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定年まで勤めていたら、社長にはなれなかった…アサヒビール新社長が58歳で転職を決意した理由

プレジデントオンライン / 2023年4月13日 9時15分

アサヒビール新社長に就任した松山一雄氏 - 撮影=門間新弥

3月にアサヒビール新社長に就任した松山一雄さんは、鹿島建設、P&Gジャパンなどで勤務し、マーケティング畑を歩んできた。サトーホールディングス社長を務めた後は、58歳でアサヒビールに入社した。その異色のキャリアについて、ジャーナリストの永井隆さんが聞いた――。

■58歳で就活、4年半で社長に

アサヒビール社長に就任した松山一雄氏(62歳)は、鹿島建設、サトーホールディングス(HD)、P&Gジャパンなどと転職を重ね、58歳で就活してアサヒに入社。その4年半後に社長になる。31歳の時、米大学院に自費で留学しMBA(経営学修士号)を取得しプロのマーケッターとしても活躍した。特異な経歴を持つ松山新社長の生き様に迫る。(聞き手はジャーナリスト・永井隆)

――松山さんはよく、「ワクワクする」と会見などで話されます。いつ頃から、ワクワクされたのでしょうか。

【松山】幼い頃から、好奇心旺盛でわんぱく、やんちゃでした。ワクワクし、興味があると他のことを忘れてしまい没頭することもあり、遊んでいた場所にランドセルを置いて家に帰宅することもあった。ワクワクする性格は、今も変わらず「三つ子の魂百まで」と感じています。

――お生まれは東京なんですね。

【松山】台東区の入谷で生まれました。でも、3歳の時に草加に引っ越して、吉川、春日部と、ずっと埼玉を北上する形で育ちました。父親は家具会社に勤めていたのですが、私が高校生の時にいきなり脱サラをして、自分で家具屋を始める。英語もできないのに、世界を渡り歩き、海外からも商品を仕入れて販売してましたね。ただし、「継ぐな」と言われた。構造不況業種であり、息子に苦労をかけたくなかったからでしょう。

■強豪からトライを奪った弱小ラグビー部時代

――高校は、どちらでしたか。

【松山】春日部高校です。県立なのに男子校でした〔埼玉県では戦前にできた普通科高校(旧制中学)は、県立浦和、熊谷などいまでも男子校。同じく、浦和一女、春日部女子などいまでも女子校〕。数学や物理が得意で、理系に進む考えでいました。

ところが、少しだけ色覚異常でして、理工系大学の試験は受けられるのですけど、高2の時の担任から「将来を考えるなら、文系にしたほうがいい」と強く薦められたのです。そこで、英語も得意だったので英文科に志望を変えました。英語力を生かし将来は海外に出たい、と思うようになったのは、この頃からです。

――部活は何かやっていましたか。

【松山】できて間もないラグビー部に所属し、ポジションは(FW1列の)プロップでした。伝統もなく、大会に出ては負けてばかりのチームだった。

ところがです。学校の近くに書店があり、店主は(福岡県立)修猷館高校ラグビー部出身の方(当時、修猷館は福岡高校と並び、文武両道で知られる福岡県のラグビー名門校)。われわれの下手くそな練習を見ているうち、「なってない」とばかりに指導してくれるようになる。

すると、めきめきと強くなって、私が高3時の大会では、県の準々決勝でしたか、上のほうまで進む。最後は、強豪・熊谷工業に55対10で負けますが、全国屈指のチームから2トライを奪ったのです(当時トライは4点)。実績もなかった普通の進学校がですよ。

■青学時代は「女子校へと突然転校したよう」

【松山】私にとって大きな自信になりましたが、いまでも自慢です。熊工はそのまま花園に出場し、ベスト8まで勝ち進みました(第58回全国高校ラグビーフットボール大会の準々決勝で大分舞鶴に惜敗する。その後、熊工は第70回大会で全国優勝を果たす)。楕円(だえん)球の争奪に明け暮れた青春でした。

――大学は青山学院文学部英米文学科に進まれる。

【松山】一クラスは45人で、男子は5人しかいなかった。男子校から女子校へと、突然転校したようでした。

――羨ましい。もてたでしょう。

【松山】とんでもない! 逆です。男子は存在そのものを無視されました。この時、マイノリティーを経験したので、社会人になりダイバーシティー(多様性)について理解できるようになった。キャンパスでは、学生だったサザンオールスターズの桑田佳祐さんを何度か見かけました。颯爽と歩いていてカッコよかった。

クラスでは無視されましたが、ESS(英語研究会)に4年間所属し最後は部長も務めた。1年次からディベートのチームにいて、大学生の大会で何度か優勝する。このため3年から4年になる春休みの2カ月間、公費で渡米しました。19州を廻り25の大学とディベートをしました。飛行機に乗ったのは、この時が初めてでしたね。

■新卒から定年まで勤め上げる覚悟だったが…

――卒業した83年、鹿島建設に入ります。その4年後にサトー(現サトーHD)に転職されます。

【松山】鹿島では85年にマレーシアの駐在員となり、高校時代から希望していた海外の仕事に就きます。その時、サトーがマレーシアへの工場建設を計画していて、建設を受注したのが鹿島であり、駐在員の私とサトーとの接点が生まれた。85年のプラザ合意による円高が急激に進んでいて、サトーにとって初の海外工場だったのです。

サトーもマレーシアで仕事のできる人を探していて、関係は近づいていった。最後は、ハンドラベラーを開発された創業者の佐藤陽さんと、岩手県の大沢温泉の温泉宿で4時間膝詰めで面接して転職を決めました(大沢温泉近くにサトーの主力工場がある)。

――反対はなかったのですか。そもそも、終身雇用を最初から否定していたのですか。

【松山】上司、先輩、同僚と全員が反対しました。この後も、何度も転職しますが、鹿島をやめる時の反対が一番大きかった。私は26歳。鹿島は超大手で、サトーはこの時はまだ、上場もしていなかった。「考え直せ」とみんなから言われました。新卒で入社した時は、定年まで鹿島に勤め上げる覚悟だったのですが。

■安定よりも「心がワクワクする」ほうへ行きたい

――なのになぜ、決断されたのですか。

【松山】ワクワクが止まらなくなったから、です。心がワクワクする方向に、私は飛びついちゃうんですよ。いつも。小さいけれど高度な技術を持つ会社が社運を賭けて、初めて海外進出して、工場を立ち上げていくという。英語ができて、現地に通じた人材が本当に必要とされていた。円高による海外進出、さらにバーコードプリンターへ事業転換しようとする創業者のビジョンに感銘を受けてもいた。

――この4年後の91年秋、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院に留学しMBA(経営学修士号)を取得します。留学費用を含めて経緯は?

【松山】サトーでは、現地工場の立ち上げから工場が安定稼働するまでの4年間、勤めます。マレーシアには、鹿島の2年を合わせ都合6年いました。この間、日本はバブルで円高が続く。円建てで給料も駐在手当も受けていたため、自動的にお金が貯まったのです。

すると、次のワクワクが始まります。マーケティングは学生時代に全米の学生とディベートした時から、実は勉強したいと思っていた分野。なので、ケロッグを選んだのですが、約1500万円の留学費用はすべて自費でまかなえました。

松山一雄氏
撮影=門間新弥

■「クビになるのでは」マーケッターとしての大失敗

――安定したサラリーマンの生活を捨てるわけで、せっかく貯まったお金も吐き出してしまう。奥さまは反対しなかったのですか?

【松山】反対された記憶はありません。85年に結婚し、長男が生まれたのがサトーに転職した87年。学校があるイリノイ州には家族で赴きましたよ。私は文学部出身なので、経営学をゼロから学んだ。すごく新鮮でした。

――93年にはP&Gファー・イースト・インク(現P&Gジャパン)に入社し、マーケッターとして歩み始める。でも失敗があったとか。

【松山】P&Gへ入社し、最初に担当したプロジェクトがリンスインシャンプー「リジョイ」のフルリニューアル。処方、パッケージ、CMを含めたコミュニケーション、販促など一切を担った。それぞれの事前調査では既存品を上回る良好な結果が出ていたのに、ビジネスとして不本意な結果に終わってしまいました。

結論から言うと、リジョイが大好きで使っていたコアなロイヤルユーザーの気持ちに寄り添うことができなかったのです。調査では必ずしも本音で語ってくれないこともあり、調査結果を鵜呑みにすると痛い目にあうことを知りました。常にお客さまを真ん中に置いて、お客さまがブランドに求める価値の本質をありのままに受け止めなければならないと、痛感した。「リジョイ」の失敗でP&Gをクビになるのではと、不安でビクビクしてました。

■失敗は早く安く賢くし、そこから学ぶ

――失敗をいまはどう生かしていますか。

【松山】「スーパードライ」のフルリニューアルでは、フルリニューアルを「やることありき」ではなく、部門を横断し全社一丸となることを優先させました。「リジョイ」の失敗の教訓も踏まえ、いまアサヒの社内で言っているのは「リスクをとらなくなるとビジネスがダメになる」ということ。「失敗は早く安く賢くし、そこから学ぶ」。素早く失敗して試行錯誤していき、手ごたえを感じたら取り組むことが大切だと考えています。

――P&G出身者がビジネス界で、数多く活躍していますね。

【松山】とてもうれしく思います。P&Gの強みの一つは、若手に権限を委譲すること。いまにして思うと、P&Gの職場は競争が激しく、切磋琢磨(せっさたくま)し合い、そもそも自由闊達(かったつ)でした。こうした良い面はアサヒにも取り入れたい。

――P&Gに6年いて、コンタクトレンズのチバビジョン(現日本アルコン)に転職され、サトーHDに再入社して最後は社長を務めた。アサヒには、どういう経緯で入社したのですか。

■社長を終えても、まだワクワクしたい

【松山】就活でした。サトーHD社長を6年やって18年3月、任期を迎えて退職しました。この時私は、まだまだ働ける58歳。以前から知己のあった米系ヘッドハンティング会社に「マーケティングの仕事はないか」と話を入れたところ、紹介されたのがアサヒでした。

松山一雄氏
撮影=門間新弥

小路明善アサヒグループHD社長(現会長)との面談は1週間に2回、それぞれ1時間やりましたね。矢継ぎ早に質問され、返していきましたが、気がつけば私はワクワクしていた。ワクワクに導かれるように8月に顧問で入社し、9月に専務に就く。年齢や前職から役職は決まりました。

――職務のプロが役員クラスで転職することを、経験者としてどう考えますか。米企業では一般的ですが。

【松山】その人が求めるものが、会社が求めるものと本質的に一致するか否かが重要なポイントだと思います。「社員が輝き続ける会社を目指す」ために適材適所で人員配置することが大前提です。

■求める社員像は「答えを追求し続ける人物」

【松山】アサヒは「スーパードライ」発売以降、キャリア採用も多く、ニッカウヰスキーをはじめ、協和発酵や旭化成、マキシアム・ジャパンとM&A(企業の合併買収)で入った人が多く働いている。なので、ダイバーシティーやインクルージョン(一体性)が進んでいるので、外部から来ても働きやすい会社です。疎外感を感じたことは、一度もありません。

――アサヒはどんな人材を求めますか。就活する大学生や若手社員に対してお話しください。

【松山】外部環境が変化し続けるビジネスの世界には“正解”はありません。なので、何をすべきか答えを追求し続けることが、重要なのです。具体的な人物像としては①変化を喜ぶ心を持ち、自ら変化を起こせる人物②失敗を恐れずに新しい価値の創造(イノベーションの創発)に挑戦できる人物③早く安く賢く失敗し、そこから学び、成長できる人物、です。

国内酒類市場を活性化させ、私はアサヒをワクワクする会社にしていきたい。

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永井 隆(ながい・たかし)
ジャーナリスト
1958年、群馬県生まれ。明治大学経営学部卒業。東京タイムズ記者を経て、1992年フリーとして独立。現在、雑誌や新聞、ウェブで取材執筆活動をおこなう傍ら、テレビ、ラジオのコメンテーターも務める。著書に『キリンを作った男』(プレジデント社)、『サントリー対キリン』『ビール15年戦争』『ビール最終戦争』『人事と出世の方程式』(日本経済新聞出版社)、『国産エコ技術の突破力!』(技術評論社)、『敗れざるサラリーマンたち』(講談社)、『一身上の都合』(SBクリエイティブ)、『現場力』(PHP研究所)などがある。

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(ジャーナリスト 永井 隆)

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