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女性キャスターに「ダンゴムシ」と呼ばれても…ウェザーニューズのおじさん予報士が持つ強烈な"気象愛"【2022下半期BEST5】

プレジデントオンライン / 2023年4月9日 12時15分

ウェザーニューズの本社オフィスをバックに照れながらポーズを取る山口氏。右上に写っているのは番組撮影スタジオのセット。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

2022年下半期(7月~12月)、プレジデントオンラインで反響の大きかった記事ベスト5をお届けします。キャリア部門の第4位は――。(初公開日:2022年11月10日)
ネットで24時間配信されている天気予報番組「ウェザーニュースLiVE」の山口剛央解説員が、思わぬ注目を集めている。いかにも生真面目そうな風貌でありながらトークの中で社会不適合者ぎりぎりの生態がぽろぽろ露呈し、キャスター陣からなにかにつけ突っ込まれ、時には弄ばれてしまうのである。一体どんな人なのか。山口さん本人に取材した――。

■ポンコツぶりが愛される「看板予報士」の素顔

テレビやネット配信の天気予報番組に求められるのは、何をおいても的中度の高さ。しかし時に、それ以外の要素が人々の注目を集めることがある。

千葉市に本社を置く世界最大の民間気象情報会社・ウェザーニューズ社は、YouTubeやニコニコ生放送などを通じて予報・解説番組「ウェザーニュースLiVE」を24時間生中継している。

同番組には1日に数回、女性キャスターと気象予報士の社員解説員による短い掛け合いコーナーが差し挟まれるのだが、解説員の一人である山口剛央(たけひさ)氏が今、少なからぬ視聴者に支持されているのだ。

というのも彼、いかにも生真面目そうな風貌でありながらトークの中で社会不適合者ぎりぎりの生態がぽろぽろ露呈し、キャスター陣からなにかにつけ突っ込まれ、時には弄ばれてしまうのである。

例えば……、

・自宅周辺や通勤途中でその年最初にセミ(ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシの3種類別)の鳴き声を聞いた日と最後に聞いた日、同じくダンゴムシを最初に見た日、自宅の冷房や暖房をその年初めて使った日と最後に使った日、などを毎年毎年記録し、初雪のように“平年日”を出している。
・社員証以外ほとんど何も入っていない空っぽの大きなカバンを必ず肩から下げて通勤。本人曰く、「万が一、何か入れるものができた時用に持っておきたい」
・自宅で発泡酒を飲みながらテレビで阪神タイガース戦を見る以外の唯一の趣味が、実際の気象観測に使う雨量計や地震計と同じ原理・構造の簡易版計測装置の自作。その勢いでなぜか、お尻がLED豆球で点滅する紙粘土製のホタルや、イルミネーションが施されたクリスマスツリー(本人はただの「電飾の木」だと強く主張)まで作ってしまう。
・番組内で紹介された食材の表面を炙る調理法に興味を覚え、わざわざバーナーを購入して様々な自作料理に試した結果、『炙りチーズナポリタン』にドハマり。現在もヘビーローテーションで一人暮らしの食卓に登場中。

などなど。

■業界屈指のスペシャリストの一面

こうしたポンコツっぷりが逆に愛おしいのだろう、生中継中に画面にポップアップする視聴者コメントでは“ぐっさん”と呼ばれる山口氏の新たな迷・珍場面が生まれるたび、YouTubeへすぐさまそのシーンを切り抜いた動画が投稿され、各々に多数の反応が寄せられる現象が起こっている。

しかし彼は、ただの危ないオジサンでは断じてない。業界屈指の気象史・地象史のスペシャリストであり、特に地震に関しては日本で発生したあらゆる過去事例が詳細に頭へ刻み込まれているのだ。

この、すごいけど変なウェザーニューズの看板解説員“ぐっさん”はいつ頃、なぜ気象に興味を持ち、気象予報士としてどのような仕事をしてきたのか? 本社内スタジオで番組出演を終えたばかりの彼に、自らの来し方を語っていただいた。

■中学1年の冬から始まった「気象ノート」

山口氏は1973年、京都市に生まれた。やや内気だが外で友達と遊ぶのが好きな、ごくごく普通の少年時代を過ごした。気象に対する興味など、かけらもなかった。

気象ノートや新聞スクラップの一部
インタビュー時、中学生の頃からの気象ノートや新聞スクラップの一部を見せていただいた。これら歴代の紙資料や実家のVHSビデオで録り貯めてきた気象番組のダビングDVD集などは、自宅のひと部屋をそっくり使って保管・整理され、必要時にはすぐ参照できるようになっている。(撮影=プレジデントオンライン編集部)

中学1年になった85年12月17日のこと。京都に雪が降った。雪自体は珍しくないが、山口氏の実家がある市内南部の降雪量はそう多くない。

「ところがその日は夜まで降って、楽しみに見ていたら結局2センチ積もりました。これを何とか記録に残したいとノートにメモしたのが始まりで、以降、毎日の天気を書き留めるように」(山口氏、以下同)

いったん興味が湧いたものはとことん掘り下げ、吸収する性分を秘めていたようで、中学2年時の8月にはNHKラジオ第2放送の気象通報を基に、人生初の天気図を作成した。

「沖縄に台風が接近中だと知り、どうしてもやってみたいと思ったんです。気象通報では地点、天気、風速風向、気圧をアナウンサーが読み上げるので、聴き取ったデータを自分で描いた日本地図上に反映させた後、等圧線を引いて午後6時時点の天気図を完成させました。前年に積雪の記録を付けて以来、気象について一生懸命勉強し始めていたからできたんでしょうね。今振り返っても、そう間違ったものは作ってなかったはずです」

この頃から、毎晩10時に放送される気象通報をひたすら書き写す作業が加わった。

■雨量計は自前、尋常ではない熱量でのめり込む…

前年からの気象メモは当初の天候だけでなく、月日を重ねるにつれ自宅で計測した気温、風力、風向、雲量、気圧、降雨量など、項目がどんどん増えていく。

「計測は主に目視と体感です。風力に関しては、気象庁が出している地上気象観測指針に葉っぱがそよぐぐらいの強さだと風力2とか書かれてあるので、そうした目安に照らし合わせて今日の風はどのくらいという数値を出して。ただ気圧だけはちゃんとした機械がないと測れないので、高3の時に2万円出して買いました」

雨量計は自前のもの。

「バケツを外に置いとくっていう原始的な方法なんですけどね。中に溜まった雨の体積が、降水量何mmに相当するかを換算するんです。雨が降っている日は、深夜0時になるとバケツの水をメスシリンダーに移し、1日分の降水量を計算していました」

その姿を想像すると、さながら若きマッドサイエンティストに思えなくもない……。

最近自作した雨量計
撮影=プレジデントオンライン編集部
最近自作した雨量計。基本的な原理は、気象庁などが使うプロ仕様の計測器と同じだ。材料はホームセンターなどで調達。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

高校時代は部活に所属せず、授業が終わると毎日家に飛んで帰って、気象観測と気象記録と天気図作りに没頭。合間に気象関係の新聞記事のスクラップをしたり、NHKラジオの気象通報やテレビの天気予報コーナーもチェック、録画しなければならないから、気が付けばいつも夜中の12時前。だがそうした時間こそ、当時の彼には無上の喜びだった。

山口氏の両親は、尋常ではない熱量で気象にのめり込んでいる息子に苦言を呈すこともなく、温かく見守ってくれていたという。

「中高大とつながっているエスカレーター式の私立校だったので、受験勉強をする必要がなかったんです。とりあえず大学へ上がれる成績ではあったので、親もそこまで心配せず、もう好きにやってろと(笑)」

■『理科年表』が頭の中に入っている

時間をもう一度、彼の中学時代に巻き戻す。

中1での降雪記録と並んで、今の山口氏につながる中2時の運命的な出会いについても触れておかなければならない。

1986年11月、伊豆大島の三原山で噴火が起こった。全島民1万人が避難を余儀なくされた大規模なもので、山頂から溶岩が噴出している鮮烈なニュース映像をテレビで見て以来、彼は火山や地震といった地象にも関心を持ち始めていた。そんな折、たまたま入った本屋で、書棚に置かれていた小さいけれど分厚い本が目に留まった。背表紙には『理科年表』とある。

運命的な出会いをして購入した理科年表
撮影=プレジデントオンライン編集部
中2時、運命的な出会いをして購入した理科年表。以降毎年買い続けている。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

「なんだこれ、と手に取ってぱらぱらめくってみると、過去の地震データが克明に書かれてるじゃないですか。もう感動しちゃって、手持ちがなかったので親にせがんで買ってもらいました」

『理科年表』とは国立天文台が編纂する科学データブックで、1925年の創刊以来、毎年発行されている。中身は天文部、物理/科学部などに分かれており、山口少年がたまたま開いたのは地学部のページだった。日本で起こった歴代の大地震が記載されていて、最古の記録はなんと西暦416年のものだ。

「そこまでわかっていることに衝撃を受けて、今度は地震の方にも興味を向けるようになりました。まさに、人生を変えた一冊です。学校から帰ると毎日貪り読んでいたので、知らないうちに地震のデータリストは全部覚えちゃいました」

『理科年表』は毎年改訂されるが、わずかに追加事項が増えるぐらいで中身はほとんど変わらない。それでも彼は本屋で偶然“発見”した中2時以来、今も版が新たになるごとに買い続けている。

■理系科目が苦手で法学部に進学

ここまで気象・地象に熱中しているとなると当然、大学で専門的に勉強したいと考えるのが自然だ。

「地球物理学部とか理学部に進みたかったんです。卒業後、気象や地象に関係した仕事に就けるかもしれませんし。ただ私、理系科目が苦手で高校時代は文系コースだったんですよ。けれどどうしても行きたくて高3の夏休みから独学で微分積分にチャレンジしたんですが、そんなもの無理に決まってるじゃないですか(笑)。結局1カ月ちょっとで諦めました」

というわけで、おとなしく法学部を選択。

「文系学部の中では一番面白そうに思えたんです。文学や経済には全然興味がわかないけど、法律なら自分の生活にも直接関係してくるから知っておくのもいいかなぐらいの気持ちで進みました。もちろん、司法試験を目指すなんてハナっから考えてません」

■「恥ずかしくて周囲には一切言ってません」

大学時代に熱中したのは、中高生の頃の生活からは想像もつかないものだった。

「ずっと文化部か帰宅部だったので、大学が最後のチャンスだろうから何か体育会系の部に入ってみたくなったんです。特段の運動神経や筋力がなくてもついていけそうな種目を探して、結局アーチェリーを選びました。やってみると、1本1本射るごとに短時間でどんどん結果が出ていくところがすごく面白くて。大学の授業には必要最小限だけ出席して、ずっと部室か練習場にいましたね。力量はたいしたことありませんでしたが、たまに試合にも出たりして」

アーチェリー部時代の思い出を語る山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
アーチェリー部時代の思い出を語る山口氏。部活動や友人との付き合いをおおいに楽しんだ一方、時にサボりつつも気象記録は続けていた。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

アーチェリー部では主務を担当した。

「その役割もけっこう楽しかったんですよ。例えば夏合宿だったら、自分なりのプランを作って業者さんとやり取りして、結果を部員たちに伝えて、とか。高校時代まで気象記録に没入していたせいもあって人との折衝なんてかなり苦手な分野だったんですが、大学の体育会ともなると他校の部員との接点もあったりするので、人間的にちょっとずつまともになっていきました(笑)」

とはいえアーチェリーと並行して、気象記録も相変わらず続けていた。

「部の友達と遊ぶのに忙しくてサボる日もあったりしましたが、やはり記録は取ってました。でも恥ずかしくて周囲には一切言ってません。大学生にもなって、雨の日は深夜0時に数値を測ってるなんてバレたら、絶対変に思われますから」

気象計測装置作りの熱も冷めることなく、この頃は地震計を完成させている。

「地震計は中3の時に地震を記録したい、どんな揺れ方をするのか見てみたい、と学校の図書館で本物の計測装置の基本構造を調べて、同じ原理で簡便なものを作ったのが最初です。大学生ともなるとバイトやったりしてお金に余裕ができますから、構造は同じですけどもっといい部材を使ってバージョンアップさせた2号機を製作しました」

ウェザーニューズ入社後に自作した地震計の記録紙
撮影=プレジデントオンライン編集部
こちらは、ウェザーニューズ入社後に自作した地震計の記録紙。一から設計し組み立てることで、プロユースの計測装置における工夫点や盲点が見えてくることもあるという。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■就職先は製薬メーカー

もはや生活習慣の一部とまで言える付き合いになっていたのに、しかし彼は就職活動の際、気象・地象に関する会社に応募しようとさえしなかった。

「高3ぐらいまではやれるものならと本気で考えてましたけど、大学で法学部に進んだ時点でまったくなくなりました。文系の学生が仮に気象会社に入れても、実務に携わることはできませんから」

それでも高校時代、理科では地学のほかに化学が得意だったので、文系学部出身者でもせめて化学の知識を生かして働けるところがないかと探したところ、製薬メーカーという業種に行きつく。

「仕事内容に興味を持って働けそうだし、将来潰れることはなさそうだって安定志向で製薬業界一本に絞った就職活動をして、最初に採用通知をくれた大阪の中堅メーカーにすぐ決めました。入社が決まった時は〈ここで定年まで勤め上げるんだ、この会社で頑張ろう〉と意気込んだのを、今でも覚えてます」

入社後に配属されたのは営業部。

「どういう薬をどれだけ作ってどこへ売るかをマーケティングし、生産計画を作る営業企画のような仕事でした。新入社員ですから言われたことをやっていただけですが、新しい知識が自分のものになっていくのは面白かった。興味を持てさえすれば楽しくやれるタイプなので、仕事がつらいとかまったく感じなかったです」

■自分の力を試すため予報士試験に挑む

製薬業界の新人営業マンとしての忙しくも充実した日々。その一方でやはり気象とすっぱり縁を切ってはいなかったのが、彼らしいところだ。

山口氏が大学4年時の1994年に、気象予報士試験制度が創設されている。初年度は8月と12月、そして翌95年の3月に行われたが、彼は卒業直前の第3回試験を受験していた。

「中学・高校・大学と気象に打ち込んできたので、せっかく試験制度ができたのならどこまで通じるのか試してみたくなったんです。曲がりなりにも国家資格なんだから、合格すれば自分がそれなりの水準にあるんだと確認できますからね」

中学時代から続けてきた克明なデータや天気図
撮影=プレジデントオンライン編集部
3回目の気象予報士実技試験の際には、中学時代から続けてきた克明なデータや天気図の記憶が彼を合格へと導いた。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

初めて受けた予報士試験で、学科試験は見事一発合格。実技試験は惜しくもクリアできなかったものの、学科試験合格者はその後1年間、残る実技試験に合格すれば予報士資格を得られる規定になっている。

山口氏は社会人1年目の95年8月に実技を再び受験したが、またも不合格。そして学科試験免除期間中で最後のチャンスとなる96年1月、3度目の実技試験を受けた。これでだめならもう受験は諦めるつもりで臨んだ、背水の陣だった。

■3度目の受験で合格

実技試験には、年月日が伏せられた過去の本物の天気図が示され、「この天気図の時にはどんな注意事項があるか」「何を想定すべきか」などを記述する問題が必ず出る。配られた問題用紙の天気図を見た瞬間、思わず彼の頬が緩んだ。

「当時の私の頭の中には、過去数年分の天気図や気象データがざっくり入っていましたから、〈これ、1995年11月8日のやつだ〉とピンときたんです。稚内で44.9mという記録的な風速を観測した日でしたからね。あとは、覚えている当日の状況を書けばいいだけ。そこの設問は全部正解だったと思います」

ここまでくると、もはや一種の変態である。しかしその異能が、3度目の受験での合格を手繰り寄せたのだ。

晴れて気象予報士にはなれた。でもその資格を活かせるところへ転職しようとは、露ほども思わなかった。営業の仕事をがんばりながら、あともう少しだけ気象に時間を割いてみようかと考えただけだ。

そんなある日、図書館で気象関係の雑誌を読んでいると、ページをめくる手が止まった。

「ひまわりの画像受像機の広告が載ってたんです」

テレビの天気予報コーナーなどでおなじみの、日本列島の上にかかる雲の様子を気象衛星ひまわりが捉えたモノクロ画像。それを自宅に居ながらにして受信できる装置が、一般に売りに出されていたのだ。

「世の中にこんないいものがあるんだと震えちゃって、さっそくメーカーからカタログを取り寄せたところ、気になるお値段がわかりました」

定価200万円なり。

「〈マジでか?〉と目を疑ったんですけど、一旦ほしくなっちゃったものですから、〈200万円出す価値があるんじゃないか〉とだんだん傾いていったんですよね(笑)」

■夏のボーナスで買った「ひまわり画像受信機」

思案の末、購入を決断。メーカーに見積もりを依頼したところ、担当者が「個人の購入者はあなたが史上二人目です」とわざわざ接待の場を設け、さらに170万円への値引きまでしてくれた。それでも社会人2年生の身に賄えるはずもなく、夏のボーナスを全部つぎ込んだ上、親から数十万円借金して一括で支払った。

実家の屋根の上に直径1m超のパラボラアンテナを設置し、会社から帰宅すると彼は毎夜、受像機のブラウン管モニターに映る日本列島上の雲画像を眺めた。

「インターネットも普及していない時代で、普通ならテレビの天気予報の何十秒かしかひまわりの画像は見られない。それが自分の目の前で24時間好きな時に映せるっていうのがすごくうれしくて、翌日の仕事があるからちゃんと寝なきゃいけないんですけど、台風の季節なんかは夜中の2時、3時でもゴソゴソ起き出して、真っ暗な部屋の中で雲の動きを追ってました」

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
現在の職場では最新のあらゆる気象データにアクセスできるが、過去事象についてはインターネットより自宅の紙データの方がより迅速に、より詳細に情報を得られることが少なからずあるという。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

今と比べれば解像度は粗く、衛星からの撮影頻度も1時間に一度(現在は2.5分に一度)ではあったが、それでも当時の彼には胸がワクワクする画像だった。

「170万円も出した価値はあった、いい買い物をしたなと。高校時代までの情熱がどんどん戻ってくるのを感じていました」

■社会人2年目、転職を決意

入社2年目の11月初旬、山口氏は会社から名古屋への転勤の打診を受ける。

その瞬間、なぜか胸の内に〈今しかない〉という言葉が浮かんできたという。

「転勤後に私の後釜に誰かを補充したりはしないとのことでした。ということは、大阪本社の今の部署から自分の立場の人間が一人抜けても大丈夫なんだ、会社に迷惑をかけることはないなと。名古屋支社は少し困るかもしれませんが、せっかく気象予報士資格も取ったんだし、ここは一発勝負してみたい、自分の好きなことを仕事にする踏ん切りをつけるため、今辞めないとこのままズルズルいってしまうと思ったんです」

異動の打診を受けてから2週間後、周囲に事前の相談をすることもなく、いきなり辞表を提出した。当然会社側は引きとめたが、彼の決意が固いと知ると、引継ぎや残務整理の期間ということで翌年1月中旬までは社籍が残る手はずを整えてくれた。山口氏が若手ながら懸命に仕事に打ち込んでいたからこその、餞別(せんべつ)代わりだったのだろう。

転職活動さえ始めていなかった段階での退職願い。自身の能力を頼みとした、若さゆえの楽観がそうさせたのか。次の当てが何もないことへの不安などはなかったのだろうか。

「めちゃくちゃありましたよ。辞表が受理された途端、〈いらんこと言ってしまった〉と怖くなりました。もう後戻りできないわけですからね。時間を置かずにどこか決まるだろう、なんて自信はまるでなかったです」

■今を逃すともう後がない

退路は絶った。さあ尻に火が付いた。

「とにかく次の仕事を決めなきゃと気象予報士関係の本を買ってきました。その巻末にあった気象会社の連絡先リストの上から順に電話をかけ、求人があるか尋ねることにしたんです」

まず最上段にあった会社に連絡してみると、代表受付の女性は採用なんてしてませんと冷淡に言い放ち、ガチャリと電話を切った。

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
製薬会社からの転職時には、ウェザーニューズに一世一代の猛アタックをかけたと振り返る。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

「もちろん私の方が勝手に電話をかけたわけですが、営業をやってた人間にすれば〈先にそっちから切るのは、マナーとしてなしでしょう?〉ですよ……。ブチ切れながらリスト2番目のウェザーニューズに問い合わせてみると、今度は総務の人が『いい方がいたら採ってますよ』と言ってくれたんです」

すぐに履歴書を送り、返事が来るのを待った。しかし2週間待っても音沙汰がない。痺れを切らし、いつ面談していただけますかと再度問い合わせた。

「学生時代の就職活動でも、採用面接でグイグイ前のめりに自分を売り込んだことなんてないんです。そんな積極性というか押しの強さを出したのは、後にも先にも人生その1回きり。一世一代の大冒険ですよ。今を逃すともうない、正式に製薬会社を退職する1月までに決め切れなかったらどうなるかわからない、と相当焦っていたんだと思います」

結局12月下旬に初回面接を受け、翌97年1月20日の社長面接で採用を取り付けた。

「入社希望日を聞かれたので『明日からでも来られますっ』と答えたんですけど、同席していた総務の方に『無理でしょ?』ってさらりと諫められました。で、1回京都の実家に帰って21日に身支度をし、翌日千葉へ移って23日に初出社したんです」

■会社にいる時間がうれしかった

ウェザーニューズへの転職を機に、人生初の一人暮らしが始まった。といっても土地勘がないので東京などで羽を伸ばす気にもならず、ひたすら会社と自宅を往復するだけの日々だったが、まるで苦にならなかった。

「むしろ会社にいる時間の方がうれしかったんですよ。だって、ひまわりもアメダスも見放題なんですから。『これでお金もらっていいんだろうか』と」

ちなみに前年、170万円で購入したひまわり受像機は京都の実家に置いたままだったが、転職した年の6月にソフト不調で壊れてしまった。実稼働6カ月というはかない命だった。

ウェザーニューズに入って山口氏がまず配属されたのは、契約している放送局をサポートする部署だった。当時とある放送局に提供していた自社制作の気象番組の現場に立ち会ったり、チャンネル内で1時間ごとに流れるニュースの天気予報コーナー用に元原稿を作成するのが主な仕事だ。

続いて大阪の放送局へ出向して気象コーナーの構成を3年間担当した後、本社に戻る。以降は、全国各地の放送局に地元の天気予報原稿を送る「放送気象」に4年、道路管理者向けに天気予報情報を提供する「道路気象」に9年、電力会社向けの「電力気象」に4年携わった。

「豪雨時の巡回態勢や降雪時の除雪態勢を敷くにあたり、どの場所に、いつ頃、何人の作業員を差し向けるかを決めるため、道路管理者は非常に限定された地域の確度の高い降雨予報、降雪予報を必要としています。また、暑くなると皆さん冷房を使うので、増えた電力需要を賄えるだけの電力を作れなければ、停電してしまいます。電力会社は、例えば今日東京で何度まで気温が上がる、何ミリ雨が降るという気象会社の予報を基に、需要想定をするわけです」

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
ウェザーニューズへの入社当初は、ひまわりもアメダスも見放題という職場環境に感激したという。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■「ウェザーニュースLiVE」の解説員に

こうした道路気象や電力気象は、一般向けの天気予報よりはるかにピンポイントで、より短く刻まれた時間単位で、場合によっては相当先の日時まで、できる限り正確な予報が求められる。

タイムマシンでも持っていない限り未来の天候を100%的中させるのは不可能なのだが、クライアントにしてみれば自分たちの業務に直結する情報であり、相応の対価も支払っているわけなので、「予報だから、たまに外れることもあります」では済まされない。

「大きく外した時は、厳しいお叱りも受けます。的中率が低ければお客さんは即、競合他社に流れてしまう世界です。時には技術部門を代表してお詫びに伺ったり、報告書を書いたりもしました」

そして2018年、天気図の解析や日々の予測を行う部署である予報センターへ移り、自社で配信するオリジナル気象番組「ウェザーニュースLiVE」の解説員となって現在に至る。

「他部署にいた頃にも、自社番組で地震関連のトピックを取り上げる際や発生した地震の解説が必要な時、『お前、詳しいだろう』ということで声がかかって、何度かカメラの前で喋った経験があったんです。また、私の予報センターへの異動と入れ替わりで何人かの解説員の方が他部署へ移られたので、成り行き上、番組に出る側に回ることになりました」

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
同社所属の解説員には珍しく、山口氏は「ウェザーニュースLiVE」への出演専任。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■「文系学部卒の気象好き」だからできる気象解説

通常、解説員は人事管理や予報技術開発など予報センター内で他にも職務を持っているが、山口氏は番組出演専任。“気象の語り部”一本でメシを食う者として、心掛けていることがある。

「そもそも私は、ウェザーニューズに『文系学部卒の気象好き』として入社しました。もちろんプロとして必要な知識は備えていますが、ずっと専門に勉強してきた人に比べれば、数式を使ったりする理系的な気象学の方面には強くない。だからこそ番組中では、気象状況をきちんと把握した上で専門的すぎる内容は口にせず、わかりやすく平易な言葉で伝えるようにしています。視聴者の方に理解していただいてこその天気予報ですから」

解説員としてのもうひとつの特徴は、過去の類似した気象・地象事例を紐解きながら、現在の状況を浮き彫りにしていく点にある。

「同じような気圧配置とか同じような規模の地震があった時、私は当時こういうことが起きました、今回もまたこういうことが起きるかもしれませんという伝え方をするんです。専門用語をずらずら並べて『予断を許さない状況です』と言うより、過去の似た状況を併せて紹介し、皆さんの耳に入りやすくしたいと意識してます」

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
視聴者が理解しやすい、平易な言葉での気象解説を心がけているという。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■2つの大地震報道で生かされたデータ

彼の真骨頂が生かされたのが、2011年の東日本大震災と2016年の熊本地震の際の放送だった。

東日本大震災時は道路気象の担当でありながら、地震に関する該博な知識を買われて速報番組に丸1日以上出ずっぱりで登板。

地震発生の初報から約1時間後、釜石で4.2mの津波第1波が観測された段階で、どのテレビキー局も事実の伝達のみに追われていた中、彼は死者・行方不明者合わせて3000人超を出した1933年の昭和三陸地震を例に引き、状況の深刻さを伝えている。

「第1波で4.2mなんて、過去になかった津波の値でしたから。ただ実際には、三陸地震のはるか上を行く大被害が出てしまったのですが……」

熊本大地震では当初、4月14日に起こったマグニチュード6.5のものが本震と想定されていた。

しかし山口氏は翌15日にも同6.4の地震が観測されたことに着目し、これは14日のものの余震ではなく、続いてより大きな地震が起こる可能性を番組内で指摘。結果的に、16日未明に起こった同7.3の本震を予言した形となった。気象庁から、14日の方が前震だったと考えられるとの訂正見解が発表されたのは、16日の本震が発生した後のことだった。

「通常、本震の後に来る余震はマグニチュードで1引いたぐらいが最大の規模なんです。ところが翌日に5.5どころか6.4、最初とほぼ同じものが起きてしまった。これは余震というにはあまりに大きすぎると過去事例を改めて調べてみたら、1968年のえびの地震や2003年の宮城県北部地震で似たような起こり方をしていたので、『油断しないでください』と警戒を呼び掛けたんです」

中学時代からひたすら続けてきたデータ、ニュースの収集、蓄積が、緊急時の貴重な注意喚起の礎になったわけだ。

「当時は何も考えずただ一心不乱にやってただけなんですけど、あの頃の私に『がんばれ』って声をかけてやりたいとほんとに思います。『無駄なことじゃないんだぞ』と」

気象・地象に関する新聞記事のスクラップも、中学時代からのものが揃っている
撮影=プレジデントオンライン編集部
気象・地象に関する新聞記事のスクラップも、中学時代からのものが揃っている。こうした資料や記録のひとつひとつが、震災時にいち早く警戒を呼びかける上での礎になっている。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

■やっぱり気象の仕事が好きなんだ

気象予報士という仕事は、まさに天職だと感じている。

「自分の根っこのところを出し切れる世界だと思ってます。気象史、地象史、そして『観測とは』とか、他の予報士さんの得意分野とはちょっと違うところを積み重ねてきて、それを解説に生かせているのはすごくやりがいがあります。長くやっていると大事な場面での予報が当たらないなどで心が折れそうになったこともありましたけど、それでも辞めなかったのは、やっぱり気象の仕事が好きで、これしかないんだっていうのがあったんでしょう。ウェザーニューズには、今まで25年働かせてもらってありがとうございますって感じです」

予報センターに異動した際、彼は総合職から専門職への雇用形態変更を願い出た。野村克也氏の「生涯一捕手」ではないが、「生涯一気象解説員」で行くと決めたわけだ。

だからこそ、解説員の仕事には覚悟と矜持を胸に臨んでいる。

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
解説員の中では地震関係の第一人者の立場にあるだけに、いざ震災が発生して出演要請がかかれば1年365日24時間、いつでもスタジオに駆けつける覚悟でいる。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

「9時から5時まで働いたんで帰りますっていうのは通じない世界なんです。大きな地震が起きたら、出勤時間前だろうが走って予報センターに出てきますし、退勤時間後まで引っ張られようがいくらでもやります。休日だって、どこか遠くへ旅行なんてしません。元々インドア派というのもありますけど、それより会社のある千葉から離れるのが怖いんです。地震関連の解説員としては一応最初に名前が上がる立場でやらせていただいているので、何かあって番組出演要請がかかった時に『ごめんなさい、今日は休みなので行けません』はあり得ない。365日24時間、気象にしても地震にしても人間の活動なんて考えてくれませんから、自然現象に追随するにはそれぐらいの気概がないと」

■年下のキャスター陣に「おもちゃ」にされる気分は…

番組でおなじみの淡々とした口調でさらりと語るだけに、かえってその決意の苛烈さがうかがえる。

しかしこうした真摯(しんし)な職業人としての一面を秘めながら、ひとたびフリートークコーナーとなるとキャスターにやり込められっぱなしのとぼけた素顔を思わずさらけ出してしまうどころか、〈もっと強いのをっ〉と嬉々として受け入れているフシさえあるところが「ウェザーニュースLiVE」のファンにはたまらないのかもしれない。

ただいくら視聴者にウケているとはいえ、コンビを組むキャスター陣にテレビカメラの前で入れ代わり立ち代わりおもちゃにされて、何も思うところはないのだろうか。

「全然です。腹なんか立ちません。昔からいわゆる“いじられる”タイプでしたし、キャスターの皆さんは下手したら娘ほどの歳の人たちなので、そういう役回りの方がむしろ自分には合ってる気がします。地震や台風の時はお互いプロなんだから、必要なことを真剣に伝えるのが絶対なんですけど、日本全国が高気圧に覆われてどこもだいたい晴れみたいな日に、楽しくやるのはありだと思うんですよ。他局の気象コーナーだったらすごいクレームになるんでしょうが、そのへんうちは自由なので」

■気象番組を通じて伝えたいこと

YouTubeに上げられるような情けないやり取りになってしまいがちなのは、別に笑わそうと思ってやっているわけでも、演技しているわけでもない。

「演技できる余裕があったら、もっとかっこいいこと言ってますよ(笑)。でもできっこないので、どういう受け取られ方をしようが素直に正直に答えるようにしているだけで。オジサンが自然体でやっているのをもし皆さんに楽しんでいただけているのなら、望外の喜びでございます」

と同時に、柔らかで自由な雰囲気の気象番組を通じて伝えたいことがあるという。

「気象や地震に興味を持ってくれる人を増やせたらいいですね。文系学部出身者でも気象会社の解説員としてわいわい好き勝手やれてるんだってところを感じてもらって、裾野を広げる役に立てれば。もし5年後、10年後に『この番組がきっかけで気象の世界に飛び込みました』とか、『山口さんが自作の地震計を紹介した回を見て、地震学者になりました』なんて言われたりしたら、こんなにうれしいことはありません」

気象・地象に無償の愛を注ぐ者には、天の神様がご褒美をくれることもあるかもしれない。「ウェザーニュースLiVE」の若い視聴者の中から第二、第三の“ぐっさん”が生まれる日を、山口氏は心待ちにしている。

山口氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
「ウェザーニュースLiVE」への山口氏の登場時間帯は早朝から深夜まで日によって異なり、コンビを組むキャスターは3時間ごとに交代する。「今日ぐっさんは登場するのか?」「誰と一緒なのか?」は、番組ファンの大きな関心事だ。 - 撮影=プレジデントオンライン編集部

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河崎 三行(かわさき・さんぎょう)
ライター
高松市生まれ。フリーランスライターとして一般誌、ノンフィクション誌、経済誌、スポーツ誌、自動車誌などで執筆。『チュックダン!』(双葉社)で、第13回ミズノスポーツライター賞優秀賞受賞。このほか、著書に『蹴る女 なでしこジャパンのリアル』(講談社)がある。

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(ライター 河崎 三行)

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