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2人の総理大臣はかつて新宿・歌舞伎町に住んでいた…「日本最大の歓楽街」の意外な歴史をご存じか

プレジデントオンライン / 2023年4月14日 15時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ke

日本最大の歓楽街である新宿・歌舞伎町は、かつて森と池に囲まれた土地だった。そこからいかにして街がつくられていったのか。新宿歴史博物館の元館長・橋口敏男さんの著書『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)より紹介する――。(第1回)

■歌舞伎町をつくった女性をご存じか

「大正評判女番附」という、当時の有名女性の番付(ランキング)がある。そのトップ、東の横綱に位置しているのが峯島喜代である。

西の横綱はNHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」の主人公のモデルにもなった、広岡浅子。東の大関には、日本女医界の先達で、東京女子医科大学の創設者である吉岡彌生。西の大関には、ケンブリッジ大学やオックスフォード大学で教育学などを学び、新渡戸稲造とともに東京女子大学を創設した安井てつと、そうそうたるメンバーが連なる中で、峯島喜代がトップとなっている。

とはいえ、前述の女性実業家たちに比べて喜代の知名度は高くない。この女性、いかなる人物だったのだろうか――。

峯島喜代は、江戸時代から続く質屋「尾張屋」を営む峯島家の三女として、天保4(1833)年に生まれた。姉(長女)が峯島家の4代目(峯島茂兵衛)を婿に迎えたが、その姉が若くして亡くなったことから、嘉永2(1849)年、喜代が4代目の再婚相手となる。

ところが明治9(1876)年、4代目である夫が逝去したため、当時は非常に珍しかったが、女性である喜代が峯島家5代目を継承した。

明治16(1883)年には、養子(子を幼くして亡くし、その後も子宝に恵まれなかったため)に6代目峯島茂兵衛を継がせたため、わずか7年の当主であったが、それ以降も自分のことを「大旦那」と呼ばせ、大正7(1918)年、86歳で亡くなるまで家業に努めた。

■渋沢栄一との意外な関係

仕事についてはとても厳しく、小僧を連れて朝早く市電で30軒以上あった傘下の質屋を訪れ、開店準備の遅い店があると強く叱ったと伝わっている。とても背の高い専之助という小僧を連れているときに、外に出ていた目ざとい店員が見つけて、主人に「向うから専さんが大旦那様のお供をして参りました」と告げた。

今起きたばかりの家中は、それは大変、火事場のような騒ぎで、掃除をしてお湯の準備をして、大旦那が到着したときには、店は整然として熱いお茶が出せた。大旦那の喜代は「お前の処は早いのう、早いのう」と喜んだという。

また、渋沢栄一や大倉喜八郎など財界人との交流もあり、渋沢のことを「お前さん」と呼んでいた。渋沢が、自分のことを「お前さん」と呼ぶのは峯島喜代だけだ、と述べたと伝わっている。渋沢は喜代の亡くなった後につくられた銅像に、「峯島喜代子像」と揮毫(きごう)している。

■「大旦那」の大きな仕事

喜代が大旦那として事業を拡大した尾張屋の歴史を繙いてみたい。

尾張屋は、宝暦13(1763)年、初代峯島茂兵衛が「尾張屋」の屋号をもって、江戸で質屋として開業した。独立を目指した店員には質金を援助して、屋号を「尾張屋」とした同業質屋(下質)として出店させた。

尾張屋本店は次第に下質に貸し付けを行う親質となっていく。あまりにも尾張屋の名が多くなりすぎたので、目立つことをさけて「相模屋」を名乗らせる場合もあったという。

明治時代に尾張屋は躍進するが、そのきっかけとなったのは秩禄(ちつろく)公債である。明治になって武士は士族となったが、幕府や藩からの石高に応じた給料、秩禄については引き続き支払われた。

その秩禄を自主的に返納したものに与えたのが、明治6(1873)年に発行した秩禄公債である。ところが、下級武士は生活が苦しく、収入を得るために売却するものが多かった。尾張屋では、売りに出された公債を買い上げていた。

明治10(1877)年の西南戦争時には秩禄公債の相場が暴落し、尾張屋は暴落した公債を大量に買い上げることで利益を上げた。この買い上げは、4代目死去の翌年のことであり、5代目喜代の大きな功績である。

■東京で知らぬ者はいない大地主に

尾張屋の不動産開発は明治19(1886)年からである。買い上げていた公債の値上がりを見逃さずに売却し、それを購入資金として、3代将軍徳川家光の乳母・春日局の家である稲葉家屋敷6000坪(神田小川町)を買い上げた。

橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)
橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)

不動産投資を主導したのは喜代だった。買収した土地を、借地人に賃貸して運用。大正時代に入ると、現在の文京区千石、杉並区の堀之内や横浜の鶴見などで、買収した土地を宅地として分譲した。不動産事業により、尾張屋は東京市内で1、2を争う大地主となっていった。

明治33(1900)年に、傘下の質屋に金融を行っていた部門を独立させ、尾張屋銀行を創設した。こちらは6代目の采配だといわれる。支店数は最大7店舗で、配当も年1割を続けていた。

しかし昭和2(1927)年に昭和恐慌の影響を受け、新銀行の昭和銀行に吸収合併される形で、その歴史に幕を閉じた。当時は中小銀行が取り付け騒ぎを起こし、倒産する例が多かったが、尾張屋銀行は引き出しにはすべて応じ、廃業となったが尾張屋グループの信用はさらに上がったという。

明治44(1911)年には、不動産を管理・運用する尾張屋信託(株)(大正11年に現社名の尾張屋土地(株)に商号変更/初代社長は6代目当主峯島茂兵衛)が開業した。

■森と池とヘビ

現・歌舞伎町一丁目にあった大村伯爵の土地を購入したのは、明治44(1911)年。大正初期にかけて大村邸の森を伐採し、池を埋め立てて宅地化(貸地)したが、非常に難工事だったと伝わる。「大村の森」が埋め立てられた後は、「尾張屋の原」と呼ばれるようになる。

現・歌舞伎町一丁目にある歌舞伎町弁財天は、大村邸の池に祀られていたものを、その埋め立て工事の際に移したとされる。

工事中にたくさんのヘビが出てきたのだが、工事の邪魔になるため埋め立ててしまったところ、工事請負人の夢枕にヘビがでてきた。喜代はヘビ年生まれだったため、このとき、上野不忍池の弁天様を分社として勧請したという。この埋め立て工事を経て、歌舞伎町は住宅地として発展していく。

喜代は社会貢献への意識も高く、晩年の大正7(1918)年になると自らの寿命を悟ったのか、50万円という、現在の価値に換算すると10億円という金額を東京府に寄付した。

「女子教育のための学校設立に使ってほしい」という条件であった。

喜代は大正7年12月に亡くなるが、その遺志を受けて大正9(1920)年に、東京府立第五高等女学校が開校する(戦災に遭い中野区に移転。現在は都立富士高等学校・附属中学校)。

現・東宝ビルから歌舞伎町弁財天のあたりにかけて、その敷地3400坪は、尾張屋が東京府に無償で貸与したのだ。

■「歌舞伎町」に住んでいた総理大臣

関東大震災が発生すると、下町に比べて被害が少なかったため、家を失った人の多くが新宿など郊外へと移転してきた。歌舞伎町も、昭和に入ると住宅地としてますます発展を遂げていく。

なお、総理大臣の自宅というと安倍元首相が住んだ渋谷区富ヶ谷、かなり昔になるが田中角栄が住んでいた目白、吉田茂の大磯などというイメージである。まかり間違っても歌舞伎町という答えはでてこない。ところが、第2次世界大戦前の昭和の時代、歌舞伎町近辺に、3人の総理大臣が暮らしていた。

第31代総理大臣・岡田啓介
第31代総理大臣・岡田啓介(写真=首相官邸HPより)

1人目は、第31代総理大臣を務めた岡田啓介である。岡田啓介の自宅が、角筈一丁目北町会長の鈴木喜兵衛の著書『歌舞伎町』の中に登場する。

鈴木が、終戦後の焼け跡になった歌舞伎町にたたずんでいる場面だ。「末世に取残された幽鬼の様に殺伐な廃墟の中でポツンと一戸 其の中から煙が一筋揺いで見える 岡田大将の土蔵の様だ」(原文ママ)。岡田の自宅は淀橋区角筈一丁目875(現・歌舞伎町一丁目)となっていて、新宿区役所の北側で風林会館の手前あたりだと思われる。

■邸宅跡地にはシティホテルが建つ

2人目は、第35代総理大臣を務めた平沼騏一郎である。

第35代総理大臣・平沼騏一郎
第35代総理大臣・平沼騏一郎(写真=首相官邸HPより)

昭和20(1945)年8月15日早朝には、徹底抗戦を唱える佐々木武雄大尉率いる国民神風隊により、歌舞伎町にあった平沼邸が放火された。平沼は戦後、A級戦犯として終身禁錮の判決を受けたが、昭和27(1952)年、病気で仮釈放となり没している。

平沼が笑うとニュースになるといわれ、検事のバッジである秋霜烈日を絵にかいたような人物だった。平沼の自宅は淀橋区西大久保一丁目429の1(現・歌舞伎町二丁目)で、当時の地図にも平沼邸と表示され、現在は新宿グランベルホテルというシティホテルがある。

戦前の西大久保に生まれ育った作家の加賀乙彦は、著書『永遠の都』(新潮社)で平沼邸について、異様に高い黒塗りの板塀で人を寄せ付けず、巨大な猛犬で護られていたということを書いている。

第36代総理大臣・阿部信行
第36代総理大臣・阿部信行(写真=首相官邸HPより)

3人目は、第36代総理大臣を務めた阿部信行である。

阿部の自宅は淀橋区西大久保一丁目361となっていて、明治通りの北側で現在は新宿六丁目となった、日清食品東京本社のあたりだと推測される。

このように、戦前の歌舞伎町は、今では想像もつかないが、女学生が集(つど)い、歴代の総理大臣などが暮らした瀟洒(しょうしゃ)なまちだった。そこには86歳で亡くなるまで実業家として活躍した、大正時代を代表する女性・峯島喜代の存在も忘れてはならない。

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橋口 敏男(はしぐち・としお)
元新宿歴史博物館館長
1955年長崎県生まれ。77年法政大学卒業後、新宿区役所に入所。まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長など歴任。2016年歌舞伎町タウン・マネージメント事務局長、17~20年公益財団法人新宿未来創造財団に在籍し、新宿歴史博物館館長を務めた。著書に『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』(平凡社新書)がある。

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(元新宿歴史博物館館長 橋口 敏男)

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