1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

もともと日本語にそんな言葉はないのに…内田樹が「深掘り」という言葉に微妙な違和感を抱くワケ

プレジデントオンライン / 2023年4月13日 14時15分

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/demaerre

日本社会にはどんな問題点があるのだろうか。思想家の内田樹さんは「日本人は過緊張だ。常に格付けや査定に備えて、低いスコアをつけられて排除されるリスクに怯えている」という。ウスビ・サコさん、稲賀繁美さんとの鼎談をお届けしよう――。

※本稿は、内田樹/ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)の一部を再編集したものです。

■大学のパンフレットから消えた「複眼的」「学際的」

【内田】最近よく聞く言葉に「深掘り」というのがあります。僕はこの言葉をジャーナリストや学者の口から聞くたびに、微妙な違和感を抱きます。もともと日本語にそんな言葉はないのに、最近みんな実によく口にする。たぶん、それがとても上質な知的作業だという思いがするからでしょう。

ひとつの論件の本質は地中深くに埋められていて、石油や温泉をボーリングするように、「ここ」と掘るところを決めて、そこに垂直にドリルを立てていけば、やがて本質的な情報や知見を掘り出すことができる……そういうイメージを僕はこの言葉から感じるのです。もちろん、「ここ一点」を決めて、そこに垂直に掘り下げることも必要ですけれども、それだけでは足りない。

かつては「複眼的」という言葉がよく使われました。「学際的」というのもよく目にしました。ひとつの問題を多面的に捉え、複数の立場から立体視していくことが特に高等教育ではつよく推奨されていた。でも、いつの間にか「複眼的」や「学際的」といった言葉は大学のパンフレットから消えた。

■限定的で深い知識や技能が優先課題になった

その代わりに、なるべく早くに専門を決定して、その専門分野について限定的だけれど深い知識や技能を身につけていくことが大学教育での優先課題になった。それは「オタク」文化への高い評価についても感じます。

きわめて狭い分野について異常なほどトリヴィアルな情報を持っている人間に今の若い人たちはどうも素朴な敬意を感じているらしい。だから、そういう「狭くて深い知」を自分も身につけなければならないと思っている。そういう価値観の変化と学生たちの無表情の間には何か因果関係があるような気がします。

僕としては、彼らにもっと複雑な人間になってほしいんです。こちらの投げかけに対して、学生が100人いれば100通りのリアクションがあってもいいはずなのに、みんな隣の人を見て、調整し合って、マジョリティの中に紛れ込み、とにかく目立たないようにしている。

■豊かな表情や多様な視点を捨てている

知人の大学の先生から聞いた話なのですが、冬に1限の授業に行ったら教室が真っ暗だった。誰もいないのかと思えば、学生はちゃんといた。部屋の電灯を点けて、「スイッチはここですよ」と教えた。翌週教室に行くとまた真っ暗な部屋に学生が黙って待っていた。誰も電灯を点けないんです。目立ちたくないから。

電気のスイッチを押す人の手
写真=iStock.com/duaneellison
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/duaneellison

一人立ち上がってスイッチを点けるのが嫌なんです。他の学生が暗い教室で黙っているのに、自分一人が余計なことをして、環境を変化させると、「浮いて」しまう。それを避けようという無意識の抑制がかかっている。

日本の子どもたちは今、学校教育の中で、マジョリティの中に紛れ込み、「みんなと同じ表情」をすることで、身の安全を図ろうとしている。そうやって、豊かな表情や多様な視点を捨てている。そのことに僕は危機感を覚えました。

【サコ】早くも詳しくお聞きしたいトピックがたくさん出てきました、稲賀先生はいかがでしょうか。

■地域研究の観点から学部や教室の枠を外す試み

【稲賀】冒頭から内田先生が本領を発揮され、すでに反応したいことがたくさんありますが、まずはごくかいつまんで自己紹介を。

私は30年ほど前、バブル末期の頃に三重大学人文学部で教えていました。「人文」を看板に掲げて船出したばかりの学部で、地域研究の観点から学部や教室の枠を外すというおもしろい試みを行っていました。地域研究、人類学、文学、美術の人が一緒にやろうという理念だったのです。

私はフランスが専門でしたが、「ヨーロッパ・地中海コース」という括りでイギリスやドイツ、イタリアを扱い、マグレブからサハラ以南にも目配りしながら、イタリア語も教えていました。「アジア・オセアニアコース」では、中国だけでなく華僑圏について研究・教育をしている専門家、アメリカなら北米・中米・南米の専門家がいる。

非常に「学際的」な学部で、できた時はうれしかったのですが、しばらく経って設立時の教員たちが引退すると、やはり英語の先生たちは英文でかたまり、地中海は専門家がいないので、私が退官した後しばらくすると、看板を降ろそうという状況になってしまった。その前の在任中は「大綱化」の改革期でしたので、大学内の改革にも少し携わりました。

■フランスの教育は、隣といかに違うかで評価される

当時はまだ若かったので多少無茶もできまして、医学部の先生と一緒にセミナーを手がけたり、共通授業を行ってその後個々のセミナーに導くといった実験もしました。

そうした経験があるので、国際文化学部の責任者として呼んでいただいた際の面接でも、明らかに通らなそうな夢を偉そうに語ったのですが(笑)、当時のサコ学長に「じゃあ、お前をとる」と言われて、本当に着任してしまいました。そういうわけで、学部教職につくのは四半世紀ぶりですが、日本の常識に囚われない教育をしたいと夢見ております。

内田先生がおっしゃったように、日本人はやはり周囲から目立ちたくないというのが強いですね。その傾向は中学生ぐらいから出てきて、高校生になると、目立つ生徒さんはみんなの進路の邪魔になるというので、排除されてしまう。

私はヨーロッパに滞在経験があるのですが、フランスではまるで逆です。隣の人と同じことをやっても絶対ダメ。作文教育が中心ですから、とにかく隣といかに違うかを採点者にわかるように書かなくてはならない。教育理念の出発点からして違っている。

■ウイルスが教えてくれていることに目を向け、考えていく

先ほど、「複雑」というお話も出ましたが、理科系の方たちの言葉に「複雑系」というのがあります。我々は3次元まではなんとか認識できます。3D映画が楽しいのは、自分にコントロールできない世界が目の前に広がるからですし、車の運転というのも人間の認識能力としてはギリギリのところを行っているわけです。

そこからさらに座標軸が増え、時間軸が加速されると、ほぼ制御不能になってしまう。そこをやっているのが「複雑系」なのですが、一方で人生とはもともと複雑系なのだとも思います。

それをとことん単純化した「座標軸の削減」が自然科学を成功に導いたわけですが、そのパラダイムがすでに行き止まりまで来てしまっている。人間を月へ連れていくことまではなんとかできたけれど、火星まで行ってどうするのか、それならロボットを派遣すればいいのではないかという議論も出てくる。科学技術の発展が人類の、いやこの地球上のあらゆる生命体にとっていいことなのかどうか、真剣に考えなくてはいけない時期に来ていると思います。

新型コロナウイルスが我々に教えてくれているのは、そうした現実なのではないでしょうか。ウイルスを撲滅して「なかったことにする」のではなく、むしろウイルスが教えてくれていることに目を向け、考えていく。それも人文学の重要な役割だと思います。

■日本における協調性は「あきらめ」に近い

【サコ】スタートからレベルが高すぎて司会が困るような状況です(笑)。今お二人が指摘されたいくつかは、私も内田先生と「自由論」の授業を続けながら若者たちを観察する中で、感じてきたことでもあります。

私が来日した1990年代初頭は、日本は協調性のある社会だと言われていました。でも、私が見てきた限り、日本における協調性は「あきらめ」に近いと思います。人とぶつかりたくない、自分のことを言って目立ちたくないという空気を協調性と呼んでいる。

学生によくあるのは、みんなで何かをしようと話し合っている時は意見が出ないのに、解散すると、必ず2、3人が戻ってきて、「あれはちょっと違うんだよな」と言い合うというパターンです。それならなぜさっき言わなかったの、と聞くと、「空気を読んだんだ」と。「空気」って一体何なんだろうと。そういうことに始まり、本当にいろいろと若者からは吸収しました。

その後、『「これからの世界」を生きる君に伝えたいこと』という本を出版したところ、学生から結構反応が届いたんです。こちらが語ることによって反応してくれるんだ、これは出版してよかったなと思いました。

大学の校舎に入る学生たち
写真=iStock.com/Vladimir Vladimirov
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Vladimir Vladimirov

■自分と向き合うチャンスを与えなくてはいけない

彼らに対しては、段階を踏んであげる必要があるのではないでしょうか。かつてのようにゼミで最初から活発にしゃべることが期待できない限り、徐々に慣らしていく必要がある。だとしたら、大学もカリキュラムを変えていかなきゃいけない。

そこで京都精華大学では教育改革として、共通の教育、旧教養系の課程を復活させました。実は2021年に始まったカリキュラムでは卒業単位全体の半分近くが「共通教育」なんですよ。

学生たちは、「専門性」とか学問を専門的に研究する、ということの意味自体を把握していないのではないかと思います。なぜ自分が大学生になっているのか、大学で何をしたいのか、自分には人間として何ができるのか、どう成長していきたいのかも漠然としている。

彼らには自分と向き合うチャンスを与えなくてはいけない。そうした中で、「教養」は重要な役割を果たすのではないかと感じています。

お二人はフランスやヨーロッパなど、いくつもの社会を見た上で日本社会を相対化して眺め、おかしいところに気づかれています。そうした観点から今、若者たちにどんなことが期待できるのか、お聞かせいただけますか。

■「だらだらが足りない!」と怒っている

【内田】サコ先生のご本は、大変おもしろかったです。ときどき「なんやねん」と怒り出すでしょう。あんなふうに「なんで日本人はもっとリラックスしないんだ、もっとだらだらしないんだ!」と怒っている人、初めて見ましたよ。「だらだらするな!」と怒る人はいても、「だらだらが足りない!」と怒っているのですから。でも、本当にそうだよな、と思いました。

学校の勉強で子どもたちは楽しむわけでもないし、ラディカルにものを考えるわけでもないし、複眼的になるわけでもない。ただみんなが同じフィールドに並んでテストを受け、点数化、格付けされるがままになっている。それと同じことが映画やコスプレなどの小さなサブカルチャー分野においても起きている。ただ楽しむのではなく、知識や技術を身につけ他人と競争し、上位者が下位者に対して威張るんですね。

サッカーのワールドカップが日本で行われた時だったか、「にわか」という言葉が出てきましたよね。それまでサッカーに興味のなかった人が、突然テレビでサッカーに夢中になって、あの選手がどうだとか言い出す。そういう人々を古参のファンは、最近ファンになったばかりの奴という小バカにしたニュアンスで「にわか」と呼ぶわけです。そして、「お前らにはサッカーを語る権利はない」と。古参のファンはニューカマーに対して意地が悪いんです。

■緊張していて、怯えていて、キョロキョロしている

これはおかしいと思う。新しいファンが入ってきたんですから。「私たちの楽しい世界にようこそ。一緒に盛り上がろう」と歓迎し、「こうやって見るともっと楽しめるよ」と見方を教えてあげればいいのに、「こっちは20年も前から応援しているんだ。昨日今日見始めた人間がサッカーを語るな」と押さえ込みにかかる。

そういう言い方がまるで批評性のある言葉のように、社会のあらゆる分野で口にされる。この分野に昨日今日参入した人間は何も言わずに、おとなしくしていろ、と。そんな禁圧が職場や学校だけでなく趣味の世界にまで蔓延している。

だからサコ先生の「君たちはいつ楽しむんだ、いつだらだらするんだ!」という視点は眼から鱗でした。あの人たちって、息苦しいな、気持ち悪いなとは思っていたけれど、この気持ち悪さは不自然さから来ているんだと教えてもらった。だとしたら、日本社会はすでにかなりおかしくなっている。だからサコ先生の本を読んで以来、ことあるごとに「とりあえずみんなもうちょっと、だらっとしない?」と伝えているんです。

日本人は過緊張ですよね。緊張していて、怯(おび)えていて、キョロキョロしている。常に格付けや査定に備えて、低いスコアをつけられて排除されるリスクに怯えている。これは中高生から大人に至るまで全世代に当てはまります。

サコ先生の「君らは何をやっているんだ?」という一喝は本当にラディカルな言葉だと思います。一喝するだけでいいと思うんですよ。「君らの見ている世界は狭すぎる、世界はもっともっと広いんだ」と教えてあげるだけで、日本の若者はずいぶん救われるのではないかと思うんです。

■自分がいかに遊んできて、楽しくやってきたか

内田樹/ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)
内田樹/ウスビ・サコ著『君たちのための自由論 ゲリラ的な学びのすすめ』(中公新書ラクレ)

【サコ】ありがとうございます。物事にはあらかじめ定義がある、とみんな想定しているんですよね。その定義に合わせているし、向かっている。例えば「エリートとはこんな人だ」と答えが用意されていて、エリートになるためにはその条件を満たさなくてはならない、と誰もが思っている。

そしてこれは組織的に行われるのです。ある組織のリーダーシップ研修に呼ばれた時、そう感じました。先方は私が学長だからリーダーシップについて語るには適任だと思ったのでしょうけれど、まあ間違いでしたよね(笑)。

その後で私が伝えたのは自分がいかに遊んできて、楽しくやってきたかということ。リーダーにはコミュニケーション能力が必要だし、良い悪いの判断もできなくてはならない。そういうことを経験していない人がいきなりなれるものではありません。

----------

内田 樹(うちだ・たつる)
神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。2011年、哲学と武道研究のための私塾「凱風館」を開設。著書に小林秀雄賞を受賞した『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、新書大賞を受賞した『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の親子論』(内田るんとの共著・中公新書ラクレ)など多数。

----------

----------

ウスビ・サコ 京都精華大学 教授
1966年マリ共和国・首都バマコ生まれ。北京語言大学、南京の東南大学等を経て、京都大学大学院工学研究科博士課程修了。博士(工学)。2018年4月~2022年3月京都精華大学学長。アフリカ系として初めて、日本の大学の学長になった。社会と建築空間の関係性について様々な角度から調査研究。著書に『サコ学長、日本を語る』(朝日新聞出版)などがある。

----------

----------

稲賀 繁美(いなが・しげみ)
京都精華大学 特任教授
1957年東京都生まれ、広島県育ち。東京大学教養学部フランス科卒。同大学大学院比較文学比較文化専攻。フランス政府給費留学生・パリ第7大学博士号。三重大学助教授を経て、国際日本文化研究センター副所長、総合研究大学院大学教授・研究科長。2021年より京都精華大学国際文化学部勤務。著書に『蜘蛛の巣上の無明 インターネット時代の身心知の刷新にむけて』(編著、花鳥社)などがある。

----------

(神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長 内田 樹、京都精華大学 教授 ウスビ・サコ、京都精華大学 特任教授 稲賀 繁美)

この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください