自らの手本とするとの決意の底には、「信玄ならば、努力すれば近づくことができる」との思いもあったはずです。
三河も甲斐も、農業国であり田舎です。信長が持つ尾張のように、商いが盛んで、1足す1が2以上になる世界とは、土台のところが違っています。
そして「勝ちは五分を上とする」という、信玄のパーフェクトゲームを望まない姿勢は、家康の肌に合っていたに違いありません。
■信玄の死に対し家康が送った言葉
三方ヶ原で家康を大敗に追い込んだ信玄は、戦いの翌年1573(元亀4)年4月、病が昂(こう)じて西上途上の信濃国駒場(こまんば)で亡くなります。
![加来耕三『徳川家康の勉強法』(プレジデント社)](https://president.ismcdn.jp/mwimgs/a/1/1200wm/img_a1cb48e9656ca4bcbde7e7248e1e0294139156.jpg)
家康は、信玄死去の報を聞いて、こう言ったといいます。
「隣国の名将の死を喜ぶ気持ちはない。私の心底はこのようなものだから、家中の下々までも、そのように心得よ。
隣国に剛敵があると、こちらは武道を励み嗜(たしな)むようになり、また国の仕置きに関しても、敵国の外聞をはばかって、自然に政道にも違わず、家法も正しくなるという道理であるから、つまりは味方が長久に家を守ることができる基(もと)というものだ。
さてまた、隣国にこのような剛敵がなければ、味方は弓矢の嗜みも薄く、上下ともにうぬぼれて、恥を恐れることがないので、ついには励むことを忘れ、年を追って鉾先(ほこさき)が弱くなるものであるから、信玄のような敵将が死んだのは、少しも喜ぶことではない」
家康が、信玄に対して単に優れた武将としてだけではなく、領国経営のトップとして、さらに武田家の総帥として、深く敬意を表していたことがわかります。
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歴史家、作家
1958年、大阪市生まれ。奈良大学文学部史学科卒業。『日本史に学ぶ リーダーが嫌になった時に読む本』(クロスメディア・パブリッシング)、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』(日経BP)など、著書多数。
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(歴史家、作家 加来 耕三)
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