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バカに説教するあなたもすでにバカである…哲学者「わかり合えない相手と接するときの最終結論」

プレジデントオンライン / 2023年4月2日 10時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Thirdparty

わかり合えない相手にはどんな態度で接すればいいか。フランスの哲学者のマクシム・ロヴェールさんは「価値体系が違う相手に説教しても、相手にはわからない方言で話しかけているようなもの。説教すること自体がバカげている」という――。

※本稿は、マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社)の一部を再編集したものです。

■誰でも必ずする「説教めいた態度を取る」本当の意味

バカがしつこいしほどにバカなおかげで、わたしたちは道徳哲学の基本をみっちり学べています。大丈夫です。考えることを楽しめるなら、バカではないと保証できます。

ですから、たとえこの先、この本の内容が難しくなって、みなさんが眉間にしわを寄せることになっても、いわゆる「哲学の喜び」には耐えられるとわたしは信じています。

「哲学の喜び」とは、おおざっぱに言えば、自分の概念を守っている壁を自分で壊すことです。壁を割り、外に出て、新たな領域を開拓しようではありませんか。

ということで、わたしと一緒にこんな仮説を検証してみてください(この仮説はまだ立証されていないと思います)。

《人はバカに説教をする。それは、ストレートな説教でも含みのある説教でも、自分の無能さに対する怒りから出る愚痴である。人はバカに道徳上の義務という概念を当てはめようとする。バカのせいでぼう然としてしまい、どうしたらいいのかわからなくなると、バカを、自分が思う、あるべき姿に変えようとするのだ。つまり、説教にはこんな言外の意味がある。

「わたしは自分の望み通りのふるまいをきみにさせることができないから、『道徳上の義務を守るべきだ』と言っている」》

おそらく、これに対してみなさんからは、「道徳をもちだすのが悪いような言い方だが、道徳を批判するのは違うのではないか」という意見があるでしょう。

「道徳があるから、人は節度を保って共に暮らしていけるのであり、何らかの価値体系を、みんなで守る絶対的なルールにしないと、どうしようもない」と。

さらにそれに対しては、こんな意見が考えられます。

「道徳批判に罪悪感をもつのは、道徳に対する盲信であり、それは必要のない罪悪感だからすぐに捨てていい。ルールに縛られて自主性や改革が妨げられては、どうしようもない」

価値体系としての道徳に敏感なのはいいことですが、それと、今わたしが述べていることは、全く無関係です。というのも、今は説教の話をしていて、まだ道徳そのものの話はしていないからです。

人と人との対話において、ひとりの人間が別の人間に対し(たとえ言外であっても)、説教めいた態度を取るということ。これは、是非はともかく、誰でも必ずすることです。一家のお父さんでも、誠実な女友達でも、逆に、空気を読めない、知ったかぶりな人でも、同じです。

説教に出てくる義務の概念は、相手を言葉で操って何らかの行動をさせることを目的としたもののように思えます。相手には、自分からその行動を取る理由はありません。義務の概念は、話し手にとってはこんな働きをします。

① 自分がその行動を望んでいるという事実が曖昧になる。
② なぜ説教をするような状況になったのか、考えなくてもよくなる。
③ 相手に求めていることに筋が通っているかどうかも、考えなくてもよくなる。

こうして相手を動かそうとしているわけですが、これでは、生産的な対話はできません。

■説教をしても効果はない

だとすれば、実は説教めいた態度には合理的な根拠がない可能性もありますが、まずは、こうした態度を取っても、とにかく効果はないということを明らかにしたいと思います。

みなさんは次の文を、自分がバカに言われたと思って、あらためて読んでみてください。

「もうこんなことはダメだぞ。おれがどうこうじゃなくて、道徳上の義務を教えてやってるだけ」

どうですか? 痛くもかゆくもないでしょう。

虚言癖がある人の嘘の話を聞くのと少し似ています。あなたは相手が説教をしてくるのを、言わせておいても聞いてはいません。相手の話には真実のかけらもないと思っています。

したがって、説教は、現実の問題の答えとしては不十分だと認めなければなりません。ここでは、話者の間でお互いへの信頼が失われていることが問題です。

相手が、本当のことや、自分が受けいれられることを言えるだろう、という信頼がないのです。これは決定的に重要な点です。

たとえば、鳥が木の枝に止まっているように、言葉が木の枝にのっているとしたら、その枝が、バカの存在とバカの落ち度によって折れてしまっているようなものです。

より正確に言えば、人の対話の中にある何かに、ロックがかけられているのです。そのロックは、コミュニケーション機能が働かないようにすると同時に、相手への信頼という、ちょっとしたやり取りにおいても基本となるルールを無効にします。

説教をすれば、この信頼がないという問題を、最初の一回くらいは避けて通ることができます。

話し手は、自分の言っていることは自分の管轄下にはないので、自分のことを一切信頼していなくてもこの話を受けいれていいのだと、相手に示唆しているわけです。こう言っているのと同じです。

「道徳上のルールというものが本当にあって、それを作っているのはおれじゃないけど、そのルールでは、ああいうふるまいやこういうふるまいは禁止だから」

よく考えてみると、話し手は、説教めいた態度を取ることによって、自分の発言への関与を、かなり巧妙に隠しています。

実際、どちらも相手の言い分にもはや耳を傾けようとしない状況で、コミュニケーションを復活させるためには、自分の発言ではないふりでもするしかありません。

■説教がうまくいかない理由

では、なぜ説教めいた態度を取っても、これほどまでにうまくいかないのでしょう?

理由はふたつあります。まず、その説教が正しいとする根拠が全くありません。それに、説教という方法を取ること自体が、話者間の信頼が失われていることの反映でしかないのです。

したがって、説教という形は何の役にも立ちません。バカはあなたが理屈を並べて認めさせようとしていることについて、一切知ろうという気がないのです。そもそも向こうは、あなたの理屈を全く理解できません。

こうして、信頼の危機は、説教の正当性を争う戦いになります。説教の正当性についてもめるなら、当然、説教の中身の受けとり方についても、もめることになります。その結果、説教は、表面的には品位と徳があっても、問題の場所を移すだけで、解決しないのです。

■逆に説教をしてくるバカ

実際、弁が立つ相手の場合、今度は向こうが意気揚々と説教をしてやり返してきます(残念ながら、たいていのバカは弁が立ちます)。

みなさんは、たとえば善と悪の違いをわかりたいと思っていたり、人のふるまいを場にふさわしいものにする望ましい方法があることを知っていたりと、道徳に関心が高いかもしれません。

しかし、たとえそうであっても、この場合、道徳を平然と無視しているのは向こうなので、そんなバカに道徳を説かれるいわれはありません。

さらに悪いのは、価値体系が違うバカを相手にしたときでしょう。

本物のバカな人たち(今わたしたちの友達ではなく、これからも決して友達になることのない人たち)は、わたしたちとは違う価値体系をもっていて、その価値体系では、わたしたちが許せないとみなすふるまいが完全に正しいと思われ、逆にこちらのふるまいが間違っていると思われる、などということが起こるのです。

■価値体系をもたないバカ

さて、この本では、さまざまな真実を明らかにしていかなければなりませんが、今から書くことは、その中でも、一番認めがたく、一番奥が深く、一番耐えがたい真実かもしれません。

まず、人がバカになるときは、自分の意志でなるのではなく、たまたま間違えたとか、何かが及ばなくてとか、逆に何かが行きすぎてとか、その場の状況で仕方なく、というパターンもありますが、それとは別に、価値体系をもたないバカがいるのです。

こうした真実を明るみに出さなければならないのは残念ですが、わたしたちみんながこのことで苦しんでいるからには、物事を正面から見すえたほうがいいでしょう。

人類を豊かにするような身体的、言語的、文化的差異を、一般に「他者性」という言葉で呼びますが、この言葉が指すものはそれだけではありません。

「他者性」は、あらゆる社会と社会階層に、一貫性がなくても気にしない人が存在する、ということも意味します(しかも、単独に存在するのではなく、同調する仲間もいます)。

そうした人たちは、わたしたちと違う価値体系をもつのではなく(違う価値体系をもっているなら、その価値体系自体は興味深いです)、何の価値体系ももたないことに価値を見いだしていて、要するに、全く支離滅裂なのです。

そうしたバカをここでは「価値体系をもたないバカ」と呼ぶことにしますが、もしみなさんがそうしたバカの存在を疑っていらっしゃるなら(わたしもついこの前までなら疑ったでしょうけれども)、どんなバカなのか、ご紹介しましょう。

「価値体系をもたないバカ」は、うっかりタイプではありません。常軌を逸していることもありません。意地悪でもありません。しかも仕事では優秀です(本物のバカがまぬけなことはまれです)。

たとえるなら、輝かしい、本物のダイヤです。それも、今までわたしが近寄る機会があった中では一番純度の高いダイヤです。

ダイヤモンド
写真=iStock.com/ilbusca
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ilbusca

この人たちは、理解する能力はありますが、理解しようという気がありません。別の言い方をすれば、自分のバカさに、勇ましくしがみついているのです。

■バカにこちらの価値体系を受けいれる理由はない

そんなわけで、相手がどんなバカであれ、とにかくバカに説教をするとぶつかる最大の困難は、そもそも説教というものが、最低限の、共通のベースがあることを前提にしていることです。

そのベースを起点にして話しあい、自分たちのふるまいを評価しようとしているわけです。

しかし、たとえば自分の子どもだとか、より広く言えば自分と愛情で結ばれている関係ではないバカの場合、こちらの価値体系を受けいれる理由も、それを理解した上であらためて検討するという努力をする理由も、一切ありません。

一緒にルールを作ろうという意見さえ拒否する人を前にすれば、お互いを理解することは不可能になり、誰にもなすすべはありません。

バカはなぜ交渉しようとしないのでしょうか。それは、わたしたちが正しいとは全く思っていないからです。みなさんはこうおっしゃるでしょうか。だとしても、理性はわたしたちとバカの両方より正しいのだから、お互いが同じように従えばいい。なぜそれを拒否するのか。

どうやら理解されていないようですね。バカはわたしたちを求めていないのです。こちらに敬意をもっていないだけでなく、何よりも存在を眼中に入れたくないのです。わたしたちのことは考えないのです。

向こうの最大の望みは、わたしたちが全く存在していないかのようにすることです。より正確に言えば、わたしたちの存在とそれが引きおこすものには、一切正当性がないかのようにふるまうことです。

たとえば、わたしたちはいろいろな感情をもちます。欲望や考えや希望や恐れを抱き、相手が困るような要求をすることもあれば、逆に、愛情をもっていてもそれを抑えたりもします。そうしたものは、行動や言葉や人に与える印象として表面に現れます。

でも、バカから見ると、わたしたちは無で、何も起きていないのです。そうした態度はとても愚かですし、そもそもとても無礼なので、こちらはぼう然としてしまいますが、次のことをきっぱりと認めなければなりません。

両者の間で、お互いに思いやりをもつというあり方はたった今崩れ、成りたたなくなったのです。共存というあり方と言ってもいいでしょう。

わたしも、これを書いている自宅でそんな経験をしましたが、おかげでわたしの目の前には、大げさでなく、人生最大の、目もくらむような深い溝ができました。

■対話ができないなら、正当性を主張しても通らない

こうなると悲惨で、なんとか対話らしきことをしようと努力しても全て無駄に終わります。なぜなら、バカとこちらの間には、もはや信頼も、共通の望みさえも、一切ないからです。したがって交渉など論外です。もう言葉も通じません。

そういうわけで、こちらが自分より上位にある正当なものをもちだしたところで(理性でも、道徳でも、神でも、何かわかりませんが哲学で言うところの「絶対」でも)、相手に無視されて対話にすらならないのでは、正当性を主張しても通りません。

そうしたものをもちだすのは、相手の道徳心を呼び覚ますための必死の試みだというのに、その正当性自体が、対話の最中に崩れ去ってしまうのです。

とにかく、わたしたちがバカに説教するときは、相手にはわからない方言で話しかけているようなものです。

もともと、言葉には、厳密なところもあいまいなところもあるため、仮に気の合う仲間同士でも、誤解はしょっちゅうです。でも、何か問題が起きたときに、言葉がちゃんと通じないと、誤解は大きく膨らんでしまいます。

■記号の解釈も誤解の原因

残念ながら、誤解は言葉によるものだけではありません。人は、言葉以外にも、さまざまなものを交わしています。声のトーン、身ぶり、態度、容姿など、五感で受けとる印象もそうです。

人は、過去の経験を反映させながら、今起きていることを消化するということもしています。それを全部混ぜあわせたものを、各自が思い思いに解釈するので、もともと解釈というものは、人によって食い違ったり、まるっきり正反対だったりすることもあります。

このように、人はいろいろな情報(記号)を読みとって解釈するわけですが(ちなみに、こうしたことを研究する「記号論」という学問があります)、相手への思いやりを失うと、解釈はとんでもない方向に行きます。

わたしはこれを書きながら震えています。そうなると、もはや打つ手がないのです。

こう言ってよければ、人と人の対話について考えるのは、もはや病理学の領域ですね。病気の原因や発生順序を突きとめるように、なぜおかしなことになってしまうのか、引きつづき考えていきましょう。

山頂で瞑想する人
写真=iStock.com/XH4D
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/XH4D

■バカと波長が合わない場合

人と人が対話をする中で、相手への理解と信頼が薄れ、相手の正当性を認めなくなる原因は、記号の誤解以外にもあります。

人と人の間には、親近性と言えばよいのか、深い部分で通じあう何かが存在することがあります(スピリット、バイブス、フェロモンなど、呼び名は何でもかまいません)。

それが合えばいいのですが、もちろん合わないこともあります。よく、ウマが合う合わないとか、波長が合う合わない、という言い方をしますよね。

たとえば、バカが気に入らない何かがこちらにある場合、それはずっと変わらず存在するわけですから、向こうは居心地が悪くなります。

こちらが何の動作もせず、一言も話していなくても、向こうは攻撃されたように感じます。そして、たいていは、バカとこちらの両方が、お互いに同じことを感じています。

たとえば、これを読んでいるあなたとわたしの場合を考えてみます。あなたはわたしの声が嫌で、わたしはあなたの体のかき方が嫌だとしても、お互いの話を聞くことはできるでしょう。

相手がバカだと、そうはいきません。潮が満ちて砂浜を覆うかのごとく、バカはこちらの価値体系を壊して、自分の価値体系もどきに全力で従わせようとします。

マクシム・ロヴェール(著)、 稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社
マクシム・ロヴェール(著)、稲松三千野(訳)『フランス人哲学教授に学ぶ 知れば疲れないバカの上手なかわし方』(文響社

なぜバカとは対話ができないかというと、こちらの何かが気に入らないと、バカは言葉を使って(もしそれを言葉と呼べるならですが)、こちらを挑発し、苛立たせ、侮辱してくるからです。

声をひそめたり、震え声を出したり、怒鳴ったりと、いろんなふうに言葉を繰りだし、時には長々と声高にしゃべりたてて、いかにも重々しい口調であなたに人生を説きさえするのです。

もはや、認めるしかありません。道徳などの正当なものをもちだしても、その正当性が通らないなら、それは間違いなくエンパシー(共感力)が失われているのであり、同時に、もう修復できない状況になっているのです。

このように対話が破綻すると、間違いは誰にでもあるといった結論には至りません〔心理学で言うところのコモン・ヒューマニティー(※)に失敗するというわけです〕。

バカはまだあなたに何か言っていますか? ここまでいろいろと考えて学びを得てきたわたしたちですから、バカの話にだって、おそらく耳を傾ける価値はあるでしょう。

本稿のポイント
言葉でわかってもらおうとするのはやめよう。相手はわかりたいと思っていない。

※……失敗や挫折は人間なら誰でも経験すると考えること

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マクシム・ロヴェール 作家 哲学者
1977年生まれ。フランスの作家、哲学者、翻訳家。高等師範学校でベルナール・ポートラに師事。2015年から教皇庁立リオデジャネイロカトリック大学(ブラジル)で哲学を教える。本書は本国フランスはじめ、世界10カ国以上で注目を集める話題作となる。ジョルジョ・アガンベン、チャールズ・ダーウィン、ヴァージニア・ウルフ、ルイス・キャロル、ジョゼフ・コンラッド、ジェームス・マシュー・バリーなど哲学書、文学書の翻訳も手がける。

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(作家 哲学者 マクシム・ロヴェール)

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