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「5人目の7歳下の男が最悪だった」毒母が太鼓判を押した男性と結婚した34歳女性が見た底なしの地獄

プレジデントオンライン / 2023年4月8日 11時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kieferpix

現在50代の女性には11歳上に障害のある兄がいる。母親は女性が小さい頃から、「あんたは何でもないんだから」とたびたび暴言を浴びせた。女性の服や交際相手にも口を出した。社会人になった女性は交際相手候補を母親に紹介したが、毎回NG。それでも5人目に紹介した男性を母親はなぜか気に入り、結婚することに。しかし、これが地獄の入り口だった――。
ある家庭では、ひきこもりの子供を「いない存在」として扱う。ある家庭では、夫の暴力支配が近所に知られないように、家族全員がひた隠しにする。限られた人間しか出入りしない「家庭」という密室では、しばしばタブーが生まれ、誰にも触れられないまま長い年月が過ぎるケースも少なくない。そんな「家庭のタブー」はなぜ生じるのか。どんな家庭にタブーは生まれるのか。具体事例からその成り立ちを探り、発生を防ぐ方法や生じたタブーを破るすべを模索したい。

■障害のある兄

東北地方在住の柴田真帆さん(仮名・50代・バツイチ)は、運送業を営む41歳の父親と専業主婦の31歳の母親のもとに生まれた。柴田さんが生まれたとき、すでに11歳上には兄がいた。兄は3歳の時に高熱を出し、一命は取り留め歩行はなんとかできるようになったものの、発語がなく、両親は障害が残ったと考えた。

兄は昼夜構わず大声を上げて暴れまわり、障子を破ったりふすまに穴を開けたりし、借家に住んでいたため苦情が絶えなかった。身体の大きな赤子のような兄を連れて歩けば、周囲から白い目で見られ、心ない言葉を投げかけられることも。両親は対応に追われ、何度も引っ越しを余儀なくされた。

6人きょうだいの末っ子として生まれた母親は、3歳の時に実の母親を亡くしている。その後、実の父親は子どもたちのために後妻を迎えようとしたところ、すでに成人していた長女と次女が猛反対。後妻には家の敷居をまたがせることなく、実父もろとも追い出したという。

そのため、母親は姉や兄たちに育てられた。長女が母親兼大黒柱を担い、次女が母親、長男が父親的役割を果たしたようだ。長女が進駐軍の外国人と結婚していたため、戦後の混乱期としては希少な、冷蔵庫や洗濯機、掃除機やクーラーなどの家電がそろった大きな屋敷にきょうだい6人、それぞれの個人部屋をあてがわれ、何不自由なく暮らした。

一方、父親はもともと母親の姉(次女)の友達の彼氏だった。温厚な人柄で頭が良く、手先が器用で、人当たりが良いため、次女の友達とともに遊びに来ているうちに母親の姉や兄たちと打ち解けてしまい、次女の友達と別れたあとも家にちょくちょく遊びに来ていた。

だから母親が高校卒業間近になった頃、父親が、自分が勤めていた会社の事務を母親に紹介したのも自然な流れだった。しばらくすると父親は母親に交際を申し込み、父親29歳、母親19歳のときに結婚。次女は、「友達のお古と結婚なんて!」と反対したが、母親は、「女は16になったら結婚できるんだ!」とたんかを切って身一つで家を出てきたという。

そんな手前、約1年後に障害のある息子(柴田さんの兄)が生まれたが、母親は姉や兄たちに頼ることはできなかった。結婚から数年後には姉や兄たちとの交流は復活したものの、現在よりもはるかに障害者に対する理解がない時代だ。息子(柴田さんの兄)を連れて次女の家に泊まりに行ったときは、母親と息子(柴田さんの兄)がお風呂に入った後、次女の夫から「(障害者が入った後だから)風呂の湯を変えろ!」と怒鳴られた。

兄が11歳になる年、母親が2人目を妊娠。食事も排泄も着替えも自分のことができない兄は、公立の障害者施設に入所することになった。

■「あんたは何でもないんだから」

柴田さんは物心つくかつかない頃から、すでに「自分の兄は大変なんだ」と理解。両親が少しでも兄のそばを離れるときは、自ら兄から目を離さないようにしていた。

兄の施設には月2回面会に行った。朝、車で施設に着くと、オムツを変えた後、兄を乗せてドライブに出発し、夕方まで家族で過ごし、オムツを変えて別れた。その他に、運動会や遠足などのイベントがあるときも家族で施設に出かけた。もちろん、夏休みや冬休みには2週間ほど家に帰ってくる。

「一緒に暮らしてはいませんでしたが、兄のことは十分に私の中にインプットされていきました。高校受験や大学受験の時期は、私は面会に行きませんでしたが、両親はペースを崩すことなく通っていました」

そんな中、母親は柴田さんに口癖のようにこう言った。

「あんたは何でもないんだから、兄くんについててやりなさい」
「あんたは何でもないんだから、兄くんが帰省しているときは我慢しなさい」

事あるごとに言われ続け、その度に柴田さんは家事や兄の世話を手伝った。

それは兄が家にいるときだけではない。いないときでも、柴田さんがテレビを見たり遊んだりしていると執拗(しつよう)に文句を言われる。かといって手伝いに行くと、「自分でやったほうが早い!」と一蹴され、幼い柴田さんが戸惑って何もせずにいると、また文句を言われる。

次第に柴田さんは、自分で何をするべきか考えて動くようになった。

「『私は何でもない』かもしれませんが、子どもは子どもです。母は、私が幼くて何の疑問も持たないうちに、“妹はこうあるべき”という理想像を叩き込んだのです。私はそれが当たり前と思って成長。兄にとっては良かったと思うし、私も兄を支える立場として結果オーライなところはありますが、おかげで私は、常に兄や両親を優先し、自分を基準にして考えられない人間になってしまいました」

兄の通院について行ったとき、主治医に言われたことがある。

「お母さん、娘さんを上手に育てましたね」

その瞬間、母親は得意げに満面の笑みだったが、柴田さんは背筋が寒くなり、青ざめていた。

■完璧な“プロフェッショナル毒母”

母親は柴田さんを思いのままに動かすために、子どもの頃から容赦ない暴言を浴びせかけ続けてきた。

子どもの頃から涙もろかった柴田さんは、テレビを見て泣くことや、母親にひどい言葉を浴びせられて泣くこと、自分の気持が伝わらずに泣くことも多かった。すると必ず母親はこう冷たく言い放つ。

「簡単に泣けるのは苦労していない証拠」

だから柴田さんは、泣くのは悪いことだと思っていた。母親の前で泣かないようにし、どうしても泣きたいときはトイレで隠れて泣いていた。

柴田さんが小学校に上がると、母親は教育熱心になり、中学生になってからは、数学が苦手になった柴田さんに家庭教師をつけた。友達と遊びに行くときは、必ず相手の名前を聞き、どんな友達なのかを把握したがった。

思春期を迎えると、母親と口論になることも増えてくる。親よりも友達といる時間が増えると、母親にこう言われるようになった。

「言うことを聞かないと親子の縁を切る」

「母にしてみれば、娘が急に離れていくようでムカついたのかな……と今は思いますが、当時はとても恐ろしく感じました。高校を出てバイトをし始めても、生活できるだけの収入があるわけではありません。『追い出されたくなかったら言うこと聞け』という脅しです。でも母の恐ろしいところは、『言うこときけ』の“言うこと”を言わない。『自分で考えて誠意を見せろ』という圧力をかけてくるのです」

服装や持ち物は常に管理され、小学生の頃はもとより、中学・高校時代に友達や家族で遊びに行くときの服装も、母親に全身コーディネートされた。高校卒業後、短大に進んだ柴田さんだが、やはり母親が買ってきた服を来て通学。自分でコーディネートしたときは、朝母親に見てもらってから出かけた。

母親は、自分が気に入らなければとことんけなしてくる。柴田さんはそれが分かっていたし、怖かったため、服やバッグ、靴までも自分で選んで買うということをせず、30歳くらいまでは、母が選んだものを身に着けていた。

「最近気づいたことですが、母は、いわゆる過干渉で過保護なタイプの毒親でした。子どもに愛情を注いでいるように見せかけながら、罪悪感を植え付ける。子どもに道徳心を教えるように見せかけながら、巧みに自分(母)を尊重するように仕向ける。しかもそれに子ども(私)がまったく違和感を抱かぬように仕向けるという、完璧な“プロフェッショナル毒母”です」

柴田さんが母親のことを毒親だと気づいたのは、柴田さんが40代になってからのことだった。

■妊娠と出産

友達もおらず、専業主婦の母親は、子どもの頃から柴田さんに父親の愚痴をこぼした。一方、父親はそんな母親に声を荒らげることは一切なく、いつも「あれでかわいいところもあるんだよ」などとのろけていた。

母親は、「家族旅行に連れていけ!」と父親に圧力をかけ、父親が立てた計画や運転する車に乗る。父親も酒が飲めるのは知っているし、自分も車の運転はできるのに、旅先ではわれ先にと当然のように酒を飲む。それでも父親は文句一つ言わなかった。

「母が私にひどいことを言っても、父は庇(かば)ってくれませんでした。たしなめる程度でも母は余計にブチ切れますから。だから父は母がいないときに、『そういうときはこう言っておくといい』などとアドバイスをくれました。母の相手をしていたらヒートアップするだけ。だから父と私の間には、母が落ち着くまで言いたい放題言わせるという暗黙の了解が出来上がっていました」

就職して1年後、21歳の柴田さんは、4歳年上の男性と交際をスタート。7年後、プロポーズを受ける。しかし、こうした時も母親が立ちふさがった。

母親に会わせると、「長男なんて“姑つとめ”だ」と言って大反対。それでも交際相手が、「親との間には僕が入りますから。娘さんは僕が守りますから」と必死に訴えてきたため、さすがの母親もしぶしぶ承諾した。

ところが結納の後、婚姻届を出す前に妊娠が発覚。結婚に反対していたはずの母親は手放しで喜び、毎日食べ切れないほどの料理を作るように。父親は2階だった柴田さんの部屋を、階段の上り下りをしなくてもいいようにベッドを下ろし、1階にしてくれた。

しかし数日後、柴田さんは愕然とする。婚約者は自分の両親と3人で勝手に新居を決め、契約し、家具まで選んで運び込んでいたのだ。

それから数カ月後、まだ妊娠6カ月のある日、柴田さんは腹部の張りと痛みに襲われる。たまらず両親に訴えると、父親が産院まで車を出してくれた。柴田さんは緊急入院となり、陣痛を止める点滴を打ったが、翌朝破水。分娩室に入ると、心配そうに付き添う両親に柴田さんは、「外で待ってて」と声をかけた。すると遅れて来た夫は、「自分が見てるんで、ご飯食べて来てください」と頓珍漢なことを言った。

「目の前で孫が死にそうなときに、ご飯なんて食べに行くわけないじゃないですか。『何ズレたこと言ってるんだろうこの男は……』とあきれました。さらに、私の腰をさすりながら、『頑張れ!』なんて声をかけてくるんですが、(このタイミングで)産んでしまったら子どもは死ぬって言われてるのに、『何を頑張れっていうんだ! 産めるかよ!』とイライラしました」

柴田さんの婚約者に対する嫌悪感は最高潮に達し、手を握られた瞬間、「触るんじゃねぇ! 出て行け!」と叫んでいた。

結局子どもは死産。分娩室に戻ってきた婚約者の第一声は、「昼食ってないから腹減ってんだよね」だった。その瞬間、婚約者とは破局した。

■5人目の男

その後も柴田さんは、何度か交際相手を母親に会わせた。なぜなら、母親が気に入る相手でないと、結婚を認めてもらえないことが分かっていたからだ。

母親の出す条件は、「兄くんのことに理解がある人」。何人か母親に会わせたが、母親が気に入らず、相手のことを悪く言いまくるのを聞いているうちに、柴田さん自身も庇うのに疲れて別れるパターンを繰り返していた。4人目の交際相手を会わせた後、母親からはこう言われた。「いったい何人男を連れて来たんだ」。

「と、言われましても、兄のことを理解してくれて、母のお気に召す人を夫にするとなると、とりあえず母に会わせて、母の反応を見て先を考えるというスタイルをとっていましたから……。母は外面が非常に良い人間だったので、会った1〜2時間は良くても、その後私に悪態をつきまくり、どんどん却下されていきました」

33歳になった柴田さんは、会社に中途で入社してきた7歳年下の男性に交際を申し込まれた。柴田さんも良い印象を抱いていたため、交際をスタート。社内恋愛が認められていなかったため、その後、柴田さんは退職した。

半年後に母親に会わせると、珍しく母親はとても気に入った様子。だが、今度は珍しく父親が、「ダメ(離婚)になる前提が少しでもあるんなら、初めから(嫁に)行くな」と声をかけた。

「父は、思うところがあったのだと思います。それでも私は、兄のことを理解して協力してくれている、母が気に入っている、そして次男だ……ということだけで、自分の気持ちを重視せずに結婚に踏み切りました」

柴田さんは34歳で結婚。この結婚が、柴田さんにとって地獄の始まりだった。

■毒母と毒夫

結婚した途端、夫は柴田さんを顎で使い始めた。共働きなのに、家事は一切やらない。生活費は“割り勘”。自分は家にお金を入れ忘れることがあるのに、柴田さんが1円でも不足するとネチネチ言う。常に自分優先にしないと不機嫌になり、怒鳴り出す……。

「私が正社員の間は、食費や日用品・自分の必要経費は私持ち。家賃・光熱費・向こうの必要経費は向こう持ち。結婚後に夫は出向になり、出向先では事務員を探していて、夫婦勤務OKだったので、パート事務員として働き始めました。パートになると食費や日用品代として5万円の“支給”はされましたが、アシが出た分や自分の車の維持費は自分持ち。その“支給”も、向こうがパチンコでスったときは、全く入れてもらえませんでした」

夫は柴田さんの両親の前では猫をかぶり続けた。次第に柴田さんは、夫の機嫌を損ねないことに細心の注意を払うようになる。夫がいる間は、一瞬も気が抜けない。何カ月かに1度、夫は泊まりの仕事があるが、その前日から当日までが柴田さんにとってささやかな楽しみだった。

しかしその楽しみな時間に、母親から電話がかかって来ようものなら、父親に対する愚痴や自分に対する小言など、聞きたくもないどうでもいい話で1〜2時間拘束された。だからといって電話に出ないと「兄に何かあったのでは?」「両親のどちらかが体調を崩したのでは?」などと不安になる。

自己中心的な母親と障害のある兄のために、常に他人を第一優先にして、自分自身のことは全く尊重せずに生きてきた柴田さんはこのとき、夫と母親との間で懸命に精神バランスを保とうと足掻き続けていた。

「私は、『自分がしんどい思いをすればするほど、母はいくらかでも自分を認めてくれる』『自分は兄の妹である以上、楽しんではいけない、楽をしてはいけない』と思い込んでいました。そして夫は、そんな私をうまく使う方法を見抜いていたのでしょう」

そのバランスが崩れるときが近づいていた。(以下、後編へ続く)。

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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。

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(ライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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