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「一晩に宴席を10件以上」と「一晩に1件だけ」…政治家として大成する「夜の付き合い方」はどちらか?

プレジデントオンライン / 2023年4月5日 18時15分

田中角栄氏(画像=首相官邸HPより)

人脈を広げるためにはなにが重要なのか。ライターの栗下直也さんは「人づきあいが重要な政治家においても、正解はひとつとは言えない。たとえば首相経験者では、田中角栄は一晩に10件以上の宴席をかけ持つことがあったが、小泉純一郎や橋本龍太郎は一晩に会合はひとつだけというスタイルだった」という――。(第1回)

※本稿は、栗下直也『政治家の酒癖』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。

■田中角栄が生涯愛した酒の名前

田中角栄の晩年は酒浸りだった。

ロッキード事件で捕まり精神的にも弱ったところに、腹心だった竹下登と金丸信が田中派を飛び出したことが角栄を追い込んだ。飲み過ぎによる高血圧から酒を控えていた時期もあったが、腹心の謀反で酒が止まらなくなった。

昼から酒を飲み、夜も会食で飲み、酔っ払って寝て、深夜の2時、3時に目が覚めるとまた飲んだ。毎日ボトル1本は空けていたというから、ほとんどアル中であるというか完全にアル中である。

好んだのはウイスキー。それも、後半生はオールドパー一筋だった。

酒所の新潟生まれらしく、もともとは日本酒派。銘柄にこだわりなく日本酒ならなんでも良かった。これが変わったのが1961年、自民党の政務調査会長を務めていた頃。富裕層の間で海外旅行が広がり始め、「ジョニ黒」がお土産の定番になる。角栄のもとにもジョニ黒が届き、いつのまにか好んで飲むようになった。

ちなみに50歳以上の方はご存じだろうが、ジョニ黒はジョニー・ウォーカー黒ラベル12年のことで、かつては舶来高級ウイスキーの代名詞だった。

庶民の憧れであることを示すエピソードを1960年の『サザエさん』に見つけられる。サザエさんが来客にジョニ黒を出すと、客が「ウハー! ジョニ黒ですな」と歓喜する。無理はない。当時の大卒初任給は2万円だったが日本国内でジョニ黒を求めると1万円もした。現在の感覚だと10万円前後だろう。

■ジョニ黒を自宅に常備していたワケ

ジョニ黒の輸入元が設定する小売り希望価格は1万円の時代が長く続く。1986年に8000円に値下げするが、その前年には朝日新聞が、輸入される時点では、輸送費や保険料を含んでも高くて900円と報じている。関税や酒税の関係もあるだろうが、8000円はさすがに輸入元がマージンをとりすぎである。

ちなみに、今、ネット通販のアマゾンで検索すると3000円もしないのだが、ジョニ黒を飲んでいる人はそう周りにいない。昔は高くて手が出ず、今は微妙な価格のせいか誰も手を出さない不思議な酒といえよう。

角栄はジョニ黒を自宅に常備していた。1日にボトルの半分を空けることもあるほど好んだが、自分用ではなく、来客へのお土産として常に一定量を置いていたのだ。

繰り返しになるが当時の価格で1万円だ。札束で顔をひっぱたくような人心掌握術と考える人もいるかもしれないが、気遣いとはそういうものだ。

■ブランデーをロックで飲むオレ流

角栄はその後、死ぬまでウイスキー党だったが、昭和40年代の前半に数年間、浮気した。

1965年、角栄は日本テレビの「大蔵大臣アワー」というテレビ番組に出演していた。

毎週木曜日23時15分からの30分番組で、文字通り大蔵大臣の角栄が出演する。情報教養番組という触れ込みだが、実際は自身や自民党の宣伝番組だった。民間企業がスポンサーについた番組で特定の党の宣伝をするのはどうなんだと大問題になり、3カ月で打ち切られた。

あるとき、この番組の収録の打ち上げが角栄の事務所で開かれた。ジョニ黒を飲む角栄に参加者のひとりが「ブランデーはないの」と尋ね、興味を持つ。早速買い求め、「レミーマルタン」や「ヘネシー」を愛飲するようになる。

角栄の周囲には「ブランデーはグラスを手のひらで包み込むようにして持つことで、体温が伝わりブランデーの芳香が立ちのぼるのを楽しむものですよ」などとうんちくを語る者もいたが全く気にしない。濃いブランデーをロックか水割りで飲んでいた。角栄はあくまでも我流だ。

黒い背景に氷とグラスにウイスキーを注ぐ
写真=iStock.com/ronstik
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ronstik

ブランデーを飲み始めるとブランデー一筋になるが、体の老いには勝てない。血糖値が高すぎるとの医師の助言もあり、糖分が高いブランデーからウイスキーに戻す。そして、1971年あたりから好んだのが「オールドパー」で、1985年2月末に脳梗塞で倒れるまで飲み続けた。

■盟友・大平正芳とすき焼きで揉める

余談になるが食べ物も角栄流を貫いた。生粋のしょうゆ党で「しょうゆの角さん」とも呼ばれた。寿司にこれでもかとしょうゆを付けるのは言わずもがな、ラーメンやうな重にもしょうゆをかけた。

大平正芳とは盟友だったが、食では対立した。ふたりでしばしば会食したがメニューはきまってすき焼き。店員に任せず、勝手に味付けして食べるのだが、辛党の角栄に対し、大平は甘党。

大平が砂糖を加えると角栄は「甘すぎる」としょうゆ漬けと思えるくらいにタレを濃くする。当然、大平は「たまらん」とばかりに砂糖を足す。政治もすき焼きも駆け引きが重要といったところか。

■とどめはオールドパー2本

これぞと決めたら浮気をしないのが角栄流。そして、それは宴席でも同じだ。酒飲みの多くはビールから始まり、日本酒やウイスキーと移る人も少なくないが、角栄は会食などで招かれた場合を除けば、1杯目から同じ酒を飲み続ける。

こんな話がある。北海道で角栄が講演し、その後の打ち上げで一同たらふく飲んだ。お開きになった後、地元選出の衆議院議員の箕輪登は角栄に宿の部屋に呼ばれる。飲み足りないというわけだ。

角栄は部屋で秘書に鞄を持ってこさせると、そこから「オールドパー」のボトルを取り出す。空にしてしまうと角栄は鞄を再び開け、2本目を取り出し、2人で2本を飲み干してしまった。宴会でさんざん飲んだ後にボトル2本を飲んだので箕輪は酩酊したが、角栄は平然としていたという。

■上座には絶対座らない

自分の酒を飲む場合はこだわりが強かったが、会食では酒を選ばなかった。若い頃は1日10件以上の宴席に顔を出すことも珍しくなかった。食事に手をつけず、ひたすら飲み、しゃべり、はしごした。

大臣になってからもかけもちは当たり前だ。

通商産業大臣(現・経済産業省大臣)時代は週3日は1日に3つの宴席をかけもちしていた。午後6時、7時、8時のトリプルヘッダーである。ひとつの宴席を1時間弱で切り上げ、3つの席を回るのだ。

主賓の角栄がひとこと挨拶して会は始まるが、乾杯の酒にこだわりはなかった。用意された食事には一口もつけずに宴席にいる10人前後のひとたち一人ひとりに自ら近寄りお酒を注ぎ、注がれ、時間が許す限り回る。

角栄は常に自ら動いた。役所の幹部職員との宴席でも自ら動き、一人ひとり分け隔てなく酒を注いだ。

酒と乾杯
写真=iStock.com/liebre
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/liebre

えらそうに「おれが主賓だぞ」とばかりに上座に座って、お酌をされるのを待っていたら、相手も恐縮するが、自ら懐に飛び込むため、相手の好感度も高まる。

胸襟を開いて情報交換が円滑になり、生の情報をつかめる。これを1日に3席こなすのだから、無数の杯を一晩で重ねる。

自分は飲まずにいかに人に飲ませるか。角栄は数え切れないほどの酌を交わす対策として、店側にあらかじめ小さい杯を用意させていたというからさすが宴席の達人である。

■小泉純一郎が好んだ酒

自民党の政務調査会調査役などを務めた田村重信は、『秘録・自民党政務調査会』(講談社)の中で「政治家は付き合いが良ければ大成するというものではない」と書いている。

人気の政治家ほど夜の誘いも多く、いくつもの会合に参加している政治家は今でも多いが、断る勇気も必要だと指摘する。

実際、橋本龍太郎や小泉純一郎氏は原則一晩にひとつの会合にしか参加しなかったと振り返っている。安倍晋太郎や渡辺美智雄が周りに気を遣いすぎて会合で体を壊してしまったのとは対照的だと述べている。

小泉純一郎氏
小泉純一郎氏(画像=首相官邸HPより)

小泉は別に酒が嫌いなわけではない。遊説の帰りの新幹線では常に日本酒、それもカップ酒を用意していたと田村は懐かしがっている。

■毎晩一升飲んだ“剛腕”

剛腕とかつては呼ばれ、今でも議員職にある小沢一郎氏も会合での酒の少なさで知られる。小沢氏は東北の出身らしく酒には強い。学生時代から酒は日本酒、ビール、ウイスキーなんでもござれであった。

政治家になってからも、毎晩のように一升は軽く飲み干す時期もあったという。会合が終わってからも自宅で飲み直す酒好きだったが、1992年に狭心症で倒れて以降は酒との付き合い方を変えたともっぱらの噂だ。

「付き合いが悪い」と言われようと我が道をいく。人とも酒とも適度な距離を保つ。がっぷり四つで朝まで飲むような時代は遠い日の花火のようなものだろう。

■「宴会の時間を短くして欲しい」

話が逸れたが、宴席の達人の角栄でも失敗したことがある。

1972年の国交正常化に際しての訪中時だ。当時の外務大臣の大平正芳の秘書だった森田一氏は田中の要望で中国側に、不思議な要求をした。

栗下直也『政治家の酒癖』(平凡社新書)
栗下直也『政治家の酒癖』(平凡社新書)

「宴会の時間を短くして欲しい」。何回も交渉した結果、最終的に30分だけ短くなった。誰もが田中がなぜそんなことにこだわるのか首をひねったが、森田氏には角栄の気持ちが理解できた。歓迎の酒を飲みすぎて余計なことを喋るのを危惧したのではないかと。

実際、その不安は的中した。訪中すると、連日いくつもの宴席が用意されていた。当初は慎重な構えを示していた角栄だが、疲れも手伝い、酒を飲むと移動中に寝てしまうこともあったとか。

そうした中、最終日に緊張の糸が緩んだのか、ガブ飲みしてしまい、側近に抱えられて宴席を後にした。同行した外務大臣の大平も本来酒を飲まないのに、乾杯攻勢に抵抗できず、十数杯乾杯を重ねたためホテルの部屋でぶっ倒れてしまったというから「歓待」ぶりがわかる。

角栄は1985年に倒れ、半身麻痺と言語障害を起こす。再起不能と判断されたがリハビリに励み続けた。

キングメーカーとして復活はならなかったが、1992年に中国との国交正常化20周年で訪中する。右半身は麻痺状態で言語も発せられなかったが、李鵬首相(当時)と左手で握手し、病人なのに大丈夫かという周りの心配をよそにマオタイを数杯空けた。肺炎により死去したのは再訪中から約1年4カ月後だった。

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栗下 直也(くりした・なおや)
ライター
1980年東京都生まれ。2005年、横浜国立大学大学院博士前期課程修了。専門紙記者を経て、22年に独立。おもな著書に『人生で大切なことは泥酔に学んだ』(左右社)がある。

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(ライター 栗下 直也)

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