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生徒も先生も「やりすぎ」と思っている…日本から「ブラック部活」がなくならない原因を早大教授が考えた

プレジデントオンライン / 2023年4月10日 17時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ferrantraite

生徒も先生も苦しめる「ブラック部活」はなぜなくならないのか。早稲田大学スポーツ科学学術院の中澤篤史教授は「戦後の部活は『生徒の自主性を育てる』という教育的理念を期待された。現代においてそうした理念は嘘っぱちのフィクションであるはずなのに、それに振り回され苦しめられている」という――。

■そもそも「部活動」の定義とは何か

「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動」

これは、国が定めた学習指導要領の中で示された部活の定義だ。部活は「自主的」と書いてある。

「ん? 部活が自主的だって?」と驚き呆れた人もいるだろう。いまや部活には「自主的」とは真逆の「強制的」「義務的」といったネガティブな印象が付いて回っている。

活動に強制参加させられた生徒が、練習と称した苛酷なシゴキで怪我や事故に巻き込まれたり、顧問による体罰・暴力で傷つけられたりする事例は珍しくない。だが、問題は生徒側だけではない。教師も、強制的に顧問をさせられたうえ、指導や引率で土日も休みが取れず、挙句見合った手当すらもらえない境遇が常態化している。生徒も教師も苦しんでいるこのような部活は「ブラック部活」と呼ばれている。このような状態の部活のどこが一体自主的なのか。

筆者は部活と自主性を結びつける国の学習指導要領に無理があると思っている。「自主的な部活をめざそう」「生徒の主体性が大事だ」「生徒の自治に任せよう」などと手垢のつくほど繰り返されてきたフレーズも嘘くさく思えてくる。

本稿は、この「自主性」というキーワードに着目しながら、部活改革の手がかりを探してみよう。

■軍国主義教育から民主主義教育への転換

そもそもいつから部活と自主性が結びつけられるようになったのか。その歴史的関係を紐解くと、戦前/戦後の区切りが重要であることがわかる。

戦前には、軍国主義的な教育が行われた。子どもを、国家の命令通りに動くような戦争の道具に仕立て上げようとする教育だ。「お国のために死んでこい」と命令されて、ロボットのように服従する兵士をつくろうとしてしまった。当然ながら、そこには自主性の欠片も無かった。

戦争が終わると、この軍国主義教育は間違いだったという強い反省から、「軍国主義教育は駄目だ。これからは民主主義教育だ」と大転換が試みられた。国民は、国家の命令に唯々諾々と従うのではなく、自分で考えて自分で行動する自主性をもたねばならない――。戦後の民主主義教育は、そうした自主性を持った国民を育てようとした。

では、自主性を備えた国民はどうすれば育つのか。カリキュラムや授業の内容を変えるだけで達成できるのか。そう簡単にはいかない。カリキュラムは大人が決めたもので、授業はそれを子どもに一方的に伝えるものに過ぎないからだ。自主性を大切に育てる方法をめぐって、当時の教育者は頭を悩ませた。

■部活に「自主性」の理念が組み込まれた

そこで一筋の光が見いだされたのが部活だった。いわく…

自主性をもった人間を育てるためには、カリキュラムや授業の枠で生徒を縛ってはいけない。生徒自ら考えて試行錯誤したり、仲間同士で相談し協力したりすることが必要だ。つまり、生徒自身が中心になければならない。それはまさに部活じゃないか。部活は生徒がやりたいことを自らの力でやるものだ。部活の中心には自主性がある。部活を活用すれば、自分で考え自分で行動する自主性を持った国民を育てることができる――。

1940~1950年代の資料を紐解くと、戦後の教育者たちはこう考えて部活に「自主性」の理念を込めた。その結果、2008年には、冒頭に示した通り、国の学習指導要領に、「生徒の自主的、自発的な参加により行われる部活動」という文言が初めて追加された。

ただし注意しなければならないのは、これは、実際の部活で本当に自主性の理念が体現できているかどうかとは別の話であるということだ。教育者が勝手にそう考えて期待しただけに過ぎない。

だが、そう期待して自主性の理念を込めたことで、部活は、戦後民主主義教育にとって非常に大切な“教育的意義”を持つことになったわけである。

■約7割の生徒が部活に悩みを抱えている

さて、そんな理念が込められていながら、周知の通り、現実の部活は自主性に満ちあふれているとは決して言えない。それはデータにも表れている。

スポーツ庁が実施した「平成29年度運動部活動等に関する実態調査」の結果を見ると、運動部参加者で「特段の悩みや課題はない」と答えた中高生は3~4割に留まる。逆に言えば、残りの6~7割ほどの中高生は何らかの悩みを抱えている。たとえば、「部活動の時間・日数が長い」「学業との両立」「体がだるい」といった悩みだ。「自主的」に入ったはずの部活で悩んでいるとは、これいかに?

その理由は、生徒が望む以上に部活が過剰に行われているからだ。学校のルールで部活に強制参加させられる生徒は少なくない。上記調査では部活へ「全員が所属」と決めている中学校が31.8%もあることが明らかになった。明示的に「全員が所属」とは決めていない残りの学校も、なんとなく部活に入らなければならない雰囲気や空気感が無いとは言い切れない。その雰囲気や空気感に従わざるを得ず、部活が事実上の義務になってしまっている学校も多い。

冒頭で述べたように、自主的どころか強制される部活も少なくないのである。

■生徒目線では部活は「やりすぎ」

同調査では、運動部活動に所属する中高生に、現実の活動日数・時間(実際どれくらい活動しているか)と理想の活動日数・時間(好ましい活動時間はどれくらいか)も尋ねている。その現実/理想を比較した2次分析をしてみた。具体的には、①平日放課後の活動時間、②土曜日の活動時間、③日曜日の活動時間、④土曜日の活動日数、⑤日曜日の活動日数の5項目で、生徒目線で見た現実/理想を比べてみた。

その結果をそれぞれグラフに示したので見てほしい。

生徒目線で見た運動部活動の活動時間・日数の現実/理想
(注)分析手続きの詳細は、拙論「日本のユーススポーツ」日本スポーツ社会学会編集企画委員会編『2020東京オリンピック・パラリンピックを社会学する』所収、創文企画。

①平日放課後の活動時間についての現実/理想は、中学で127.8分/121.0分、高校で147.6分/134.8分であり、現実が理想よりも長かった。現実に対する理想のあり方は、中学で6.8分減(マイナス5.3%)、高校で12.8分減(マイナス8.7%)となる。

同様に、土日の活動時間、活動日数(1月あたり)について、中学、高校のいずれにおいても、生徒の理想を超えて部活が行われていた。なんと、すべてで現実が理想を上回っていた!

つまり、平均的な生徒目線で見ると、部活はやり過ぎなのだ。生徒はもう少し休みがほしいと思っているが、現実の部活の強制性がそれを許さないのだ。

■テレビドラマに影響された「部活」の在り方

「自主性」を大切にしているはずが、なぜ強制的になってしまうのか。それを理解するためには、「制度」「実践」「理念」が与えた影響を考える必要がある。

まず制度が与えた影響とは、1969年・1970年の学習指導要領で設置された「必修クラブ活動」が関係している。部活それ自体は課外活動で、制度的にはあいまいな存在だ。しかし、部活とは別に、授業として「必修クラブ活動」ができた。放課後にある部活の「卓球部」以外に、週1回の「卓球クラブ」の授業が実施されたりした。ところが両者は似ていて、ややこしい。現場は混乱した。

そのため1989年の学習指導要領で、部活に入っていれば必修クラブ活動の授業を履修したと見なしていい、という「部活代替措置」が始まった。すると、多くの学校は、面倒な必修クラブ活動をしなくても済むように、生徒を強制的に部活に入れはじめた。

つまり、必修クラブ活動→部活代替措置→部活強制参加、という流れができてしまった。1998年・1999年の学習指導要領で必修クラブ活動は廃止されたので、厳密に言えばこうした制度的な流れは今は無い。しかし部活を強制参加させる慣例は残ってしまった。

つぎに実践が与えた影響とは、1980年代の校内暴力の時代が関係している。当時、非行生徒や学校の荒れが社会問題になった。この時、教師が部活を通じて生徒と関係をつくり、非行防止や更生を図るという生徒指導的な実践が広がった。テレビドラマ『スクール☆ウォーズ』の世界だ。

教師たちは、負担を抱えながらも部活にかかわり、生徒が学校の外で問題を起こさないように、部活で囲い込もうとした。生徒に部活加入を推奨・強制し、強引に指導者に従わせる管理主義的な部活のあり方ができあがった。

フットボールチームのコーチに耳を傾ける
写真=iStock.com/Image Source
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Image Source

■いつの間にか「部活には入らないといけない」ように

最後に、もっとも重要なのが、理念が与えた影響だ。戦後民主主義教育の始まりに戻って、そこで教育者たちが悩んでいた「自由と介入」の問題を見直すことにしたい。

戦後民主主義教育は、生徒の自由を尊重しようとした。軍国主義的に上から命令する教育をやめて、生徒がしたいことをする気持ちを大切にしようとした。しかし、生徒を好き勝手に自由放任にしていては、教育は成り立たない。教育とはある種の権力なので、「これはダメ」と生徒の行動を制限したり、「これをしなさい」と生徒に介入したりすることは避けられない。つまり、生徒の自由を尊重しながら、生徒に介入する教育を実現するという難題を教育者は突き付けられた。

この「自由と介入」の問題を解決してくれるように期待されたのが、部活だった。なぜなら、前述の通り、部活には自主性の理念が込められていたからだ。部活は生徒が自ら好んで参加するもので(自由)、同時に、そこで生徒を成長させる教育ができている(介入)、と考えられた。部活は自主的に参加する教育活動なのだから、「自由と介入」の問題が乗り越えられている、と教育者たちは信じたのだ。

しかし本来であれば、部活で生徒が具体的に何をするか、その一つ一つの経験がどんな学びや成長につながっているかが細かく検討されるべきだ。だが、そうしたきめ細かな検討をすることなく、部活をすること=“良い教育”と単純に考えられてしまった。

このロジックに従うと、生徒が部活をしてさえいれば、形式的には、“良い教育”が実現できていることになる。もっと言えば、より多くの生徒が、よりたくさん部活をすればするほど、“より良い教育”が成し遂げられたことになる。

すると、このロジックが逆転して、“良い教育”を実現するために、生徒は部活に入らなくてはならない、と考えられるようになった。生徒が強制参加させられるようになったのだ。

■教師も「タダ働き」を強いられる被害者でもある

こうして現実の部活が、自主性の理念に振り回されながら、強制性を帯びてくる。これこそが部活における「自主性の罠」である。

たとえば、「部活を休みたい」と申し出た生徒に対し、顧問教師が「お前は自主性が無いのか?」と相手にしてくれないことがある。それは教師が「生徒は好きで部活に参加するはずだ」「好きな部活なのだから、生徒は休まず頑張るべきだ」と思い込んでいるからである。それどころか、「もっと自主的に頑張れよ!」と教師に命令されて服従させられたりもする。笑えないコントではないか。

とは言え、教師のみを悪者にすることはできない。教師もまた、「自主的に働いている」と見なされて、部活から逃れられないのだから。

冒頭に述べた通り、部活にどれだけ時間を費やしたからといって、ほとんどの教師にはそれに見合った手当は出ない。給特法と呼ばれる特殊な法制度の下で、公立学校の教師には残業代が支払われず、勤務時間終了後の放課後の部活や、勤務開始前の朝練習、休日の大会引率などはすべて「タダ働き」として扱われている。こうしたあり得ない実態を不服とした教師たちが裁判を起こしたこともあったが、裁判所は「教師が自主的にやったこと」と切り捨ててきた。

教師としては「部活を通じて生徒の成長を日々実感できる」というお金には代えがたい報酬は得られるとしても、金銭的な「タダ働き」を強いられるのはあまりにも理不尽だ。

■「自主性」の理念はフィクションだ

こうしてみると、部活問題の元凶は部活と自主性を結びつける見方ではないかと思われてくる。「自主性」の理念は絶対の金科玉条とすべきではない。それはただのフィクションだ。フィクションの理念に振り回されず、生徒や教師が苦しんでいる現実の部活を直視すべきなのだ。

いや、むしろ、こう考えるべきかもしれない。フィクションのはずの自主性の理念が、現実に部活の苦しみをつくりだしてきた、と。

自主性のまばゆい光が、矛盾と問題を覆い隠したことで、生徒と教師を苦しめる「ブラック部活」が生まれてしまった。だから、部活問題を解決するための第一歩は、「嘘っぱちの自主性」を疑うことから始めなければならないのである。

■部活加入の強制ルールは即刻廃止せよ

では部活の何をどのように改革していけばいいのか。

繰り返される死亡事故、見て見ぬふりをされてきた体罰や暴力を、一刻も早く止めなくてはならない。苛酷な勤務状況に苦しむ教師を救い支えなくてはならない。生徒と教師を苦しめる部活のやり過ぎを規制しなければならない。

政策レベルの具体策としては、体罰・暴力事件や重大事故を未然に防ぐ指導者研修や環境整備を徹底すること、それでも体罰・暴力を振るった顧問教師や指導者は即刻追放すること、生徒を強制参加させる学校ルールをすぐ廃止すること、各部の活動量・日数・時間を国のガイドラインなどに沿って適切に規制することなどが考えられる。

もちろん、今年度から本格的に始まった地域移行政策にも注目が集まる。そのためにも、部活のダウンサイジングは必須だ。

しかし、こうした政策的介入は、「自主性の罠」に絡み取られて、うまく現場に浸透できないことがある。「自主的にやっているんだから邪魔をするな」「勝手に上から規制すべきじゃない」「現場の自主性に任せるべきだ」との声が挙がるのは想像に難くない。この自主性の罠が部活を混乱させ問題を生んできたことは前述の通りだ。

■自主性の前に法律を守らなければならない

だから、部活を改革するために、部活の内側に込められた、自主性という恐ろしい魔力から逃れなければならない。そのシンプルな方法は、部活の外側に目を向けることだ。

部活の外側には社会がある。その社会のあり方は、法律で決まっている。部活は何でもアリなわけではなくて、大前提として法律がある。

自主性のすばらしさを叫ぶ人ほど、このことを忘れてしまう。愛のムチだか何だか知らないが体罰は許されない。なぜなら、法律でそう決まっているからだ。「自主性」を叫ぶ前に、法律を守らなければならない。至極当たり前の話だ。

もうひとつ、部活の外側にある授業とも比べよう。授業は、生きていく上で必要な知識や技術を、生徒に身につけさせるためにある。だから、生徒の好き嫌いは二の次で、生徒は授業を受ける必要がある。

でも部活は、生きていく上で絶対に必要なわけではない。必要だから仕方なく部活をするのではなく、したいから部活をしているに過ぎない。それが教育「課」程「外」=課外活動であることの意味だ。「授業はさておき部活をがんばればいいんじゃないの?」なんて、部活に甘えてはいけない。

部活の外側に目を向けて、部活や「自主性」よりも大切にすべき法律や授業がある、という当たり前の事実を認識しなくてはいけない。

最後に、語り口を変えて、部活の当事者である生徒へメッセージを送りたい――。

生徒のみなさん、ホンネで話しましょうよ。みなさんのホンネを聞かせてくださいよ。

たとえば、アンケートをとるのは手っ取り早い。紙に印刷して配布するのが面倒ならば、GoogleフォームのURLをスマホで共有すれば、すぐにできます。周りの視線が気になるなら、匿名だって構いません。匿名でも声を拾いあげたほうがいい。普段思っていることを言えないままでいる方が不健全です。

面と向かって話し合える人間関係があるなら、リラックスしておしゃべりする「部活井戸端会議」を企画してはどうですか。その日は練習なんて無しでいいです。ざっくばらんにホンネを交わせる場を用意することは、とても大切ですよ。せっかくだから、ジュースやお菓子を用意するくらい、学校も許してあげてください。

ホンネを出せるようになれば、気持ちや考えも固まってきて、各人の意見がつくられてくるでしょう。すると多様な意見が出てきて、違った意見とぶつかることもあるでしょう。それも、ぶつからないより良いんです。いろいろな意見をまとめたり、ときには妥協したり、説得したり、納得したりするプロセスこそ豊かな学びになるはずです。

意見を集約する方法として「部活総選挙」を実施することもできます。どうしても意見が合わないなら、それぞれの意見を尊重するために、分離して活動したり、教師の負担が大きくなりすぎない範囲で別の部を新しく創部したりすることもできます。部活の自由度は、想像以上に大きいんですよ。

そうそう忘れるところでした。「イヤイヤやってたから、ぶっちゃけ部活やめたいんだよね」とホンネを漏らす生徒がいたら、ぜひ退部の選択肢を認めてあげてくださいね。

生徒のホンネを大切にした、地に足ついた部活改革をスタートさせてほしいと願っています。

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中澤 篤史(なかざわ・あつし)
早稲田大学スポーツ科学学術院教授
1979年大阪生まれ。東京大学教育学部卒業。東京大学大学院教育学研究科修了。博士(教育学、東京大学)。一橋大学大学院社会学研究科講師・准教授を経て、早稲田大学スポーツ科学学術院准教授から現職。スポーツ・身体・人間に関連する社会現象を、社会学を中心とした社会科学的アプローチから探究している。主著は『運動部活動の戦後と現在 なぜスポーツは学校教育に結び付けられるのか』(青弓社)、『そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義』(大月書店)、『「ハッピーな部活」のつくり方』(内田良との共著、岩波ジュニア新書)。趣味はコーヒーと囲碁。

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(早稲田大学スポーツ科学学術院教授 中澤 篤史)

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