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「運転できない」と「運転しない」はぜんぜん違う…90歳の五木寛之さんが免許証を持ち続けている理由

プレジデントオンライン / 2023年4月3日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/GCShutter

いくつになったら車の運転はやめるべきなのか。90歳を迎えた作家の五木寛之さんは、60代で運転をやめてからも高齢者講習を受けて免許証を持ち続けていたという。その理由とは――。

※本稿は、五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

■男をやめるくらいの覚悟が必要だった

おん歳97歳の高齢者のかたが車を運転して、人身事故をおこされたニュースを新聞で読んだ。

なんとも痛ましい事故で言葉もない。これまでも高齢者の運転事故はたびたびあったが、97歳というのは最高齢ではあるまいか。

人はいったい何歳ぐらいで車の運転からリタイアすべきか。

これは難しい問題である。身体能力や運転技術には個人差があるからだ。

車の運転というのは、単に身体能力の問題だけではないのである。視覚はもちろん、聴覚や嗅覚、触覚その他、あらゆる感覚を動員しなければならない。

車自体の異変は、匂いで察知することができる。不規則な振動や異音もそうだ。ただハンドルを操作すればいいというものではない。動体視力や反射神経も大事である。

私は初老に達したときに運転をやめた。そのときの寂寥感というのは、たとえようのないほどのものだった。おおげさに言えば、男をやめるくらいの覚悟が必要だったのである。

〈これでおれの人生は終った〉と心の底からそう思った。車は私の無二の親友のようなものだったのだから。

■慎重になっても、五官の劣化は隠しようがない

高齢者運転講習を二度受けて、三度目は諦めた。

運転技術が衰えたとは自分では思っていなかった。むしろ歳を重ねて、若い頃よりもはるかに慎重に運転するようになっていたと思う。

それでも運転をやめたのは、いくつかの客観的な変化を自覚したせいである。

たとえば、60歳を過ぎた頃から、両目の上瞼がたれ下ってきているのがわかった。そうなると上方視界がおのずと狭くなる。交差点の直前の信号を見るためには、いちいち顔を上向きにあげて確認しなければならない。

これはほんの一例だが、いろんな場面で若い頃の運動神経が劣化してきていることは明(あ)きらかだった。

歳を重ねることはマイナスばかりではない。ひどい渋滞で身動きがとれなくなっても、以前のようにいらいらしなくなった。

〈まあ、いつかは動くだろう〉と、カーラジオをつけて落語を聴いたりする。「お先にどうぞ」と、道をゆずる余裕もでてくる。

しかし、それでも五官の劣化は隠しようがない。背後の車からクラクションを鳴らされて赤面することもしばしばだ。

■必要もない高齢者講習を二度も受講した理由

「歳をとると家の犬までおれを馬鹿にしやがって」と、ため息をつく同世代の友人がいた。

「その点、クルマだけは変らずにおれに忠実だ。メンテナンスさえちゃんとしていれば、こちらの思う通りに動いてくれるからな」

私もときどき眠れぬ夜に、野外の駐車場においてある自分の車の中で時間をすごすことがあった。

エンジンをかけてこの車を走らせさえすれば、いまから北海道へでも九州へでも行けるのだ、と思うと心がなごんだ。車は走るだけの道具ではない。

運転をやめてからの数年間は、気が抜けたような日々が続いた。そんな空虚感に慣れてきたのは、70歳をこえたあたりからだったような気がする。

運転をやめたあとでも、私は自分の運転免許証をほかのカード類と一緒に持ち歩いていた。

〈運転はしないが、運転はできる〉と、いうのが心の支えだったのかもしれない。必要もない高齢者講習を二度も受講したのは、そのためだ。

■「できない」のと「しない」のではまったく違う

このところ話題の和田秀樹医師の本の広告には、80歳をこえたら〈タバコはやめなくていい〉〈ガンは切らないほうがいい〉などの提言とともに、〈運転免許は返納しなくていい〉というアドバイスが出ている。

私も運転免許証に関しては同意見だ。

私は65歳で運転をやめた。ただし、運転免許証はすぐに返納せず、高齢者講習を受講して、免許証を所有していたのである。

運転をしないのに、何のために免許証を持ち歩いているのか。

私は運転はしない。しかし、〈運転ができる〉人間でありたかった。自分でハンドルを握ることを抑制しているのであって、免許証を持たないがゆえに運転できないのではない。そう自分のことを思いたかったのである。

〈できないからしない〉と〈できるけどしない〉のあいだには深くて暗い川がある。

できない、のではなくて、しない、のだ。運転する権利は保持しつつ、自由意志によって運転しないと決めているのである。

五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)
五木寛之『うらやましいボケかた』(新潮新書)

はたから見ると滑稽な痩せ我慢としか思えないだろう。何もそこまでこだわる必要があるのかい、と笑われそうだ。

しかし、運転をやめるというのは、そういうことである。それは何十年も車と生活した人だけにわかる感覚だろう。

私は高齢者に免許証を返納したほうがいいとは言わない。免許証は所有しておく。ずっと持っていたければ3年おきの高齢者講習を受けることだ。

そして、ある年齢からは自分で運転を控える。する自由と、しない自由を大事にしたいと私は思うのだ。

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五木 寛之(いつき・ひろゆき)
作家
1932年、福岡県生まれ。戦後、朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞を受賞。81年から龍谷大学で仏教史を学ぶ。主な著書に『青春の門』『百寺巡礼』『孤独のすすめ』、『うらやましいボケかた』(新潮新書)など。

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(作家 五木 寛之)

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