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新宿で歌舞伎は見られないのに、なぜ「歌舞伎町」というのか…「日本最大の歓楽街」の知られざる歴史

プレジデントオンライン / 2023年4月16日 15時15分

ゴジラのオブジェと歌舞伎町の夜景=2015年5月6日、東京都新宿区 - 写真=時事通信フォト

東京・新宿の歌舞伎町には、歌舞伎を見られる劇場はない。なぜ「歌舞伎町」というのか。新宿歴史博物館の元館長・橋口敏男さんの著書『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)より紹介する――。(第2回)

■空襲で焼け野原になった新宿歌舞伎町

新宿は戦災で歌舞伎町も含めて焼け野原となってしまった。何もないところから始まった復興計画。それを立てたのは、役人や政治家ではなく、いち町会長だった。

その人、角筈一丁目北町会長(現・歌舞伎町一丁目)を務めた鈴木喜兵衛の活躍を鈴木の著書『歌舞伎町』などをもとに追っていきたい。

鈴木は明治24(1891)年、三重県生まれ。海外雄飛の夢を抱いて上京して、アメリカやイギリスの大使館でコックを務めている。大正11(1922)年に新宿大ガードのそばに大洋軒というレストランを開業。2年後に、レストランを発展解消して缶詰のスープやカレーを製造販売する「鈴木喜兵衛商店」を、角筈一丁目(現・歌舞伎町一丁目)に開業した。昭和18(1943)年に、角筈一丁目北町会町会長になっている。

昭和20(1945)年4月13日午後9時頃、警戒警報のサイレンが鳴った。鈴木が町会員である医師宅の防空壕(ごう)で、救護の打ち合わせをして外に出てみると、第五高女の前あたりから町会の事務所より南に紅蓮の炎がメラメラと立ち昇り、黒煙が渦巻いていた。

翌14日の午前2時頃には歌舞伎町はほぼ焼け野原になった。警察に炊き出しを依頼するも難しいといわれるが、乾パン2000人分を手に入れることができ、8時30分に1800数十名に朝食を配給することができた。

現・歌舞伎町一丁目に多くの人が住んでいたことに驚きである(現住民は令和5年1月1日現在で156人)。その後、多くが疎開していき、19日にはほとんどの者が立ち退いたという。20日に、戦争が終わったら協力して町会の再建を行うと申し合わせて、町会の解散をした。

■廃墟に咲くカボチャの花

戦災後に鈴木が疎開したのが、妻の実家がある中禅寺湖(栃木県)である。中禅寺湖畔の英国大使館の別荘隣りにある、南五番の別荘に身を寄せた。

この場所で鈴木は8月15日の終戦を迎える。天皇陛下の玉音放送を聴いた鈴木は「悲しいのか? 憤激したいのか? 戦争が終つて安心なのか?」(原文ママ)と、複雑な感情が湧き上がってきたという。その日、これからの日本の姿を鈴木は思い描く。

「そうだ 観光国策 之れは必ず取り上げられるに違いない 各国に憎まれる心配もない (中略)彼等が東京の焼野原に立つた時 新宿に整然とした復興の街のある事を見せてやる 計画復興だ 観光国策の一環として 道義的繁華街の創造をする」(原文ママ)

そんなことを考え就寝したのは、日付も変わった8月16日午前3時過ぎだった。

翌々日の8月18日早朝に、復興計画の構想を胸に鈴木は中禅寺湖を出発する。

歌舞伎町の焼け跡に駆けつけると、カボチャの黄色い花が妍をきそうように咲き乱れ、まち中の廃墟を覆うようにその太い茎や葉が青々と生い茂り、平和な春の野面を思わせるようだったという。北多摩の青年団や有志の人たちが、都バス車庫裏一帯の焼け跡を片付け、カボチャの種を蒔いてくれていたのだ。

その日の夜は、町会の庶務部総代で、戦前に米穀商を営んでいた杉山健三郎氏を訪ねてこう切り出している。

「復興協力会を造り借地権を一本に纏め土地を自由にする事を地主から任せて貰い 役所に頼んで都市計画をして貰う 新らしく道路を付け直して区画を整理してから 適当に地割をして会員に建築をさせる そうして世間でまごまごして居る間に道義的な繁華街に仕上げる こう云う計画です」

さらに鈴木は、「地主はどうにかなると思うが、借地権の一本化が課題だ」と語り、杉山も「できる限りのお手伝いをしましょう」と応えた。こうして復興協力会の設立趣意書をつくり、8月23日には町会員宛の発送にこぎ着けている。ここまでで、終戦日の8月15日から、わずか8日である。

■大地主・峯島家の判断

峯島家は大正時代に歌舞伎町の池を埋め立てて住宅地としてからも、地主として歌舞伎町に残っていた。いつでも土地の権利問題が都市計画の実現の前に立ちはだかるのだが、その点、歌舞伎町は峯島家が大地主(町会面積の約3分の1を所有)として残っていたことで、峯島家を説得できれば計画の実現性は大いに高まることになった。

九月に鈴木は杉並にある尾張屋7代目〔尾張屋土地(株)2代目社長〕峯島茂兵衛の屋敷を訪ねている。鈴木は緊張してどうやって峯島氏に話したか覚えていないと語っているが、同席者の記憶では、歌舞伎町の復興計画を熱く語り、峯島の同意を取り付けることができた。

峯島家は戦後、財産税などもあり厳しい経営状況だった。そのため、歌舞伎町では所有の不動産の底地を販売していて、今現在の所有地はわずかになっている。後に、第五高等女学校跡地を東宝に売却しているのだが、鈴木の要請を受けたのか、市場価値に比較して低額で販売し、まちづくりに協力している。

■地主と住民が作り上げたまち

10月中旬、東京の戦災復興を担当していた東京都建設局都市計画課長の石川栄耀に、地主の峯島とともに面会し、秘めていた計画を披露している。

石川は今まで理想的な復興計画を立てても土地問題が錯綜(さくそう)して実現できなかった。ところが、このまちでは地主と住民がまとまっていることに感銘を受け、芸能広場のある理想的な文化地域の建設計画を立てようということになった。

そして出来上がった計画が、広場を中心に、歌舞伎劇場などの大劇場2、映画館4、お子様劇場1、演芸場1、大総合娯楽館1、大ソーシャルダンスホール1、大宴会場、ホテル、公衆浴場などを配するというものだった。

特に中央の大劇場は、「菊座」という名称で鉄筋コンクリート造り4階建て、1850席の歌舞伎劇場となる予定だった。

新宿コマ劇場の白黒写真
写真=iStock.com/gyro
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/gyro

■なぜ歌舞伎町という名になったのか

なお、従来の地名「角筈一丁目」では語呂も悪く、新興文化地域の町名にも相応しくないと鈴木は考え、昭和21(1946)年の秋ごろに石川課長にも話をしたところ、センターに歌舞伎劇場を建設することが目的なのだから、「歌舞伎町」が良いのではないかといわれた。

語呂もよし、他に類似の町名があるか調べた結果、それもなかったため、昭和23(1948)年4月1日から新宿区歌舞伎町となった。

こうして復興計画は、進出企業も決定し、建設できうる体制が整った。しかし預金封鎖、財産税の関係で、建築着手に多少の時を要した間に、大建築の禁止令が出て、ついに関係者はここから退陣を余儀なくされたという。

ところで、第2次世界大戦前の新宿に歌舞伎劇場があったことをご存じだろうか。昭和4(1929)年9月に開館した「新歌舞伎座」である。

新宿駅東口の現・大塚家具ショールームになっている場所である。松竹が山の手随一の大劇場を建設し、吉右衛門、三津五郎、仁左衛門、蓑助などの豪華メンバーで華々しく幕を開けたが、どうも新宿の土地柄には歌舞伎が合わないと見切りをつけたようだ。

IDC OTSUKA 新宿ショールーム
IDC OTSUKA 新宿ショールーム(写真=Tokumeigakarinoaoshima/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons)

■小林一三と五島慶太のアドバイス

興行街の実現に向けて鈴木は、昭和25(1950)年4月2日から6月30日までの3カ月間で「東京産業文化博覧会」を開催する。博覧会であれば、建築制限令の例外として大規模建築を建てることができ、それをのちに映画館などに転用しようという目論見だった。

ところが東京産業文化博覧会は好評でありながら、大きな赤字を残してしまった。通常であれば、東京都や新宿区なりの自治体が入って、公費が投入されるのだろうが、産業文化博覧会では鈴木が正面に立ち、責任をとって莫大(ばくだい)な借財を抱えてしまう。

橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)
橋口敏男『すごい! 新宿・歌舞伎町の歴史』(PHP研究所)

鈴木は借財の返済に追われながらも、東京産業文化博覧会の後始末に尽力する。復興院の総裁を務めていた阪急阪神東宝グループの創業者・小林一三から、鉄骨造の産業館(博覧会のメイン施設)の転用が上手くいけば、他はおのずから道は開けるという主旨の言葉を得ている。

そこで、当初の一括処分方式を変えて、産業館の処分に力を注ぐ。小林から紹介を受けたのか、東急の五島慶太とコンタクトをとることができ、その協力で東京スケート株式会社が昭和26(1951)年に設立され、産業館跡にスケートリンクが開業した。

ここが、のちに新宿東急文化会館(平成8年より新宿TOKYU MILANOに改称)が建ち、令和5(2023)年4月より東急歌舞伎町タワーとして開業する場所である。

前後してほかの建物も映画館などとして開業することができた。東京産業文化博覧会は鈴木に莫大な借財を残してしまったが、興行街を実現するという目的には大きく貢献することができた。

■借金の代わりに歌舞伎町を作り上げた

昭和31(1956)年に、歌舞伎劇場の代わりに、東宝によるコマ劇場を開館することができ、鈴木の構想はほぼ完成している。

観光立国を目指し、エンターテインメントのまちをつくるという鈴木の構想は今でも生きており、歌舞伎町は日々変わりつつ新たに創造されている。危うさを抱えながらも人を惹きつけて止まない、そんな歌舞伎町の総合プロデューサーが鈴木喜兵衛だった。

その一方で、莫大な借財を抱えた鈴木は、表舞台から姿を消していく。鈴木喜兵衛は7回の引っ越しをして、郷里の家屋敷も売り、信州の別荘地も売ったのだ。

鈴木の名前は、現在、シネシティ広場に残された船の形を模した記念碑に小さく残っている。

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橋口 敏男(はしぐち・としお)
元新宿歴史博物館館長
1955年長崎県生まれ。77年法政大学卒業後、新宿区役所に入所。まちづくり計画担当副参事、区政情報課長、区長室長など歴任。2016年歌舞伎町タウン・マネージメント事務局長、17~20年公益財団法人新宿未来創造財団に在籍し、新宿歴史博物館館長を務めた。著書に『新宿の迷宮を歩く 300年の歴史探検』(平凡社新書)がある。

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(元新宿歴史博物館館長 橋口 敏男)

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